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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董45.国吉康雄のデッサン小品「裸婦」


裸婦デッサン小品

 私は国吉康雄の作品が昔から好きでした。しかし国吉は世界的画家であり、かつては高嶺の花でした。その退廃的な雰囲気でありながらもどこか健康的で、歪ませたデッサンでの愁いをおびた物悲しげな女性の姿は、時に現代的ですごく魅力的です。空間処理も独特であるし、セオリーにない彼独特の雰囲気ある空間を作り出しています。


バンダナをつけた女(1936年 油彩)

 この「バンダナをつけた女」の強くたくましい体つきと愁いを帯びた目つき、陰りある表現の裏にしたたかさが隠されており、それが微妙に溶け合って不思議な国吉ならではの女性の一表現様式を作り出しています。

 かねてから小品でも手に入れたいと願っていましたが、インターネットで本作品、デッサン「裸婦」が売りに出され、これは絶好のチャンスと思い入札し、運よく安く手にできました。この作品にはかつてのアメリカの画廊Salander-O'Reilly Gallerie の証明書と、東京美術倶楽部の鑑定書がついていて、これら2つの鑑定書は信頼のおけるものといえます。しかし最後は作品の力ですから、自分が心から愛せる作品かどうかが問題となります。


東京美術倶楽部の鑑定書(裏に作品写真がラミネートされています)

 国吉康雄(1889年生まれ1953年に64歳で死去)については後で述べます。一般的評価としては、海外で活躍した日本人画家のひとりで、有名な藤田嗣治(レオナルド・フジタ)につぐ油彩画の巨匠というところでしょうか。二人は実際にパリやニューヨークで面識はあったようですが、相交わらない部分があったようです。私の古美術の師は武田二郎氏で、レオナルド・フジタ(藤田嗣治)がフランスに行く前まで弟子だった方でしたが、フジタが日本画壇を離れるにあたり先生も画壇を去らざるを得なくなり、古美術商を中野のブロード・ウエイで開業されていました。私も中野に生まれ、中野に育ち、住んでおりましたので、18歳の折に出会いがありました。先生からは絵のことをしばらく教えていただきましたので、私は数少ないレオナルド・フジタの孫弟子ということで、少しばかり誇りに思っています。

 私は小さい時から絵が好きで、小学校3年から5年まで、近所の芸大の学生さんの教える絵画・工作教室に通っていました。そこでの教え方は自由で個性を育てることに重点を置いていたことが思い出されます。しかしある時、芸大の学生である先生が私の描いた栗の絵に手を入れたのです。もちろん絵はがぜん良くなりましたが、頑張って描いた絵で気に入っていただけに、手を入れられこれは自分の絵ではなくなったと小学生ながら思い、絵を描くのがつまらなくなり教室へ通わなくなった記憶があります。そんな子供でした。
 よく日本骨董学院 の生徒さんたちにエコール・ド・パリの画家の話やフジタについての話をいたしますが、皆さんは絵画を難しく考えている場合が多いようです。「絵は難しいから・・・」といわれる方がけっこう多いです。
 そうした方々のために、今回はここで私の美術品鑑賞方法について簡単にお話ししたいと思います。
 絵画でも、工芸でも、書道作品でも、古美術品でも、どんな美術品の鑑賞でも私は同じだと思っています。美術鑑賞は第一に楽しくなければいけません。理解できない、難しいと言われる方々は、ご自分で絵画は難しく、理解できない難しいものと思い込み、鉄の柵を作って、自分で自分を中に入れなくしてしまっているケースが多いのではないでしょうか。特にピカソに代表されるような抽象画やダリみたいなデフォルメされた絵画がその対象のようです。観なれていないから、自信がないというのも事実でしょう。


フジタの初期の木版画「鳥と少女」

 そこで、そうした方々に私はつぎのようにお話しするようにしています。
 「絵画でも工芸品でも、鉄の柵を作らず、少しでも色が美しいとか感動する部分、例えばこんな斬新な表現方法があったかのかとか、そうした部分に気がついたらその作品をじっくり、以下に述べる3方法で鑑賞することです。感動しない作品を無理に理解しようと頑張る必要はまったくありません。良くないと思ったらその作品の前を通り過ぎるだけでいいのです。仮に1回の展覧会で2作品ほど心から感動できる作品に出会えれば幸せと思ってください。その作品をじっくり鑑賞して、解説も読んでください。それ以外の、パッと見て感動しない作品は観る必要がありません。今現在、自分が感動する作品こそが自分にとって大切な存在なのです。中には、今は好きになれなくても、ずっと後になって、たとえば10年後になってすばらしさを感じるようになる作品もきっとあるでしょう。あるいは逆に一生好きになれない作品もあるに違いありません。でもそれでいいのです。無理に好きになる必要はまったくありません。まして好きでもない作品を良い作品だとかおもねる必要などまったくありません。作家の名前は有名だから、良くもない作品だと思っても一応いい作品ですね、ということがかつての美術業界の腐敗を招いたともいえるのです。
 形式とか、権威という世界は、そうしたところから築き上げられるのですから、やはり魯山人のように、是々非々、良いは良い、良くないは良くないとはっきり言えることが大切であると思います。そうでないと若い芸術家は育ちません。
 私は博物館、美術館を観て回るのは速いです。これはいい作品だ、色がいい、構図が斬新でいい絵だと思ったときは立ち止まってじっくり鑑賞します。解説も読みます。自分が気に入る作品はすぐに観てわかります。色彩、構図、描きかた、内容などなど、瞬時に観る訓練をしてきました。好きでもない絵をいくら観ても好きな絵画にはなりません。有名な評論家が絶賛している絵でも、自分が気に入らなければ、無価値です。無理に好きになる必要などさらさらありません。素直に自分が好きであるということが、最も大切なのです。私は美術鑑賞において謙虚さ、妥協は絶対に必要ないものと考えています。自分に嘘はつかず、好きな作品だけわがままに楽しめば良いのです。身構えず、肩の力を抜いて、気軽に作品を鑑賞してください。ただ絶えず次の3点を考えながら注意して観てくださると、鑑賞の深みが増すと思います。

 1 色彩、線、構図に感動できる美しさがあるかどうかを考える。
 2 この作品を作者はなぜ制作したいと思ったのだろうかと考える。
 3 この作品のどの部分を作者は一番集中して表現したかったのだろうかと考える。

 今回の国吉の「裸婦」デッサンは瞬時にいい絵だと判断できました。購入決断も速かったです。デッサンだから色彩の美しさはありません。ただ単純化された線の美しさは確かで比類のないものです。これは藍の色鉛筆で描かれており、スピード感があります。無駄な線がない。健康的ですが、どこか哀しみ、退廃的ムードの本質をついている気がします。


「裸婦」拡大部分

 ここで簡単に国吉の履歴を追ってみましょう。

 1889年、岡山市内に人力車夫を親に、一人息子として誕生。
 弘西小学校、内山高等小学校を経て1904年に岡山県立工業高校の染織科に入学。
 1906年に退学、カナダ経由でアメリカに渡る。渡米の理由は「父の助言」と後に述べたが、英語の習得が目的でもあったようだ。さまざまな職を転々としながら、苦学してスクール・オブ・アート・アンド・デザインに入学して画学生となった。
 ブルガリア出身のジュール・パスキンとの出会いは以後も大きな影響を彼にもたらした。また最初の妻となるキャサリン・シュミットとの出会いもあった。 多くの絵描きたちと同様に、ルノワールの作風、セザンヌの色調の影響を受けた。
 1919年には国吉はキャサリンと結婚。アメリカ国籍を持たない国吉と結婚したため、当時のアメリカ法によりキャサリンもアメリカ国籍を剥奪された。
1922年、国吉がダニエル画廊で個展を開き、アメリカメディアに大きく注目された。
その後ダニエル画廊での個展は毎年続き、国吉は独特な素朴派画家として売り出していった。


パスキンのかおりただよう国吉の「裸婦」油彩 1938年

アメリカ画家としてアメリカに受け入れられていったことは彼の独自性となった。
 1925年、国吉はジュール・パスキンの誘いを受けてパリに渡る。国吉は特にサーカスの少女を好んで描きはじめた。
 1928年に国吉は再びパリを訪れ、エロティックな性質の作品を手掛けた。またこの時にユトリロ、ピカソらと交流し、彼らの影響を受けた。
 1929年、国吉はニューヨーク近代美術館から「19人の現代アメリカ画家展」に選出された。一時日本に帰国した折に二科会に推薦されたり、個展も開かれた。しかし国吉の絵画は日本で理解されたわけではなかった。絵も2点しか売れなかった。
 1933年、国吉は母校のアート・ステューデンツ・リーグの教授に就任した。
 1941年の日米開戦の折、敵性外国人として当局によって取り調べやニューヨーク市外に出る際には許可が必要といった措置を受けた。
 この時期の国吉は不安と孤独感に苛まれ、戦争の悲惨さと虚無感が彼の作品に影響を与える。一方で国吉は静物画での比喩的心理表現や造形的な楽しみを見出し、1944年、カーネギー・インスティチュート全米絵画展で1等賞となった。
 戦後の国吉は、美術家組合を1947年に設立。会長となった国吉のもとで美術家組合は急成長し、ニューヨークが世界の美術界の中心になっていった。
 国吉は1950年ごろから体調が悪化。
 1953年胃がんで死去。64歳。(国吉年譜はウイキペデイア参照)

 日本の画壇は封建的で、年功序列的な社会とよくいわれます。組織を創ると必ずそうなります。そうした組織を嫌い、若い実力のある画家は海外に出て力を世に問うといいます。事情は違いますが、レオナルド・フジタもその一人でした。また長谷川潔、佐伯祐三や岡本太郎、池田満寿夫もそうした画家たちのひとりです。
 極東の日本人が海外に出て、しかも絵画の世界で名をあげることは至難の業であることは確かです。並みの努力では成功はおぼつかないでしょう。今までどれだけ多くの若者がチャレンジして挫折したことでしょうか。
 国吉康雄はこうした多くの画家がパリを目指す中、アメリカという独自なモダニズムの風土に飛び込んで、ニューヨークをモダンアートの拠点の一つにすることに貢献した稀有な画家であるといえるのではないでしょうか。今回の連載を書いていて、ますます国吉の絵画が好きになりました。


国吉の撮影した写真「モデル」1937年。

デッサン「裸婦」ならびに東京美術倶楽部の鑑定書、フジタ木版画は著者所蔵品

掌(てのひら)の骨董
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