文化講座
掌の骨董111.「桃山時代の唐津(Ⅰ)」絵唐津筒茶碗について
絵唐津筒茶碗(桃山時代)
今回は桃山時代の唐津について二回にわたりお話しいたします。唐津焼、特に桃山時代の唐津は極めて人気の高い焼物で、数も少なく、大半は「江戸時代」のものが多い中、人気があります。少ないからそれ故に高価でもあります。多くの古美術商の方々が、一生懸命探してますから、良い作品はますます少なくなりました。
御存じの方も多いと思いますが、唐津の始まりは東洋陶磁学会の見解では1580年を境に始まったとされています。
私が社会人になってすぐの時に唐津を訪れる機会があり、人間国宝の中里太郎右衛門さんにお会いでき、お話を伺うことができました。 話は唐津焼の始まり時期に及びました。
中里太郎右衛門さんは1895年に佐賀県唐津に生まれ、1927年 実父の歿後12代中里太郎右衛門を襲名します。1929年から古唐津の窯址調査を開始しました。古窯址や陶片資料の研究に励み、古唐津の伝統を研究され、復興しました。そうした中、伝統技法を現代茶陶に生かした叩き技法などの独自の作風を生み出されました。その結果、1966年 紫綬褒章受章。1969年 京都大徳寺にて得度、号の無庵を受けられ、そして1976年4月30日 重要無形文化財・人間国宝「唐津焼」保持者に認定されました。
同茶碗の紋様
その古窯跡を長年調査された12代中里太郎右衛門のお話によりますと、唐津焼の始まりはもっともっと古いといいます。
しかし大陸との交渉は縄文時代からあり、技術や文化はかなり早い時期から日本にも伝わってきてました。古墳時代に栄えた須恵器も新羅や百済から伝来した炻器(せっき)に分類されますから、唐津の場合は土、釉薬を掛けた陶器、すなはち磁州窯系の技術を持った焼物というべきものでしょう。
絵唐津陶片(桃山時代)胎土目積跡は桃山時代に多く、古いものです。
通常の唐津焼は秀吉の朝鮮出兵を境に、朝鮮陶工により日本に伝わったとされます。同じ朝鮮陶工の技術でも、白磁は伊万里の泉山や天草、平戸に原石が発見され、そちらに継承されました。
そのため唐津地方の「陶土」による作品を「唐津焼」といいます。基本的には李朝鶏龍山系の技師が取り込まれた唐津です。朝鮮半島と九州は太古の時代、繋がっていたとされ、同じ地質、同じ土質であったようで、さらに朝鮮陶工がつくりましたから、ほぼ似た作品がわけなく作れたのではないかと推測されます。
桃山時代の朝鮮唐津の徳利陶片 釉薬の混ざりが魅力的で美しい。
種類には無地唐津、絵唐津、朝鮮唐津(鉄釉と藁灰系の斑釉がまじった作品)、斑唐津(山瀬窯が有名。次回掲載)、青唐津、黄唐津、黒唐津、粉引(白土化粧が全面にほどこされた作品)、三島唐津があります。もともと中国の磁州窯作品の技術の元に生まれた作品群で、唐津はそうした磁州窯の影響下の李朝鶏龍山の焼物を焼いていた陶工の流入により始まりますからいわば磁州窯の孫の焼物というべき作品になります。
絵唐津筒茶碗の高台
さて今回の「桃山時代・絵唐津筒茶碗」は小ぶりですが、利休の好みに合った、下にややふくらみをもち、手に馴染む筒茶碗です。絵柄も唐草紋様を琳派風に変化、デフォルメさせた、それでいてやはり李朝系陶工の得意とする作風といえる唐草紋が大胆にえがかれます。
形はやや下ぶくれで、上代楽筒茶碗によく見られる姿をしてます。私は最初にこの茶碗に出会ったときに、この形と大きさ、自由な絵の描き方をみて「桃山時代」だと瞬時に判断しました。
下ぶくれの茶碗
この作品で残念なのは、大切に扱われてきたであろうある瞬間に滑り落ち、割れとヒビが入ってしまったことです。しかし今や直しにも古色がつき、馴染んでますから、新しい金継ぎはしないことにしました。
しかしもしこのヒビや金継ぎがなければ、この作品は私の所には来ることはなかったでしょう。ある意味「一期一会」の出会いの「桃山・絵唐津筒茶碗」でした。
次回は「桃山時代の唐津(2)」として「山瀬窯の斑唐津」を取り上げます。
絵唐津筒茶碗