文化講座
掌の骨董100.北大路魯山人作「魯山人心書青華磁方器」
「魯山人心書青華磁方器」
本連載も皆様のおかげで100回目を迎えることが出来ました。ありがとうございます。本連載は骨董・古美術におけます私のライフワークの一つのような執筆になってまいりました。はたして何回まで続くかわかりませんが、私も楽しみながら書いてみたいと思います。「旅・つれづれなるままに」と同様今後もご愛読、よろしくお願いいたします。
さて、今回は私の中でその記念すべき100回に値する芸術家の作品として、北大路魯山人(1883年 ~1959年)の磁器作品最初期の力作・金沢の初代・須田青華窯にて大正12年から14年にかけて制作された磁器作品で、大正15年「第二回魯山人習作展観」にて販売された作品です。魯山人の最も得意とする漢詩が呉須に掻落しで書かれています「魯山人心書青華磁方器」を取り上げたいと思います。この作品は、箱書に自筆にて「心書」すなはち、魯山人が心を込めて作品に漢詩を書いたという意味で、まさに書と陶芸における魯山人芸術の絶頂期の作品といえます。表面四方全面に呉須が厚く塗られ、そこに掻き落とし技法により、得意な書による漢詩が書かれています。販売目録の一番最初に掲載されてますから、魯山人が自信をもって制作した作品と思われますし、類品を見ません。
四方鉢の側面に呉須に掻落としで書かれた漢詩
魯山人は大正5年、33歳で藤井せきと結婚、新婚旅行をかねて山代温泉に滞在しますが、このころ以前から知り合いであった地元の陶芸家・初代須田青華から磁器の知識を得たようです。さらに39歳から「魯山人」を名乗り、まさに気力充実した時期で、続く美食倶楽部の成功に至る時期、さまざまな焼き物を作る必要に迫られるようになり、大正14年に念願の須田青華窯にて磁器を本格制作しました。本作品はその時の一連の作品で、即売会「第二回魯山人習作展観」にて販売したものです。その時の名刺大の、魯山人自筆の「値札」も付属してます。極めて貴重です。磁器制作技術もめざましく向上して大振りで、堂々とした素晴らしい作品といえるものです。
「魯山人心書青華磁方器」の自筆箱書部分
北大路魯山人(幼名・房次郎)は私が尊敬する現代の唯二人の陶芸家のうちの一人の芸術家です。魯山人について書いてますと、彼の人生と生き方、芸術観、作品論一つ一つについてと際限なく書けそうで、書きたいことに溢れています。ちなみにもう一人の陶芸家は九谷焼の一途な職人気質の初代徳田八十吉です。
伝記というのは、絶対条件として、その内容が間違ってないことが挙げられますが、魯山人の場合は誤った伝記、出る杭は打たれるといいますか、または故意に曲げられた執筆者の意向、次元の低い人格により中傷され、様々な間違った風説が加わり、魯山人の正確な生きざまが知られないまま時間が経過したことが残念に思われてなりません。しかし魯山人本人は作品を拝見しますと、目一杯その人生を正直に生き切り、楽しみ、満足していたと確信いたしますし、後世の方々の中には残された彼の作品から、正確に彼の人格を見抜き、彼の生き方=芸術を理解されたすぐれた感性をお持ちの方々もおり、そうした方々に支持され、魯山人の評価は保たれて来ました。その真摯な作風は彼を理解する上で非常に大切なことであり、このことを何とか皆様にお知らせし、ご理解をしていただきたいという思いから、こうして書いております。
銀彩菖蒲文大皿
私は本連載で何回も書いてますが、若いころから古陶磁器と「刀剣」が好きで、勉強してきました。焼き物では六古窯とされる常滑・信楽・丹波・越前・瀬戸・備前、特に渥美と珠洲の平安末期の作品が好きで、収集しました。これらは平安時代から始まり、現代まで、連綿と続く六つの窯場のことをいいます。渥美と珠洲は、平安時代に始まりますが、途中鎌倉から室町時代に滅んでますから「六古窯」にははいりません。
後に魯山人を「人間国宝」に2度推挙した東京国立博物館の技官、小山富士夫氏によりこれらは「六古窯」と名付けられました。魯山人はこの「人間国宝」推挙を2度とも辞退しましたが、かれの陶芸の基本と美意識もこの「六古窯」、特に古瀬戸から美濃に進化した「志野」、「織部」にあります。
私はその古瀬戸から分かれて成立した桃山時代の「美濃」の茶陶(志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒)も同じように好きで、主な窯跡から掘り出され、久尻元屋敷古陶磁資料館所蔵のあまたの陶片を実際に拝見し、触れ、窯跡を巡り実地に学びました。その「美濃茶陶」を一躍有名にしたのが荒川豊蔵( 1894年~1985年)による美濃・牟田洞古窯跡からの伝説的な絵志野の陶片発見でした。(掌の骨董・第43回参照)
荒川豊蔵はその後志野の研究に没頭し、古志野再現の功により「人間国宝・志野焼」に指定されました。しかし、あまり知られてませんし、書かれていませんが、その功績を裏から経済的に支えたのが北大路魯山人でした。
荒川豊蔵作 松図湯碗
北大路魯山人といえば、傲慢、不遜で、グルメ漫画「おいしんぼ」の主人公の父、海原雄山のモデルともいわれる人ですが、事実はかなり、面白おかしくねじ曲げられて、まったく違うと私は考えています。その間違いの大元は「北大路魯山人」と「当世奇人伝」(ともに白崎秀雄著)にあると長浜 功氏はその著「真説 北大路魯山人・歪められた巨像」の中でくわしく述べられておりますが、ややエキサイティングな感は否めませんが、核心は突いているように思われます。
古志野茶碗(桃山時代)
魯山人を親子二代に渡り、コレクションし、真摯に研究されてきた作家・山田和さんの著作「夢境・北大路魯山の作品と軌跡」(淡交社)は大変正確に誕生、幼年期から亡くなるまでの魯山人の軌跡を追ってます。作品と関係写真も多く、初めて魯山人を学ぶ人に私は第一にこの本をお勧めいたします。
笑顔の魯山人
私はこの魯山人の笑顔の写真が大好きです。書道、料理、陶芸、絵画を極め、芸術世界を愛し、ひとつの日本美術の世界を打ち立てた業績にふさわしい、素晴らしい顔をしています。「美」を曲解する人たちに対する厳しさはありますが、悪人では決してありません。
無くて七癖といいます。誰にも欠点はあります。人間という生き物は、金、欲望、権威に目がくらむもので、それも努力しないでその3つを得たいと考える方々がいかに多いか。しかし魯山人は幼きころより血のにじむ努力をして自分で稼ぎ、コツコツと自分の道を切り拓らいて来ました。その貧しさと苦しみの中で悪の道に手を染めず、正しき道を歩めたことを後に回顧してこう言いました。
「芸術・美術が私を正しい方向に導いてくれたからだ」と。
これは「至言」ともいうべき素晴らしい言葉ではないでしょうか。私はこの言葉を知り、深く感動し、人間的に魯山人を尊敬するようになりました。悪い人間なら決してこのようには言えません。
すべての芸術に達観し、実力で生き抜き、真摯でありながら芸術に邁進した魯山人は、苦労して学んだ芸術世界について、いい加減な間違ったことをいう人たちの矛盾を許さずに徹底的にやり込めたそうです。有名な、民芸論者がもっとも嫌う魯山人の著作「柳宗悦の民芸論を冷やかすの記」はその代表で「冷やかす」としていますが、柳の「民芸論」の急所、のど元に止めの一差しを入れるような厳しさと鋭さを持っています。そうした意味から、彼魯山人の厳しさはとくに茶道家などの権威ある世界にすがる人たちからは嫌われたようで、魯山人を見るとこそこそ逃げ回り、裏にまわると魯山人を誹謗中傷したといわれています。魯山人の「風評」はそのように出来たようです。
魯山人は産まれ落ちた瞬間から不義の子として「家庭・家族」に恵まれず、本当の父はわからず、名門ゆえのプライドからか、戸籍上の父は自害し、母親は彼を産むとすぐに離別され、房次郎(魯山人の幼名)は身寄りなく里子に出され、里子先を転々とし、苦労しながら自分の世界を築いて行ったようです。
北大路家の墓
しかし、魯山人のDNA、芸術家としての才能は断トツにすばらしく、書、美食、陶芸、絵画、文章等々にあまりにも顕著であり、私はかねてから不思議に思ってました。あるとき、自分が経営します「日本骨董学院」で皆様に好きな魯山人の話をしてましたら、魯山人の遠縁にあたるという方がおられ、実は魯山人の母親は昔京都御所でアルバイトしていて、そのときの「上の方」との不義の子なんです、と告げられました。わたしは、そこで合点がいきました。その話から推測するに、魯山人の才能の豊かさは高貴な平安文化を築いた芸術家筋としての「祖」である藤原氏につながるDNAではないのか、と。そう考えますと、魯山人のずば抜けた才能のDNAに納得がいきます。母は魯山人にも決して「父」の名を明かさなかったといいますから、まあかなりの「名門」なのでしょう。父の詮索はここまでで良いでしょう。
美の才能の開花も早く、二歳のときに背負われながら見た美しい「さつき」の赤の記憶があったようです。
幼いため、里親に喜んでもらえないと生きて行けない状況の中、料理に様々な味と美の創意工夫をしたようです。6歳でご飯は誰にも負けない美味しさに炊く技術を身に付けたと、後に魯山人自身回顧してます。日本食の最も重要な米の味を6歳で極めたということから料理も工夫して美味しいものを作ったに違いありません。買い物に行った帰りに、野の花を摘み、それを料理に美しく添えて、里親を驚かせたといいます。あるときは、たらい回しにされた里親先のおばあさんに嫌われ、訳なく叩かれ続け、なんでこのおばあさんは自分をこんなに叩くのだろうかと冷静に見ることのできる「我慢の子」になっていたようです。
近所の子どもたちは小遣いをもらい、好きな駄菓子を買い、おもちゃで遊ぶ中、房次郎は生きるために家事と料理に励みました。後に大成功した「星ケ岡茶寮」の料理人選抜試験の課題に出した「料理素材の捨てる部分だけを使い、一週間分の料理を作れ」の課題はまさに子ども当時の自分の食事の工夫だったに違いありません。里親に出すおいしい料理を房次郎はもちろん腹一杯食べることは出来なかったのでしょう。だから普通は捨てる魚の骨(頭)、ワタ、尻尾、鰭や野菜の切れ端、葉や骨まわりの肉など、捨てる素材を利用した料理やスープ、出汁を工夫し、ささやかに楽しんだのでしょう。どんな素材も工夫次第でおいしく甦る、そこに少年魯山人は目覚めたのです。
次に彼がチャレンジしたのが町の腕自慢が多数応募する「書道一字書き懸賞コンクール」でした。半紙に一字書いて応募して、入賞すると賞金や賞品をもらえることから、一生懸命練習します。その練習の仕方に目を見張らされます。
呉昌碩(1844年~1927年)
もらったか、拾ったかの使い古された筆に水をつけ、平らな石に字を書いて練習する。乾燥して消えては書くその繰り返しをしたようです。これなら高価な墨も紙も要りません。その練習方法は中国の名書家・呉昌碩(1844年~ 1927年)の本から学んだようで、律儀な魯山人は後年呉昌碩を訪ね感謝の意を伝えたようです。その腕に自信のある大人たちの中から町の一字懸賞で一位、二位を独占、賞金を得たというから驚きです。このことから後に日本一の書家、北大路魯山人が生まれたのです。
注意すべきは、そのように魯山人の料理、芸術の技術習得は、自らの創意工夫、努力により得られたものであり、伝統的な師弟関係から得られたものではないということです。当時の美術界は師弟関係の年功序列的な世界により成り立っていたと言っても過言ではありません。
知人の小さな娘が描いた魯山人の似顔絵を彼は長く愛したという。
21歳の若さで「日本美術展覧会」に千字文(せんじもん)の書を出品、一等賞を受けるなどは前代未聞、画期的な出来事といえます。師もなく未知の若者が、しかも誰もが口を挟めない、確固とした書の美的世界を確立していたことに驚きを禁じ得ません。まさに工夫と努力の人といえます。
以後書に打ち込み、29歳からは篆刻(てんこく)も習い始め、後に日本画の殿堂「日本美術院」の所属会員画家の大半が魯山人の落款を使用したという実績、これも素晴らしいことです。
魯山人作・「古歡」印
また陶芸に手を染めたのは15年(大正4年)ころからですが、19年には古美術商を営み、翌年春には客に出していた昼ご飯が世間に認められ、会員制の「美食倶楽部(くらぶ)」を発足させ、さらにそれが好評に好評を呼び、25年には東京麹町(こうじまち)の星岡(ほしがおか)茶寮の顧問兼料理長として料理・食器を制作しました。これは大変なことであり、芸術の歴史において絶賛すべき大業というべきで、当時の日本の芸術と「味覚」を担ったまさに第一人者といえます。当然彼の料理は評判に評判を呼び、大会社の社長、経営者は言うにおよばず、さる皇族が会員になられるなど、まさに絶頂期を迎えます。
当然彼の死後、誤った伝記がもっともらしく流布して、誤った魯山人伝説が出来てゆきます。このことは大変重要なことですから、ここでは字数が足らなくなり、次回に回わしたいと思います。
「魯山人心書青華磁方器」