愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董101.山田寺千躰仏と古瓦類断片(飛鳥時代後期~白鳳時代)


山田寺遺物の千躰仏と古瓦類断片(飛鳥時代~白鳳前期含む)

 前回は連載100回記念ということで北大路魯山人を取り上げ、おかげさまで大変好評でした。ありがとうございました。さて、魯山人2回連載の後半は、次回かその次に掲載する予定です。


滅びの時間をひたすら重ねる山田寺跡

 今回は古代史において私が一番好きな飛鳥時代から白鳳時代の寺院の中でも取り分けその歴史に興味を持っております「山田寺」とその仏教遺物について書いてみたいと思います。

 山田寺といえば現在は興福寺宝物館にあります国宝「山田寺仏頭」(白鳳時代)がとりわけ美しく、威光を放って有名です。


国宝・山田寺仏頭(白鳳時代)

 山田寺を創建したのは、蘇我倉麻呂の子の蘇我倉山田石川麻呂(生誕不明~死亡西暦649年5月)で、中大兄皇子、藤原鎌足と共に大化の改新(皇極4年(645年)6月12日の乙巳の変)に加わり功を立てた有能な人物であり、官位は右大臣でした。蘇我蝦夷が伯父にあたり、大化の改新で暗殺された蘇我入鹿は従兄弟に当たるといういわば当時のトップの名門蘇我氏の貴族であり武将でもありましたが、天皇をも殺す蘇我蝦夷、入鹿親子のやり方に批判的で、「大化の改新」に加わり、いわば蘇我氏を裏切るかたちになりました。そのためか中大兄皇子後の天智天皇とその家臣に、蘇我一族すらを裏切る石川麻呂の「野心」、すなはち皇位を狙っているのではないかと疑われ、石川麻呂一族が山田寺にて自害するという悲劇が起きました。まったくその気のない、無実の石川麻呂であった上に、忠誠の誓いに娘を二人までも中大兄皇子に差し出しても疑われた蘇我倉山田石川麻呂はさぞかし無念であったかと思います。

 疑い深い中大兄皇子やその部下にしてみれば石川麻呂は滅ぼしたライバル蘇我入鹿の親族であり、さらに勇猛で油断がならないということも謀殺の理由であったでしょう。いわば「石川麻呂の役目は終わった」という意識と「皇位を狙う可能性のある危険な男は早めに消そう」という判断があったと思われます。


未完成の金堂前で無念の自害をしたと思われる拝殿石付近

 藤原氏の歴史を書いた『藤氏家伝』によると、石川麻呂は「剛毅果敢にして、威望亦た高し」と評される傑物であったとされるだけに、疑心暗鬼、疑い深かすぎる中大兄にしてみれば、万一裏切られたら殺されると思い、ならば殺られる前に殺るをモットーとした中大兄皇子は警戒し過ぎたともいえます。しかも、石川麻呂には全く謀反の気はなかっただけに、様子を探っていれば十分理解できるはずでした。この謀殺はやはり蘇我氏という立場全体に及ぶ不信感から計画的に行われたものと思われます。

 製作途中の金堂前で薬師如来にすがる無念の想いの最期であったのではないかと思われます。


山田寺経蔵・宝蔵跡付近

 その後、石川麻呂の疑いは晴れ、中大兄皇子は自責の念からか、あるいは怨霊を恐れたからか、皇室の援助を続け、石川麻呂の死後14年後の天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められました。壬申の乱の動乱期を経て、天智天皇の意思は娘の鸕野讚良(うののささら、後の天武天皇の皇后、持統天皇)に引き継がれ、再度の中断をはさんで天武天皇2年(673年)に心柱を建て、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われます。塔の造営開始から心柱が建つまでに10年も要しているのは、唐と百済の戦いに介入した白村江の戦いや古代最大の戦いである壬申の乱などの混乱で工事が頓挫したためと考えられます。寺院全体の完成は天武天皇7年(678年)「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)3月25日(石川麻呂の死後44年目の命日)にはその丈六仏像が開眼されています。この仏像は講堂に安置された薬師如来と考えられ、現在は頭部のみが奈良市・興福寺宝物館に保存されて「国宝」指定されています。


仏頭正面写真

 このように、寺の造営は長い時間をかけられて天武天皇、持統天皇に受け継がれ、白鳳時代後期の685年に完成しました。建設から44年という、4が2回、すなはち「死に」という縁起の悪い年数は普通避けられます。怨霊のこもるとされる「高松塚古墳」では壁画に4人朝賀の儀式図を4場面描き呪い、死を4回掛ける執念深さを思わせる壁画(梅原猛「黄泉の王・私見高松塚」)と同じ背景をみる思いです。娘の鸕野讚良に引き継がれたほど、石川麻呂の怨霊は中大兄皇子にとり怖い存在だったということでしょう。

 しかし中世以降は主なき寺として衰微荒廃し、石川麻呂の怨霊は鎮まらなかったようで、この薬師如来像は平重衡の乱で焼け落ちた興福寺再建のために持ち去られ、そちらの仏像として再鎮座され、更に三好松永の乱(永禄10年・1567年)で再び燃えて、ついに溶け落ち、かろうじて頭部が溶ける寸前で残りました。その時以来、興福寺の基壇の下に取り置かれ、近世になりその数奇な運命をたどった「仏頭」は発見され、国宝に指定され、興福寺宝物館に安住の場所を見つけました。

 石川麻呂の悲劇にも心は動かされますが、私がこの「山田寺」にこだわるのは、あまりにもこの寺の「山田寺仏頭」と「蓮華文軒丸瓦」が美しいからです。この美により悲劇が浄化されるような美しさです。仏頭は国宝で価値は計り知れませんが、軒丸瓦は完品ですと100万円以上という「古瓦」の名品で、買いたくても品がなかなかありません。それだけに石川麻呂は己の美意識をフル動員して計画したか、あるいは後世、天智天皇とその娘である持統天皇の悔恨の情からか、最高の技術で製作されたのに違いありません。その美意識には特別に頭が下がるほど完成度が高いのです。

 「石川麻呂よ、そちの死後にはこの世で最も美しい薬師如来と寺を与えよう。だから成仏せよ」という天智天皇の声が聞こえてくるようです。


山田寺蓮華文軒丸瓦(飛鳥後期~白鳳時代)

 また、飛鳥時代後期特有の柔らかい赤土の型押しの千躰仏に漆で金箔を貼った「千躰仏」も長い時代の風雪により磨耗し、その最後の「姿」をかろうじて残しますが、華やかな創建当時とは裏腹な石川麻呂の悲劇性に感慨深いものを感じます。


頭部が欠けた型押しの千躰仏残欠。釘穴が残る。

 私は歴史にしても古美術にしても、作品の背後にある「人間くささ」すなはち人間の持つ本能である欲望、特に権力の背後にある欲望に心ひかれます。開眼供養当時の山田寺寺院内陣壁面はこれら金箔を施された、まばゆいばかりの千躰仏によりびっしり荘厳され、金堂中央に「山田寺仏頭」を頂いた、あの美しく現世的なご利益の金色の金銅・薬師如来として鎮座し、東側に日光菩薩、西側に月光菩薩がお護りしたお堂内陣はまばゆいばかりの世界であったと想像できます。まさに石川麻呂が夢にまで見て目指した清らかな理想世界であるだけ、それだけに金堂から一歩出た外界は反対の制御できない煩悩と限りない自己保存の欲望、権力闘争、性欲の世界が渦巻く世界だったのです。


創建当時の伽藍復元図

 今回取り上げました、山田寺仏教美術の遺品の中の、垂木先瓦(たるきさきかわら)は極めて珍しく、小さめの蓮華文丸瓦の真ん中に打ち付け用の釘穴が開けられていて、屋根下四方に出た垂木の先に打ち付けられた数少ない瓦です。


垂木先蓮華文丸瓦

 完成した当時は主なき寺であり、更に後の平安時代後期、平重衡の南都焼き討ちで、東大寺大仏殿や興福寺など主な寺院がすべて焼け落ち、その復興の折に、山田寺金堂に残された薬師如来が興福寺僧兵たちにより奪われて、興福寺に据えられ、更に戦国時代、三好松永の乱の折りに再度興福寺は焼け落ちて、この薬師如来の胴体は溶けて頭が落ちたのが、山田寺仏頭の波乱万丈の運命でした。打ち捨てられた同然の頭部が後に発見され、それが国宝にまでなり、ようやく石川麻呂の想いが世に思い起こされ伝わり、いまやっと安寧の時間を重ねることができました。

 私も次第に歳をとり、こうして山田寺の今は草と礎石しか残らない金堂跡に立つと、主の石川麻呂の無念の自害の姿と、本尊を興福寺に奪われ、二重に主なき悠久の時の中に荒廃して行く、無惨で悲しい寺の姿が脳裏に彷彿と浮かんでくるようです。


山田寺千躰仏と古瓦類断片(飛鳥後期~白鳳時代)

※こちらをクリックされますと、同じ著者の「旅・つれづれなるままに」にリンクします。

掌(てのひら)の骨董
このページの一番上へ