愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董113.古代中国・紅山文化の「陵頻伽(かりょうびんが)」


瑪瑙製の「陵頻伽」

 今回は以前、本シリーズの第67回 2020年8月号「掌の骨董」でシリアのスフィンクスを取り上げました。そのルーツを考える上で、最近、ネットにて古代中国の紅山文化時代(紀元前4700年あたりから紀元前2900年頃)の「陵頻伽」を発見し、作品の仕上がりもすごく丁寧で、メノウの時代による劣化状態も幸い現物を手にしてルーペにて確認することができ、直接購入することができました。

 この2つの顔と姿にどこか共通する同じ雰囲気があると感じ、その表現とルーツに興味を持ち、2つを再考察してみたいと思うようになりました。


シリアのアラバスター・スフィンクス
(横45mm、高さ40mm、幅43mm)

 文化の伝播という観点から考えれば、普通はシリアから中国と考えるのが当然であり、発生の源はシリアかオリエントであることは間違いないと思っていましたが、紅山文化の歴史は古く、紀元前4700年から新しくても紀元前2900年あたりと非常に古く、エジプト盛期の「死者の書」の成立をはるかに上回る歴史があり、長い文化といえます。

 「死」という概念と「魂」の発見、人間を人間たらしめている精神性を「魂」と認識したことは、人類には大きな進歩、飛躍でした。人が死ぬと、悲しみ、「埋葬」するという概念がまさに他の動物と「人間」を分ける大きな特徴といえると思います。10万年前のネアンデルタール人が「埋葬」をした最初とされています。その後、長い時間をかけて「死」というものが考えられてきました。死んだ人はどこに行くのか、見えない「その人」は「魂」として存在するのか!? 「魂」はその人の「思い出」、「影響力」、「愛情」かもしれません。しかし「魂」が考えだされたことから「宗教」が産まれたともいえます。

 シリアの美術の大まかな歴史(紀元前3000年から2000年頃)と紅山文化はだぶる期間もあり、本作に似た作品も認められますが、はっきりとした製作年代の決め手は未だに不明です。何らかの文化的交流があったことも推測され、今後新たな資料などの発見に期待したいです。

 しかし陵頻伽そのものはエジプトに多く残り、釈による「仏教の始まり」以前の宗教的思想に基づいた作品であり「あの世・来世」を希求したオシリス信仰であることは確かです。後にBC6からBC5世紀に釈は生まれ、活動を始めたとされますが、釈は宗教家というよりは思想家であり、哲学者、「人生の求道者」というべき方です。釈は現実主義者であり、「死後の世界・あの世」については「私は死んだことがないから、分からない」と言ってます。まさに釈のいう通りで、これまで誰も死後の世には行ったことはありません。臨死体験者が言うように、お花畑のきれいな世界の「あちら側」に、亡くなった愛する人が早くこちらに来なさいと手招きしてる、こちらからその愛する人の元に行きたいが、道がないから行けない、行けなかったために現世に生還できたという体験などから想像された世界が、さらに膨らんだ話のように思われます。確かに「臨死体験」は愛する人の元に行けて、抱き合えれば、それはそこで「死」を迎え、終わりになります。本人には喜びの「死」となり、安らかな死であることは間違いありません。しかしあくまでも「死」の世界は誰も知らない「想像」の世界であり、現実主義者である釈が言うように「本当の死」を体験して「生還」した人はいないのです。ですから「地獄・極楽」の世界は善意に解釈すれば、「精神的には安楽死」をめざす宗教であり、反対から考えれば、悪事をすれば「地獄道・餓鬼道」に落ちると相手を脅かし恐怖させ、時の権力に反逆させないという政治的な思惑も臭う訳です。そうした場合は、僧侶と権力者側が結び付くことが往々にしてあります。釈の「死生観」はそうした可能性をも回避しつつ、お話されたとも考えられます。

 親鸞にとって「南無阿弥陀仏」は「絶対他力」であり、「極楽往生」は「阿弥陀如来」の本願であるとし、「自力往生」を否定しました。

 「地獄・極楽思想」は釈の考えではなく、はるか昔からの「言い伝え」の蓄積や考え、想像の展開された思想、権力者側からの「仕向け」の一つとも言えます。死は書きましたように、体験できるものではありません。誰も知らない世界なのですから、断定することは誰にもできません。釈が生まれたのは紀元前6世紀から5世紀ころとされていますが、正確な年も分かってませんが、ほぼその頃ということです。


陵頻伽の顔の拡大

 「陵頻伽」とは古代エジプトのバーという、鳥の体と人間の頭を持った宗教的、空想上の「鳥」で、道に迷うことの多い死者の魂をあの世のオシリス神に正確に送り届ける役を担うとされています。そこで過去の善行、悪行が裁かれ、その程度により地獄、極楽行きが決まります。エジプトの場合はBC16世紀ころ、すなはち有名なツタンカーメン王の少し前の時代にオシリス神を中心とする「冥界の思想」が確立され、そこにバーが登場します。エジプトの冥界を支配するのは「オシリス神」であり、「閻魔大王」のルーツと私は考えます。極楽浄土との関係でいえば、阿弥陀仏が第一に挙げられますが、阿弥陀仏は紀元100年頃の『無量寿経』により確立され、「阿弥陀経」によりインドを経由して、中国そして日本に伝わります。誰もが「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えれば、極楽往生間違いなし、という極めて分かりやすい教えで、平安後期、鎌倉時代に親鸞上人の布教により「浄土真宗」として大変信仰され、その後親鸞の子孫により室町後期、桃山時代に北陸から関西に一大宗教集団として発展しました。

 親鸞は比叡山時代大変優秀な僧で、多くの書を読み、死後の世界が有るのか無いのか、確証のない中を迷い考えたようでした。しかし、親鸞は越後流罪以後茨城にて布教、民衆とともに苦しい生活を共にすることにより、生きることさえ苦しい時代であればこそ、せめて死への恐怖をなくし、簡単な「六字名号」さえ唱えれば、阿弥陀如来様が迎えに来てくれて、歓喜に満ちた安楽な死をとげることができ、極楽浄土に逝ける、これまでつらい人生を生きてきた民衆には、せめて苦しまない死を迎えさせてあげたい、このように親鸞は流罪以後茨城にてより優しい人間に変化していったのではないかと私は考えています。「哲学者・思索家」から「宗教家」への変貌といえます。
 民衆の哀しみに寄り添う彼親鸞こそが本当の「宗教家」ではないか、私は次第にそう思うようになりました。


エジプト「死者の書」にあらわれるバー(ベルリン国立博物館蔵)

 日本の場合「阿弥陀如来」の出現はもっと新しく、飛鳥時代あたりから登場してきますが、思想的には源信による平安初期の「往生要集」(エジプトの紀元前16世紀になる「死者の書」の日本バージョン)において地獄・極楽浄土、念仏の重要性が説かれます。いわば後の空也上人、法然上人による浄土宗、親鸞上人による浄土真宗の大元に当たる著作ですが、思想的には源信のオリジナルではないといえます。

陵頻伽」の外見的特徴

①頭だけ人間で、体は鳥である。
②日本の場合、中尊寺金色堂の華鬘に、例外的に人間の胴体に手が描かれる場合がある。

 渡り鳥や伝書鳩などが何百キロ離れていても元の巣に戻るという、人間には考えられない、神がかった本能、すなはち「帰巣本能」をヒントに考え出された宗教的、文化的産物と考えられます。

 日本の奥州平泉中尊寺金色堂の華鬘(けまん)に「陵頻伽」が描かれ、日本では一番古い作品、平安時代の例として「国宝」に指定されています。


中尊寺金色堂の華鬘(けまん)に描かれた陵頻伽(バー)は切手の図案にもなった。

 私はかつてエジプトの副葬品を通して「文明」とは何か、「文化」とは何かを考えた時がありました。常に感心することはそうした王権を中心とした生活の豊かさの背景に、「死」と「再生」への深い洞察、思考、哲学が生まれるということです。現実的にもっと生きたい、幸せを享受したい、死んでも再生して、更に長く幸せに生きたいと考えることは、それだけ彼らの生きた環境が良かったということ、安定した豊かな場所に楽しい生活を営むとともに反面、ナイル川流域の熱帯地域ゆえのマラリアなどに感染して、早くから死に向かい合うことも多かったことが、ミイラの医学的検査によって判明しています。

 世界の四大文明の繁栄地域を見れば「生と死」への考察がより進むことがよく分かります。すべて温暖な地域で、食料生産面では豊かで、エジプトはナイル川、メソポタミアはチグリス川、ユーフラテス川が交わる地域、インドはガンジス川、インダス川、中国文明は黄河流域、長江流域など、大河川流域に文明が栄えました。すべて豊かな穀倉地帯であり、すなはち食糧を得るには肥沃な大地と豊かな水が必要であるということです。暑い地域で農作物の生育も早く、中でもエジプトが長期に渡り栄えたのは、歴史の父といわれるヘロドトスの言うように「エジプトはナイルの賜物」であったからです。文明・文化というものは生活が豊かでないと成立しません。それをベースに更なる思想的深化が図られます。


紅山「陵頻伽」の羽部分

 エジプトでは、ヌビア、今のエチオピアの高地の山岳地帯に降った雪が春に溶け、さらにエチオピアの肥沃な大地の養分をナイル川に運び、川が狭くなるエジプトの平地で氾濫し、長いナイル川の流域を水浸しにします。水が引きますとそこには「肥沃な大地」が出現します。人々は大変な労力を要する灌漑をする必要がなく、そこに単に麦や穀類、野菜などの種さえ撒けば肥沃な大地は豊かな穀倉地帯に早変わりします。その豊かな実りとしての莫大な富が蓄積されて、強大なエジプトのファラオ政権が成立し、彼らに更なる富と経済力、武力を与え、長期に渡る文明、文化をもたらしました。メソポタミアも同じです。ハンムラビ王やソロモン王のような賢人や哲人が現れ、その叡智はあまねく人々に降り注がれました。メソポタミア地方から侵略、征服してインドを支配したインドアーリア人の血をひくとされる釈一族もそうしたメソポタミアの思想的叡智を継承しているといわれます。それも経済力に支えられた「豊かさ」と風土があってこそのなせる業といえます。

 さて話を元に戻します。そうした経済力、支配権力を背景に「人間にとって不可避な死」に対する考察は、更に想像的、地獄・極楽の背景には人民統治、すなはち自己政権に反抗する「悪業」を排除するという政治的なる部分も加わり、多方面への深化をとげて行きます。

 この「陵頻伽」の仏教的なルーツは、宗教的、思想的にはメソポタミア、エジプト、広く「オリエント」と考えられますが、今回新たに見つけました同じ時代の中国「紅山文化」にもあるとすれば、その文化の伝播、年代を比較考証しながら考えることも大変重要にして、興味あることのように思われます。


鳥形玉器

 紅山文化につきましては「2024年3月号 掌の骨董110回目の「古代中国初期・紅山文化時代の鳥形玉器について」で「幼鳥つばめ」らしき石製品を考察しましたが、今回も「鳥」であり、鳥の神性として同じ意味を持つものが多いことも以上の傾向を表してるものと考えられます。

 紅山文化は紀元前4700年頃から紀元前2900年頃に栄え、本作品の紅山瑪瑙陵頻伽の製作推定年代もその頃であり、シリアのアラバスター製のスフィンクスの製作年代も前回考察の通り、やはり同じ年代と考えるのが妥当と思います。

 エジプトで「死者の書」が生まれたのは、紀元前16世紀ころとされ、「死の儀式」が完成された時期と考えられます。しかし、その前段階の思想的形成期はかなり古く、根源的ないように思われます。死からの「再生・復活」への願望は人類の一番古くして、しかも切実な願望といえるでしょう。

 エジプトでは死後の世界でのエネルギー(魂)を、「カー」と考えました。生前の魂のエネルギーが「バー」で、死後の魂がカーというように分けて考えました。ミイラは現在も来世も魂の存在を可能にし、再生するためには腐敗しないで肉体を保存する必要がありました。永遠にミイラで保存するのはそのためです。


横縞紋様の美しい出光美術館旧蔵品のアラバスター小壺の胴部と下写真の今回の瑪瑙の足部分の縞模様の類似

本作の縞瑪瑙

 本作品の材質のメノウは世界的に産出し、縞模様があるものを「アゲート」、縞模様がないものを「カルセドニー(玉髄・紅玉髄)」というように分類され、美しい紅玉髄は特にファラオも装飾品として愛用していました。私はアラバスター製品の中でも、水平の縞模様がエジプトでは最高権力者の副葬品に使われたことから、最も重要なものであったのではと考えてます。そうした考え方はあるいは縞瑪瑙の神秘性から考えついたものかもしれません。常滑や渥美焼の「三筋壺」もそうした古代オリエントの副葬品の思想を反映しているように私は思います。

 さらに古代エジプトでは雄羊(バー)はエジプトの経済的根幹をなす、ナイル川流域の広大にして重要な農業神でもありました。カルナック神殿の参道にたくさんの羊の石像がたち並びます。それは牡羊バーが「魂」のバーと同じ発音だったために同一、神聖視されるようになったと考えられます。

 冥界の王オシリスの妻イシスとの間に生まれたホルスもハヤブサ神であり、鳥です。またはギリシャのフェニックス(不死鳥)のモデルともいわれます。とにかく「鳥」が多いのです。


ホルス神像(カイロ博物館所蔵)

 これは重要なことで、方位の神「四神」すなわち、朱雀(すざく)、青龍、玄武(げんぶ)、白虎のうちの朱雀がそれに該当し、大切な南の方位を守る象徴となります。都の朱雀大路、朱雀門という名前に使われています。手塚治虫の「火の鳥」も朱雀、すなはち不死鳥、フェニックスを扱った作品です。赤い火の玉、すなはち太陽→南→永遠→不死と考えられたのでしょう。ラー(Ra)は、エジプト神話における最高神、王であり、語源は「Ra」(太陽)です。

 ツタンカーメンの副葬品に描かれた太陽神ラーまたは不死鳥は中国では鳳凰となります。すなわち大鳥が鳳となるのです。ここで思い出すのが、東南アジアで盛んな闘鶏です。闘争する鳥獣は中国では神聖な神獣に変化するようですが、羽の長い鶏は鳳凰の原型とも考えられます。尾長鶏のように優美な長い羽と尾をもった鶏もいるのです。フェニックス、朱雀、不死鳥の姿を考えるに、赤のイメージは孔雀ではなく、闘争心のある鶏、軍鶏(シャモ)だったのではないかと考えられます。さらに赤色は火星、マルス、すなはち軍神であり、朱雀は太陽であるとともに、闘う鳥をイメージさせます。日本では平安時代から闘鶏が始まったとされ、神事の一環として今日まで伝えられています。

 こうしてこの今回の作品を考えますと鳥の長い歴史と信仰の一端が垣間見えてきます。中国において「鳳凰」は永遠の命、すなわち「寿」を意味した長生きのシンボル、「龍」は権力と皇帝の力のシンボルなのです。


太陽神「アテン」の光(カイロ博物館蔵)

 先に書きました奥州平泉金色堂の国宝華鬘に描かれた「陵頻伽」も初代藤原清衡の来世の幸せを祈り、製作されたものでしょう。金色堂に納められた三代藤原秀衡の遺体は平安後期から腐らずミイラ化して残っています。防腐処理がなされたとも考えられてます。まさに復活再生の思想、具体的なミイラ製作方法も日本にも伝わっていた証拠といえるでしょう。

 私は今回の紅山文化作品の「陵頻伽」を観察しますと、シリアのアラバスター製スフィンクスの顔が良く似ており、当然のことながらシリアからシルクロードを伝わって古代中国の紅山文化に伝わった来世の考え方と思いますが、あるいはこの「陵頻伽」が今のところ最古のものである可能性は高く、中国に思想的な源がある可能性も否定することはできません。この瑪瑙製の「陵頻伽」は宗教のルーツを研究する私にとり一つの重要な発見と考えてます。


本作・陵頻伽

参考文献
●TUTANKHAMUN THE GREAT MYSTERIES OF ARCHAEOLOGY by R.ROSSI

※こちらをクリックされますと、同じ著者の「旅・つれづれなるままに」にリンクします。

掌(てのひら)の骨董
このページの一番上へ