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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董28.チベット・ガネーシャ小石像


ガネーシャ像

 今年の桜は天候が良かったせいか、長く咲いていてたくさん楽しめました。靖国神社や千鳥ヶ淵は何といっても桜の本場で、皇居を背景とした桜の景色は最高ですね。
 桜といえば、文学的にはいろいろなことを思い出しますが、とりわけ私は良寛の辞世の句をいつも思い出します。

 「散る桜 残る桜も 散る桜」

 桜は「潔い死」の象徴にもなった歴史がありますが、この良寛の句は人の世の無常観を自然の中の一コマに凝縮して、しかも考えさせて余韻があります。


日本美術院・安田靫彦画伯の良寛への想いのこもったすばらしい画像

 そろそろ花びらが舞い始めた頃の日曜日に、有楽町の東京国際フォーラム・大江戸骨董市に出かけてみました。まさに春爛漫、なんとも気持ちの良い日でした。しばらくご無沙汰していた骨董市ですが、親しい友人の骨董商も出店していました。彼が今年の2月に軽い脳梗塞で入院していたと知り、見舞いにも行けなかったことに胸が痛みましたが、実を言うと私も2月から4月までに3回心臓のカテーテル検査や手術を受けたりしていたものですから、話もまたはずみ、お互いそれなりに歳をとったと実感しました。

 できることなら、「良寛さまのようにありたい」と私はいつも思います。それは良寛がこう言っておられるからです。
 「人間は死ぬときは、死ぬのがいい。しかしそう思っているとなかなか死なないものなのだよ」と。人を喰ったようでいながら楽天的。人生に達観した良寛らしい、私の好きな言葉です。しかし良寛は死の際に「死にとうない」といったとも伝えられています。良寛最期のお言葉については様々な説がありますが、仮に「死にとうない」といわれたとしても、これもまた、人間としての本当の姿ではないかと思うのです。元気な時は「人間は死ぬときは、死ぬのがいい」といいますが、やはり本当に死を前にすると死にたくないのは人情でしょう。あるいは死を悟っている良寛さまはわざと逆のことをいったのかもしれません。はたしてどちらが本当でしょうか。

 人生50年といわれた江戸時代後期に良寛は74歳で亡くなりました。今のように進歩した医療のなかった当時としてはかなりな長生きだったと思います。死因は直腸ガンらしいとのことでした。

 もう一つ良寛には辞世の句とされるものが残されています。

 「裏をみせ 表をみせて 散るもみじ」

 良寛が愛した日本の自然の風景である紅葉。「同じ散るにしても、いい部分、悪い部分を見せながら、一生懸命生きてきた人生に悔いはない」という、良寛の散り際をもみじにたとえて描いたこちらの句が私は更に好きです。「私は今みなさんより先に死ぬけれど、あなたたちも遅かれ早かれ死ぬのですからね・・・」という桜の句よりオブラートがかかっていて良いと思います。それは死という真実のことをズバリと指摘されたわけですから反論のしようもないだけに、心にずしりとくるわけです。こんな風に、友人や自分に「死」を意識することが多くなりつつあります。

 久しぶりに友人に会って、そんなことを考えながら骨董市を歩いておりましたら、時々のぞくあるお店に何やら小さな石の像がありました。最近はこの「掌の骨董」を連載してさせてもらっている関係で大きな作品は買わないようになり、小さなものに眼がいってしまいがちです。その石像は高さわずか8㎝くらいの小さなガネーシャ像でした。大きなインドのガネーシャは私も持っていますが、この小さなガネーシャ像の顔の不思議な力に惹かれて、つい見入ってしまいました。

 そんな私の姿を、買うのを迷っていると思ったらしい女性の店主さんが「お安くしましょうか・・?」と声をかけてくれたおかげで我に返った私は、「ちなみに、どのくらいになりますか?」と尋ね返したのでした。言葉を交わすうち、思わぬ安値に私はいただく決心をしました。簡単にバブルパックにガネーシャを包んでもらうと、小さいのでポケットに押し込み、満足して骨董市を後にしました。

 ガネーシャは、ヒンドゥー教の古い最高神で、破壊と再生の神であるシバ神と女神パールバティの間に生まれたとされ、象の頭をもった神として表されます。財産を増やしたり、現世の利益をもたらしたりしてくれる神として崇められているといいます。インドの古い神話の話は別として、この小石仏に私はなにか不思議な力を感じたのです。


インドのガネーシャ

 店の女主人は「チベットの方から買いました」と言っていました。なんだか納得できます。インドの石仏にしては小さいし、不思議なガネーシャだと思っていました。作られた時代はいつ頃でしょうか。チベットは現在中国の一部ですが、8世紀から12世紀にインドの影響を強く受けた国で、文化はまさに密教です。その後独自に発展した国です。ガネーシャは現世的な神だといいましたが、平安時代に空海によってセックスの神、歓喜天として渡来したようです。日本ではむしろ性の神としての方が有名なようです。象が2頭、男女象が抱き合っている姿です。弘法大師空海の最後の最高の教えは「理趣経」といわれ、内容は性に関する教えです。空海によるとすべての生命はセックスによって生まれてくるわけで、人間他のすべての生き物にとって、種の保存は最も重要な「摂理」であり、その意味でセックスは最も大切な営みであるというのです。本来それは透明で清く、クリアーに澄んでいるのが「性」の世界であり、空海の究極の教えとされているからです。同じ遣唐使船で中国に渡り、修行した天台宗の祖である最澄は、密教に帰依して空海にいつも本を借りて読んでいました。あるとき密教の最後の教えである「理趣経」を読みたいので貸してほしいと頼みますが、空海は「この教えだけは誤解されると困るので、お貸しすることは出来ない」とすげなく断っています。その理由としては、セックスに関する内容であることから、間違って伝えられる可能性があるということもあったでしょうが、やはり「理趣経」を最後の教えとする密教が、一子相伝の重要な教えであったからだといえると思います。性の正しい「歓喜」と種の保存を教える書が「理趣経」だったのです。ただ私は天台宗の祖である最澄ほどの人物であれば、「理趣経」を読んでも間違った方向になどいくはずもなく、それはありえないことと思うので、そこにライバル最澄に対して空海の「自分の宗教の最後の奥義は教えないぞ」というちょっとした意地を張った気配が感じられるのですが、いかがなものでしょうか。

 太陽を大日如来として敬い、大自然である宇宙、天体と合理主義を基本とした空海の教えは「性とそれによる歓喜」にもっとも大きな宗教的な意味を見出したのです。


ガネーシャの歓喜天(平安から鎌倉時代)

 さてそれではこのガネーシャ小像はいつ頃に制作されたのでしょうか。正確な年代はわかりませんが、像の裏面の時代の擦れが見事であり、そうした摩耗度と彫り方、この場合は上が円形に、そして全体はすり鉢型に彫られ、真ん中にガネーシャがレリーフ状に彫られている様式は中国の唐時代の8世紀ころの龕仏(がんぶつ)の彫り方に近いものが感じられます。
 チベットに中国・唐様式が伝播したのはそれより少し後の8世紀末から10世紀ころですから、この像はほぼその頃の作とみてよいと思います。なんとも象の鼻がかわいく表現されていながら、顔が四角く眼が厳しく、しかも愛らしく感じる微妙な陰影を持ち、耳も大きく、またお腹のふくらみになんとも愛嬌があり、素朴な蓮華座とともに、それらがこの作品の持つ最大の魅力といえるかもしれません。まさに手元に置いてこれから愛玩したい「掌の骨董」の条件を満たしているように思えるのです。

掌(てのひら)の骨董
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