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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董1.古玉の楽人たち

 新年おめでとうございます。
 今回から「掌の骨董」というタイトルでしばらく連載して、わたしの愛する小さな骨董品たちの魅力を皆様にご紹介してゆきたいと思います。「古玩(こがん)」という言葉がありますが、手元に置いて愛玩する骨董という意味でしょうか。大きな壺などは場所もとり、家の中で邪魔者扱いされるケースもあるようですが、こうした掌にのる小さな愛玩物なら、気軽に机や本棚の横に置いたりして、日常的に楽しめそうです。わたしも若い頃は大きな六古窯の壺が好きでしたが、最近は持ち運びも楽な、こうしたかわいい、小さな骨董品に魅力を感じるようになりました。

 今回ご紹介する掌にのる古色ある六体の玉の楽人たち、彼らはいったいどこから来た楽人たちなのでしょうか?この作品の元所有者の骨董商の方はフィリピンで買いだしたものだといっていました。場所はミンダナオ島の古い街、ブトゥアン(BUTUAN)というところだそうです。ここにはいくつかの博物館があり、地元の古い墓や遺跡から発掘されたさまざまな美術品が陳列されていて、観光客に見せていたようです。しかし観光客は大半がリゾート目的の人たちで、こうした発掘品に興味のある方はきわめて少なく、そのため地元の博物館の経営は苦しかったようです。骨董商の方はそこの博物館が経営難になった時に、売り立てがあり、その時にたまたま買えたのだと話してくれました。地元の古墓から発掘されたものだそうです。


アグサン川にかかるマカパカル橋。両岸にブトゥアンの街が広がる。

ブトゥアン国立博物館

 歴史書によるとすでに秦の始皇帝の時代には現在のベトナム地域まで侵略の矛先が向けられており、10世紀頃にはすでに、ブトゥアンはベトナム南部のチャンパ王国やカンボジアの前身、シュリーヴィジャヤ王国などとの交易を行っていました。その後も中国の朝貢国になっていたようで、後には明朝の支配を受けています。11世紀にはブトゥアンはフィリピン諸島の交易・商業の中心となっていたようで、ヒンドゥ教の小海洋国家とされています。1011年頃にここの国王は特使を中国の北宋に派遣、チャンパ王国と同等の地位を手に入れて繁栄したといいます。推測するに、玉文化はアジアでは中国に古く発生していますから、今回の古玉の楽人俑六体はそうした中国の影響を強く受けた権力者の墓に副葬されたものなのでしょう。この作品が入っていた桐箱には「唐玉楽人俑六体」と墨書きされていますが、唐時代に製作されたと考えることはやはり美術的にも様式的にも大きな差が見られ、歴史的にも無理があろうと思われます。それでも、墓中に置かれた玉が古びるまでには大変な時間の経過が必要であり、唐に近い年代に遡る可能性も否定することはできません。今後、機会があれば楽器、服制からも考察してみたいと思っています。


中国・戦国時代の戦車の車輪軸受と軸つなぎ(青銅製)
 墓に楽人を副葬する歴史は古く、すでに中国古代殷王朝(商)を倒し、封建制度を確立した周王朝の流れをくむ西周の1王国の主の墓である「曾候乙墓」からは世界最大級の楽器「編鐘(へんしょう)」と石の楽器「編磬(へんけい)」が、さらに地下墓の東室、西室から演奏者のものと思われる棺が21棺、発見されました。骨はすべて若い女性の骨で、13歳から26歳くらいの年齢とされています。音楽をこよなく愛した曾候乙の死とともに、黄泉の国に旅立つ王に殉じた女性楽人たちであろうと思われます。「曾候乙墓」は1978年に湖北省随州で発掘され、当時大変な話題になりました。
 

 このように古代では王とともに殉死・副葬される人も人形も数多くあったと思われますし、実際に多くが発掘されているのです。曾候乙はいつ頃の人物かというと、孔子が死んだ紀元前479年頃に生まれて、同じく433年頃に46歳前後で亡くなった春秋戦国時代の支配者の一人と考えられています。その後、人間が殉死するケースは少なくなり、古代中国を統一した最初の権力者である秦の始皇帝は6000体以上ともいわれる膨大な軍人の俑たちに自分の墓を守らせました。いわゆる「兵馬俑」を残したのです。しかしそこには楽人は見えません。緊張した面持ちの戦闘要員ばかりで、まさに臨戦態勢にある兵ばかりです。そこに被葬者である墓主の思いと立場の違いと人間性がうかがえて興味深いものがあります。曾候乙は始皇帝とは反対の、音楽、芸術を愛する教養人、文化人だったと推測されます。

 このブトゥアンの玉製楽人たちは男性ばかりのようです。高さ77ミリ、横80ミリ、奥行き45ミリの長い玉材から六片切られ作られたものでしょう。墓の中で付着した古色ある硬化した土、いわゆるパティーナが付き、玉へ染み込み変化した風合いもよく、愛玩すべきかわいい玉俑といえるでしょう。表情も現地人らしい面持ちで、服も帽子も統一されています。

 足は正座をするように座っていますが、爪先立ちのように折り曲げられており、日本の正座とはちょっと違うようです。楽器と服制については時代を確定する意味からも時間をかけて研究してみたいと思っています。

 玉は永遠の力を秘めたパワーストーンの代表であり、中国歴代王朝初期より被葬者を悪霊から守り、再生復活にも絶大な力があると信じられてきた石です。現代でも多くの中国人は玉ないしは翡翠など貴石製品を数多く身に着けています。古来、権力者が亡くなると、即座に口、鼻、耳、肛門、性器などの穴という穴にはガラスや玉製品が呪術的意味合いから入れられ、悪霊の侵入を防ぎました。蝉など復活、再生のシンボルと考えられた昆虫の形をした玉製品は大半が口に入れられたものなのです。
 ベルナルド・ベルトリッチ監督の大作、「ラスト・エンペラー」をご覧になった方は多いと思いますが、映画冒頭の西太后臨終の場面で、彼女が息を引き取るとすかさずその口に丸い白玉を宦官が入れます。亡くなると死後硬直が始まるので、すぐ口に入れるのです。

 日本人は大半が仏教徒であり空(くう)という仏教的真理を信じ、奉じてきました。「空」とは「うつろいやすさ」「変化」という意味なのです。釈迦はすべてのものは永遠に存在することは無く、変化し続けると説きました。ですから生命である人間は必ず死を迎えます。それゆえに人間は生きていてこその「生」を有意義に平和に生きなければいけないと釈迦は教えたのです。彼は決して死後の世界の地獄、極楽について語ることはありませんでした。お釈迦様はその誕生の時に「天上天下唯我独尊」といったと伝えられています。これはこの世で一番大切なのは、今を生きているこの自分なのだ、といった意味です。決して自分が一番偉いという意味ではありません。釈迦はニーチェ、ヤスパース、ハイデッガーという20世紀の実存哲学者に遡ること約2500年前にすでに自己の生を全うすべきという実存哲学を完成させていたといえるのです。


水晶玉・琥珀玉類 特別展「法隆寺献納宝物」より転載 東京国立博物館所蔵

 さて奈良時代の正倉院にはたくさんのガラス製品が所蔵されているにもかかわらず、玉、金属、水晶、ガラス、石もすべては仏教からすると永遠不滅のもの、釈迦の教えに反するものと考えられてきたので日本では否定される傾向にありました。平安時代、鎌倉時代、室町時代を通してそれらは表舞台には出てきませんでした。奈良時代以降、日本にガラスを持ち込んできたのは桃山時代にやってきたポルトガルの宣教師たちで、信長や大内義隆あたりがガラスを初めて見せられ、かつ宣教師から贈られて感激し、後に大きな問題に発展するキリスト教の布教を許すことになったのです。
 日本人は仏教的な基準から永遠性を否定してきました。日本に玉文化、石文化、金属文化はなじみにくく、木、土(陶器を含む)、紙の文化が中心となったのは、永遠を否定するこうした仏教的な「空」の世界観からだと考えられます。また折に触れ仏教について考えてみたいと思います。

 この古玉の楽人たちは、さまざまな理由があって、今は遠く故国ブトゥアンを離れてわたしのもとにおりますが、六人そろってかつての主人を慰め、安らかな来世での生活を祈って今でも楽を奏し続けているようにわたしには思えるのです。

掌(てのひら)の骨董
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