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インターネット公開文化講座

文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董34.美濃鉄釉流掛小皿(桃山時代)

 この作品は直径116ミリ高さ26ミリの小皿です。後に述べる美濃独特のもぐさ土の轆轤仕上げの作品です。陶磁器の故郷とされる美濃地方は土岐市を中心として発展した古くからの窯場です。明智光秀の主筋とされる守護代土岐氏の統治する地盤であり、後に齋藤道三から信長、秀吉、家康と戦国時代の歴史舞台の中心にあたる重要な地域なのです。中央である京都に近く、要衝の場所を占めて栄えました。広い肥沃な濃尾平野が続き、長良川の水運も寄与した土地柄でした。古墳時代から須恵器が各所で焼かれ、また美濃は刀剣の五大産地の一つでもあり、火の技術にたけた技術集団が古くからいたこともこの地方の特色となっています。
 平安時代に栄える有名な尾張の猿投山西南麓に発展した釉薬の掛けられたやきものは貴族たちの人気を得て、発展して一大技術集団を形成しました。いわゆる「猿投焼」です。平安から鎌倉時代には貴族文化から武家文化への大きな転換があり、文化の様式、形態、風俗、習慣、好みが大きく変わりました。洗練された美術品は武士に似たいかつい無骨な形に変わってゆきました。また常滑に代表される六古窯の発展にみられるように、肥料革命すなわち焼き畑農業から肥の肥料に転換した為、肥を保存する大型の甕の必要が一挙にあがり、貴族的な作品は影をひそめてゆきました。


肥などを入れたとされる常滑の大甕(愛知県常滑市立陶芸研究所蔵)

 猿投を引き継いだ瀬戸が北条氏に仕えて生産したため、かろうじて高級陶器の命脈が受け継がれましたが、1333年、新田義貞の鎌倉攻めによって北条氏も滅亡し、瀬戸の陶工も自活の道を探る運命となりました。鎌倉時代が終わり、戦乱の時代に向かう厳しい時代でした。後に食べるに困った瀬戸の一部の陶工が土岐の一族に雇われて、美濃への移住をはたしたのは1436年永享8年のことです。水野家に残された古文書による瀬戸の陶工の美濃への移住です。これによって猿投伝統の古瀬戸の技術が美濃に移り、後に瀬戸黒、志野、黄瀬戸、織部に発展してゆきます。


見事な釉薬の変化を見せる、桃山時代の瀬戸黒茶碗(修復済)

 志野という名前は明治時代に命名されたとされ、古くは白瀬戸といわれていたようです。織部も明治時代についた名称のようで、古くは青瀬戸と呼ばれた可能性が高いです。青は昔、緑色のことを指し、いわゆるブルーは藍といっていました、瀬戸という名称を重視したのは土岐氏のようです。瀬戸の困った陶工を美濃に誘致したのは猿投伝来の古瀬戸ブランドを安く買ったようなもので、「瀬戸」というブランドを前面に出したのもそれが理由と考えられます。美濃に「瀬戸」の名称が残っているために現代茶人たちの間で混乱があったようです。なぜ美濃のやきものに、瀬戸黒や黄瀬戸のように瀬戸の名が残るのか、理解できない方が多くおられましたが、このような理由からなのです。


愛陶家垂涎の黄瀬戸六角盃(桃山時代)とその裏側高台の真ん中の輪トチン痕
黒く焦げているのが真作とされます。下の大きな泡痕は釉薬の沸いた痕です。

茶道の中の美濃作品
やがて桃山時代に美濃の作品が急速に台頭して、中国茶碗から国産茶碗への変化、すなはち茶道の道具の価値転換がありました。その背景には大きな理由が2つあります。
① 中国茶道具は遠路命がけで運んだため、極めて高額であること。
② はじめから高額な中国茶道具を廃して、利休の眼で国産の茶碗の名品を選ばせて、国産茶碗に高額な価値を付与した。
信長は日本統一間近であり、得られる土地が新たに少なくなりつつあったのです。土地で結ばれた封建領主としての権威を守るために、茶道具と刀剣の価値を上げ、それを恩賞代わりにすることによって急場を凌ごうと考えたようです。朝鮮出兵はその延長線上に考えられた信長の戦術でした。後の天下人、秀吉も土地がなくなり、信長の方針をまねて朝鮮へ出兵します。その侵略戦争の失敗が秀吉政権の致命傷になり、秀頼、淀君から大名たちの心が離れていき、大阪夏の陣になだれ込んで崩壊します。家康の江戸の身分制度の確立、いわゆる士農工商の身分制度が桃山茶道を崩壊させ、美濃のやきものの崩壊につながります。商が士を教える茶道は終焉し、士が士を教える茶道となり、そこに小堀遠州による武家茶道が始まりました。また美濃に替わり新たな「遠州七窯」の作品が茶道具の中心をなしてゆきます。商人茶道好みの「美濃陶器」は捨て去られたといえるのです。

もぐさ土について
もぐさ土は桃山時代の美濃陶芸を語るうえで、欠かせない大切な鑑定ポイントです。写真ですが、優れた初期の牟田洞古窯と思われる志野陶片がありますので、観てください。


伝・牟田洞古窯の陶片

 とろりとした柔らかいクリーム色の土味が特徴です。土そのものは名前の通り、もぐさのようにごわごわした粗めの土で、なかなか扱いにくい土とされます。桃山時代からの貴重品で、現代では採れなくなったといいます。

美濃作品の簡単な鑑定方法
もぐさ土の作品は古い美濃の高級作品に多く使われています。後の織部や大量に焼く元屋敷窯などでは五斗蒔土が多くなります。五斗蒔土は元屋敷周辺から採取される土で、やや硬く、色もやや鼠色をした土が特徴です。
 この土ともぐさ土の識別は美濃作品を識別する大切なポイントです。
 さらに時代を比較的簡単に識別する方法に高台と器の見込みに付いた「目跡」があります。これは朝鮮陶芸、唐津陶芸との関連もありますが、土味で判断します。それがもぐさ土と五斗蒔土で、美濃作品を識別するためにも特に重要なのです。

 重ね焼きの痕は大量生産に移行した後の作品に付きます。窯の空間を利用して多く焼くために工夫された方法で、朝鮮半島、中国大陸などで古くから工夫されてきた伝統的な方法もあります。
 やきものと同じ質の土を団子状にして作品と作品の間に挟む方法を「胎土目積法」(たいどめづみほう)といいます。美濃の桃山時代では多くが三角円錐ピンとドーナツ形をした輪トチンを使います。

  
三角円錐ピンを使った実例とその痕

輪トチンを使った実例

桃山織部徳利の底の輪トチン痕 黒く焦げている。

皿などの中心部に3点の痕があれば円錐ピンによって造られたものですから、おおむね桃山時代の作品と類推することができます。

 骨董市や骨董店、古美術店などで実戦的に確認したり、最初であれば店主から教えていただいた後で購入したりする方が間違いないでしょう。

掌(てのひら)の骨董
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