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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董26.インダス先文化メヘルガル土偶 その魅力的で、奇怪な土偶の世界


子供を抱く土偶

 いつでしたでしょうか、もう十何年か前に「インダス文明展」を観た時にこの一連の土偶に初めて出会ったのですが、その時は奇怪すぎてじっくり観るという気持ちに至れなかった記憶があります。未知なる宇宙人を見ているようで、まだ素直にこの土偶に入り込めるほど私が熟していなかったというか、それだけのキャパシティーがなかったということかもしれませんし、興味がわかなかったというのが正直なところだったのかもしれません。

 時が過ぎて、いまやっとこの土偶に正面から向き合える気持ちになりました。
 それを機会にいくつかのこの土偶を集めてみようと思いました。インダス文明は紀元前2300年から1800年頃まで続いた世界の四大文明の一つです。有名な遺跡ではハラッパー遺跡、モヘンジョダロ遺跡があります。そのインダス文明に先立つのがメヘルガルなのです。先インダス文明ともいえる時代の土偶です。


モヘンジョダロ遺跡出土「コブ牛土偶」

「NHK世界四大文明・インダス文明展」カタロ掲載写真のコブ牛

 メヘルガルの土偶を語るうえで、やはりそののちのインダス文明との関連、影響を考えざるを得ません。後のメソポタミア文明の土偶・人形には目に貴石が入れられたので、このメヘルガル土偶にも瑪瑙や紅玉髄、ラピスラズリなどの貴石がはめ込まれていた可能性が高いです。
 モヘンジョダロ遺跡出土の遺物はなかなか手に入るものではありません。私は愛知県稲沢市の懇意の業者さんから、やっとのことで手に入れたのが、このコブ牛の土偶です。
 モヘンジョダロ遺跡出土のものは、メヘルガルの土偶のように、奇想天外な造形ではないこともあって、わかりやすいのも魅力であり、このコブ牛の土偶は後の京都八坂神社の牛頭天王に至る牛信仰の始まりとも直感できて、素直に見ることができます。芸術的でもあり単純化されたその表現力にはすごいエネルギーを感じます。またいつか牛信仰について調べて、その一端でも書ける日がくることを願っております。

 1990年代にインダス河口に近いところにドーラビーラ遺跡が発見されて話題になりました。調査した記録によりますと、ここはかつて紅玉髄(こうぎょくずい・カーネリアン)のネックレスなどを盛んにつくってはメソポタミアとの交易をして繁栄した都市遺跡だといいます。メソポタミアどころかさらに先の古代エジプトのファラオや王族にも大変人気の高かった紅玉髄はこのようにインダス文明都市からメソポタミアを経て古代エジプトにもたらされたものかもしれません。ただ、私は紀元前後ころのエジプトの工房遺跡から発見された紅玉髄ネックレスの製作途上で埋没した美しい赤色破片を持っていますから、後の古代エジプトでも製作していたことは確かです。素晴らしい紅玉髄ネックレスは菱形をずっと左右に伸ばして細くした姿をして、そこに細い穴が見事に貫かれています。長いもので12センチあり、それは大変見事な技術で作られた美しき赤い宝石です。ファラオが身に着ける宝石であるだけのことはあります。私はおそらく紀元前の最も古い時期の紅玉髄のネックレス珠を数本持ってはいますが、ファラオの身に着けたような見事な赤の紅玉髄に憧れていて、いつか一つでも手にしたいと願っています。


紀元前の玉も含まれる紅玉髄のネックレス(筆者所蔵)

 さて土偶の話に戻しましょう。私がインドの美術に興味をもって、インドを旅したのはもう13から14年前のことでした。ガンダーラの石彫美術を勉強し始めて、同時期のマトラー石仏、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院に興味を持ちました。法隆寺の金堂壁画(昭和24年に焼失)のルーツともいわれる観音菩薩の壁画がアジャンター石窟寺院にあるため、どうしてもそれをこの目で観てみたいという想いからの旅行でした。最近はまた自分の中でインド美術への憧憬が高まり、日本の平安時代に相当する11世紀から12世紀ころのチャンデラー様式の大きな寺院石仏を手に入れたり、グプタ朝の5世紀ころの寺院装飾として使われた石像彫刻を入手したりしました。これらは石ですから相当の重量がありちょっと動かすだけでも大変ですし、飾っておくにもスペースを要します。先のチャンデラー様式の神殿に彫られたシバ神とパールバティー像はおそらく70キロ以上はあるでしょう。それだけになかなか見ごたえがあり気にいってはいますが、重くて場所をとるのが最大の欠点です。


シバ神とパールバティー石仏(左から2体目と3体目)

 こうしたブッダの誕生以後、バラモン教と融合してヒンドゥー教として、インド仏教の流れの中に成立した彫刻とこのメヘルガル遺跡出土の土偶には大いなる断絶を感じます。そして、そうであるがために仏教以前、ギリシャ以前の不思議な違いになおさら魅力を感じます。


メヘルガルから出土した土偶の中で最も古いとされる土偶
不思議なことに足首が縛られています。

 考古学者はメヘルガルの年代をいくつかに分けています。その分類に従いますと、メヘルガルI期は紀元前7000年から紀元前5500年までを指し、土器のない新石器時代であるといいます。農業は半遊牧民が行ったもので、コムギやオオムギを栽培しながらヒツジやヤギ、ウシを飼っていたようです。埋葬跡からは副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどが出土しており、一般的なエジプトなどの遺跡のように男性の方が副葬品が多い特徴があります。装飾品としては、貝殻(海の貝)、トルコ石、ラピスラズリ、砂岩、磨いた銅などが使われており、女性や動物の原始的な像も見つかっています。貝の殻や付近では産出しないラピスラズリ(アフガニスタン北東部で産する)が見つかっていることから、それらの地域と交流があったこともわかります。南アジアでは最古の石斧も見つかっています。

 ここで興味ある発見がありました。2001年、メヘルガルで見つかった2人の男性の骨を研究していた考古学者らは、先インダス文明の人々がハラッパー文化の初期から原始的な歯学の知識を持っていたことを発見し、その後の2006年4月、「ネイチャー」誌は人間の歯をドリルで治療した世界最古の医療施術の証拠がメヘルガルで見つかったと発表しました。論文によると、7500年から9000年前のパキスタンの新石器時代の墓地から発見された9体の成人の遺骨において、11個の臼歯に穴を開けた痕跡があることを説明しています。

 後のアンデスのインカ帝国において、井の字形に頭蓋骨を切り開いて脳の外科的手術が行われて、骨の再生痕から患者は術後もしばらくは生きていたと考えられています。古代の呪術と医学の関係は不明ですが、こうした発想と医学的技術が考えられたことが驚くべきことです。メヘルガルII期は紀元前5500年から紀元前4800年までで、メヘルガルIII期は紀元前4800年から紀元前3500年までを指します。
 II期は土器を伴う新石器時代、III期は銅器時代後期であるとされます。艶のあるファイアンス焼(錫を多く含んだ施釉陶器)のビーズが作られるようになり、素朴なテラコッタ製の像は精密化していきました。これがメヘルガル土偶の時期であると考えられ、時期的にも納得の行くものであると思われます。女性の像は色を塗られ、その後、様々な髪形で装飾品も身につけた姿になっていったようです。女性の墓の方が副葬品が多くなっていき、最古の鈕印章はテラコッタと骨から作られており、幾何学的なデザインとなっていきました。テクノロジーとしては、石と銅でできた金属を溶かす坩堝などが確認され、II期にはさらに遠方と交易していたようです。特に重要なのはラピスラズリ製のビーズの発見で、現在のアフガニスタン北東部で産出しました。


ラピスラズリ製のネックレス

 メヘルガルVII期は紀元前2600年から紀元前2000年の間のいずれかの時点で、この集落はほとんど放棄されており、それは続くインダス文明が発展の途中段階にあったころであり、今は消滅したガッガル・ハークラー川の流れの変化などにより、広範囲にメヘルガル地方の生活の拠点が変化、移動して次なるインダス文明に移り変わっていった可能性があります。

 考古学的な土偶の始まりは、3万年前以降の後期旧石器時代にヨーロッパからシベリアにかけて骨製や石器、土製の豊満な胸、大きいお尻の女性像(豊穣のビーナス像)が盛んに製作されており、ここに起源を求める学者が多いようです。日本で最も古い土偶は三重県粥見井尻遺跡で出土した小さな女性の土偶とされ、それは約1万2000年前とされる逆三角形の体に小さな頭部をつけ、豊かな乳房の特徴を表現しています。縄文土偶の起源がそうした女性像にはじまることが推定されますが、その間約6000年の空白があり、それが直接縄文に影響を与えたかは疑問ですが、製作された事実はあるのです。約紀元前2500年から1000年あたりの是川遺跡、亀ヶ岡遺跡などの東北縄文遺跡から出土する土偶のように、何らかの外的刺激は考えられますが、日本独自の用途と形態に進化、発展したようにも思われます。

 こうした発掘考古学者たちの時代調査を背景に考えてみますと、今回取り上げましたメヘルガル土偶は大変古く、学者の設定するⅢ期すなわち紀元前4800年から紀元前3500年あたりの制作時期の設定ができそうです。日本の縄文時代の土偶と比定しますと、それはほぼ同時期ともいえます。メヘルガルから縄文土偶への年代的な差はあまりありません。12000年前の土偶も発見されていますから、その共通点としての土偶の発生については未知なる部分が多いと思います。縄文は土器の製作は今から16500年前とされ、現在のところ世界最古の歴史を誇ります。ただ縄文文化はガラスを作らなかったために、ヨーロッパ人の「文明の定義」に該当せず、世界の5大文明国にはなれませんでしたが、ヨーロッパの土器の歴史より8000年ほど古い世界最古の土器製作を誇ってきましたし、漆の歴史でも中国を抜いて世界最古の歴史があります。しかし土器から土偶に至る精神的過程は、はるかな数千年の時間が必要でした。


縄文ハート型土偶の頭部残欠(群馬県吾妻町出土)

メヘルガル土偶

写真はすべて筆者の所蔵品です。

掌(てのひら)の骨董
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