文化講座
掌の骨董142.美濃古陶«桃山時代・初期瀬戸黒茶碗の『黒の美学』について»

瀬戸黒茶碗
この連載の第56回目になりますから、今から86回前、7年と2ヶ月前に「瀬戸黒茶碗」を取り上げました。
昭和5年の荒川豊蔵さんによる「古志野窯跡(牟田洞古窯)」発見当時は荒川豊蔵、加藤唐九郎、北大路魯山人などの著名人が美濃のさまざまな窯跡を調査して、美濃の古窯発掘ブームがありました。その後長きに渡り、大萱近くのゴルフ場のあたりの街道沿いにゴルファー相手のトタン屋根の小屋が軒を連ね、志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒作品の貴重な陶片を大量に安く売ってました。私も通りがけに、安いので、いくつかの瀬戸黒茶碗の陶片や織部の陶片を買ったことを書きました。

以前、第56回目掲載の瀬戸黒茶碗(完品)
その時の陶片を使い、後に瀬戸黒の茶碗を復元した話も書きました。今回の瀬戸黒茶碗が茶碗としての「黒」を用いた最初期の作品と考えられますし、信長に仕えていた利休は、信長が産業育成と自身の好きな茶道のために力を注いだ美濃陶芸を、利休は自分の茶道の完成に使いたいと、いわば二人の目的は一致してました。信長と利休は、志野(当時は『白瀬戸』と呼んだ)、織部(当時は『青瀬戸』と呼んだ)、そして、前回掲載しました黄瀬戸、さらに今回の瀬戸黒茶碗など、新しき国産陶器の開発に共に力を入れたのです。
しかし、次第に利休は「黒茶碗」を作り、使い、派手な世界から身を引き始めるようになりました。それはなぜか、「黒の美学」とはそもそも何なのか、について今回は考えてみましょう。

やっと指先が入る高台の低さ
◎隣り合った生と死の世界
戦国の世は、明日の命さえわからない戦いの日々でした。まして戦場を疾駆する武将は、戦いとなれば、明日どころか今日の命もまったくわからない、生と死の狭間に生きていたのです。
こうした時代に織田信長は、千利休を師として茶道に力を注ぎました。信長には、茶道をある政治的な目的で使うという意識が芽生えていたのです。すなはち、茶器の「価値」を上げて、限度のある土地に代わる戦の恩賞、報奨として「茶器」を与える、その価値を嵩上げしたのです。さらに刀剣鑑定家の本阿弥光悦に命じ、刀の価値を上げて、鑑定書に価値を書いた「折り紙」を新たに発行し、名刀をさらにランクアップさせて、価値を権威付けして、ランク付けし、特権化したのです。

黒の荒れた肌合いの美
茶道具を利休による「極め」にて、刀を光悦に同じ方法で目一杯価値を上げて行きました。信長はそうした、自らがのめり込んだ天下の「茶道具名品収集」に熱中して、本能寺で博多の茶人、島井宗室の持つ天下の名茶入れ「楢柴肩衝」を手に入れたく、護衛を手薄にしてまで京の本能寺に急いで出て来て「本能寺の変」に遭遇してしまいました。
本能寺の事件は後の話になりますが、茶道を今でいう信長株式会社の「取締役会」を兼ねるような会にして、戦で頑張れば「茶会」に参加させ、そこが「取締役会」を兼ねる集まりでもあるという「武士のたしなみ」の極地、特別な階層の「頂点」を創設したのです。信長の、すべてを経営に直結させる意識は現代に通じる、「茶道」をいかにも信長らしい合理的な仕組みと捉える、新しい考え方といえます。
この茶道の特権化によって、茶道をたしなむことができるのは、ごく一部の人間に限定されたのです。茶道をたのしみたければ、もっと仕事に励めということでした。秀吉は、その「茶会」に出たいために、必死に戦で功を立てるように頑張ったようです。

枯れているが、美しい釉調(侘び)
信長はまた南蛮文化にも着目しました。自分も異文化の服装をたのしみ、西洋式の甲冑を身につけたりしました。
信長の、新しいもの、西洋の合理性に対する許容度は、きわめて高かったのです。有効、有用であれば、何でも使う。
それは、信長には過去の権威を否定し、新しく、自由で、合理的な世界を構築するための「道」を意味していました。キリシタンの布教を許したり、セミナリオという神学校を許可したり、力あればアフリカの黒人を側近に仕えさせたりもしました。ちなみにこの黒人は、本能寺の変でもよく戦い、信長の恩に報いたといわれます。
安土には現在、信長が築いた天守閣最上層が復元されています。この建物が、あの高い城址の一番上に作られたのですから、金箔の張られた瓦と合わせて、それは凄い眺めであったことが、容易に想像できます。信長の築いた琵琶湖東岸の安土城の豪華さは、当時の最先端文化の凝縮でした。

違う「枯れ味」(寂び)
秀吉が権力の頂点にあったころ、黄金の茶室が作られます。この茶室の制作に利休が関わったのは確実で、秀吉と利休の蜜月期間の出来事と思われます。秀吉は皆を驚かすために作り、利休は夜の茶会、夜噺の茶会のために造りました。
◎利休が求めた反秀吉、反権力へのダンディズム
利休の茶道は、信長が路線を引き秀吉が継承した「特権階級の茶道」から、次第に反対の、大衆の茶道へその「舵」を切り始めていきます。そして、次なる新しい反対の世界を構築するのです。それは、かねてから利休が胸の内に秘めてきた、まったく新しい「侘び寂び」の茶道でした。利休はこの新しい茶道の体系化に、残りの人生のすべてをかけた。これが利休のたどり着いた、茶道の完成へのスタートになったのです。

楽茶碗の創始「長次郎黒楽茶碗」
「侘び」「寂び」の美学は、利休の師である武野紹鴎や、紹鴎が師と仰ぐ村田珠光によって、すでに確立されていたものですが、北野の大茶会を機に、利休は信長、秀吉路線の茶道から離反する、貧富や身分の差をなくした茶道の現実化に動きはじめたのです。
豪華、華美に対する離反。簡素・閑寂への志向。金から黒への志向。唐物から和物への志向。これは利休による、秀吉に対する「謀反」そのものといえる反逆です。そのきっかけは、秀吉が言うことを聞く、博多の茶人、島井宗室*に傾斜していったことも、ひとつのきっかけだったかもしれません。堺の代表茶人利休から、博多の代表茶人島井宗室へ、時の貿易の流れもそのように変わっていったのでしょう。
朝鮮への出兵が、秀吉の頭にはあったのです。利休の、孤独の中における自己の「茶道」の完成。「侘び」「寂び」はそうした時代の背景と、秀吉、利休というたぐい稀なる政治家と芸術家の、微妙な意識のずれから生まれた美学だったのです。
しかし、考えてみれば、わびしさ、さびしさを美学としたものが、秋草の美学としてすでに平安時代に存在しました。秋のさびしい風情を「あはれ」と表現した美学です。平安の美学は室町時代にも強い影響をおよぼし、さらに江戸時代前期の琳派*にまでつながります。利休の美学の特徴は、信長、秀吉の華麗・豪奢の美の対極から生まれたものです。すなはち豪奢に対する侘び、奢りに対する侘びとなります。さらに権力に対する侘び。俗なる権威に屈服しない芸術家精神を、彼は死をもって守ったともいえるのです。

「李朝(朝鮮)」白磁茶碗の「美しく貫入の入った」、使い込まれた、ひなびた味わい。
利休好みは伝統的には美濃茶陶から楽に引き継がれ、利休好みの瀬戸黒の茶碗は豊かさを出した侘意匠がされて、黒楽茶碗として発色して、特に「楽初代長次郎」に利休好みが継承され、味わいがよく出ています。そうした先駆けをなしたのが、今回の「瀬戸黒」ということになります。
*島井宗室 しまいそうしつ・近世初期の博多の茶人。1539~1615年(天文8~元和1)島井家は、古くから豪商で、九州全域の諸大名と交流を持っていた。宗室は、朝鮮貿易で巨利を得て、茶器を介して織田信長、豊臣秀吉とも親交を持つ。堺との交流の中で茶道にも通じた。
*琳派 りんぱ
桃山時代後期から近代まで続く芸術家の流派。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展した。やまと絵を中心とした絵画、書や陶芸など総合的な創作活動を行い、華美な装飾性を特徴とする。

今回の黒茶碗の釉薬の深い味わい。
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