文化講座
掌の骨董118.高麗青磁菊花唐草文白黒象嵌碗
高麗青磁菊花唐草文白黒象嵌碗
今回は高貴な新羅文化を引き継いだ、高麗王朝の代表的作品について勉強してゆきたいと思います。「高麗青磁」は新羅の王朝文化を引き継いだ、高麗王朝の貴族文化の上に成立し、中国の北宋の青磁技術を継承した、極めて完成度の高い作品を成立させました。
王家の墳墓から出土した高麗青磁の素晴らしい作品
当時中国の杭州湾と朝鮮半島の南端の街、康津(ガンジン)を結ぶ航路ができており、景徳鎮や竜泉窯の技術が高麗に入って来ており、さらに最適の陶土が最南端の街、康津近辺から採れていて、焼物作りは新羅時代から盛んでした。日本の古墳時代の副葬品「須恵器」の源流の中心はまさに新羅土器で、そのやきものの歴史での影響は大変大きく、姿形が美しく、素晴らしいので、愛好者もたくさんいます。
高麗青磁が発展した12世紀といえば日本では平安時代後期で、雅な藤原貴族文化が花咲き、次第に武士である平氏に力を奪われ、平家全盛の時代を経て、さらに平氏の貴族化から源氏の頼朝に力を奪われ、衰退に向かう時代で、鎌倉時代に向かっての武家の台頭が始まろうという、そんな時期でした。雅な平安貴族時代から、いかつい武士の時代になります。
徽宗 - 根津美術館編集・発行. 北宋書画精華, 根津美術館, 2023.11. 9784930817860. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130298190227600926, パブリック・ドメイン, リンクによる
徽宗皇帝の描いた名品「国宝・鳩桃花図」根津美術館所蔵
中国はどうかといえば北宋の徽宗皇帝(きそうこうてい・1082年~1135年)の時代で、彼は政治家というより、芸術家であり、政治をないがしろにし、優秀な科挙にまかせ、むしろ文芸、芸術に過剰に力を注いだ時代でした。そのため文化や芸術は高度に発展しましたが、大切な政治、軍事は次第に力を失い、梁山泊で有名な水滸伝が成立するような徽宗皇帝の政治的空白時期を生んで、衰退の兆しが見えてきた時代でした。
徽宗皇帝は高麗で素晴らしい青磁を焼いているという噂を得て、徐兢(ジョキョウ)を派遣して調べさせました。その結果、高麗では中国に勝るとも劣らない青磁作品を作っていると徐兢は報告書を作成して徽宗皇帝に提出しました。それが「宣和奉使高麗図経」(せんなほうしこうらいずきょう)(1123年)でした。現在は写本しか残りませんが、高麗青磁の素晴らしさを今に伝えています。
北宋も古くからある越州窯という伝統ある青磁を焼き、その技術が朝鮮半島南部の町である康津に伝来して高麗青磁ができたと考えられます。また越州窯青磁は次の時代の南宋官窯の準備をし、より美しい龍泉窯作品や景徳鎮での影青(インチン・青白磁)作品を産み出したと考えられています。
素晴らしい青磁の蓋付碗
青磁は古代中国で誕生して発展した陶磁器で、紀元前14世紀~13世紀ごろ殷(商)時代に製造されていた原始青磁といわれる陶磁器が起源と考えられています。これは高い焼成温度を産み出す赤松などの樹木の灰を使用した灰釉(かいゆう)が用いられ、本来は酸素を少なく焼く還元炎で焼かねばならないところ、まだ未熟な技術で焼いたため、酸素の調整がうまくできず、やや酸化になり曖昧な色合いになった作品をいいます。こうした未熟な青磁は後に「原始青磁」とか「初期青磁」などと呼ばれて、後に未熟さ故に日本の茶道の先達である村田珠光に「侘び・寂び」の碗として珍重されたこともありました。
しかし時代の流れとともに、釉薬や窯の技術が発展し、早くは1世紀~3世紀には青く発色する青磁ができてきたとされます。
唐代中期ごろ以降、越州窯の青磁や耀州窯などが台頭し、オリーブグリーン色の落ち着いた美しい青磁は次第に「秘色青磁(ひそくせいじ)」として珍重されました。
高麗青磁の象嵌
11世紀から12世紀になると高麗王朝での喫茶文化の隆盛から、単なる青磁だけでなく、より高度な象嵌(ぞうがん)の技術が応用され、精巧な図案の作品が登場します。象嵌には白と黒、一部には赤土が使われ、全盛期を迎えます。
一時は王族の墳墓から素晴らしい高麗青磁が出土して、古美術マニアを喜ばせました。日本の美術館では、大阪の「旧安宅コレクション」を受け継いだ「東洋陶磁美術館」が中国陶磁器の名品と共に高麗青磁、李朝の優品を多数陳列しています。東京では上野の「東京国立博物館」の東洋館に、古代朝鮮・李朝作品と共に時代別に中国陶磁器も鑑賞できます。
今回の解説作品は、白黒象嵌の菊花文を三方に配し、唐草連弁文と雷紋を上下に配し、唐草文を濃密に全面に表現した湯碗の名品といえるものです。
真贋を見極める鑑定には、40倍のライト付きルーペが必要ですが、肉眼で釉薬の美しさ、いわゆる「秘色青磁」の色合いを鑑賞する習慣をつけましょう。美術品ですから、やはり感動する体験がないといけません。もちろん美を体験するには良い作品を見続ける訓練が必要であり、中には美を理解できないという方もいますが、「観る」練習により、必ず理解できるようになります。理解できないという方が多いのは「美術」という言葉に対する頑な姿勢から、解ろうとしないケースが多いようです。
古美術としての高麗青磁作品の「鑑定」方法は
①高台あたりの美しい釉薬の溜まりを観る(写真A)
②「虫喰い」を観る(写真B)
作品の角の部分に現れ易い、気泡潰れが連続したもの。
③気泡潰れを確認する(写真C)
光沢のある釉薬に出る場合のみ真作。
④貫入(細かいヒビ・写真D)
象嵌部分の色土との収縮率の違いから放射状に出やすい。李朝白磁でも同様ですが、無地の高麗青磁の場合、高台から上に縦に貫入が真っ直ぐ入る場合があり、名品に多いとされます。真贋を観る点で大切です。
⑤高台に見える、重ね焼きなどの焼き方の痕を観る(写真E)
⑥図柄の特徴を学ぶ(写真F)
この写真の唐草は12世紀の太った巴みたいで、コロンと太っているように描かれました。また象嵌作品の貫入は違う色の収縮性の問題から、色土から放射状に出るケースが多いとされます。
写真A
写真B
写真C
写真D
写真E
写真F
以上を瞬時に「観る」ことがプロの「鑑定」です。
高麗が滅びたのは、元朝による日本侵攻(1274年文永と1281年の弘安の二度の戦役)の負担が一番の原因と考えられます。この戦いは元、高麗、日本のすべての国にとって良いことは一つとして無かったといえます。特に高麗は日本進攻のための軍船900隻、兵員15000人(指揮官のみ元人)、その食料のすべてを負担させられ、そのため国力は疲弊の一途をたどったといわれます。その弱体化した高麗王朝一族の対応の失敗もありますが、李朝を創設した李成桂が元の主家一族を処刑、滅亡させ、王朝を簒奪したことは後に朱子学(儒教)の道義上の問題を抱え、朝鮮は悩むこととなります。