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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董30.伊万里吸坂手古九谷葡萄文中皿


吸坂手古九谷葡萄文中皿

 伊万里作品の魅力は何といっても美しい白い地肌に、青い呉須や色絵が映える、その作行きにあるのではないかと思います。事実、初期伊万里から金銀彩の白磁の完成に至る伊万里工人のめざしたところはそこにあったことは確かです。磁石の精製度を上げると同時に釉薬の鉄分を落とす技術を上げ、還元焼成技術も同時に進歩させていたと考えられます。その結果として、金銀彩の時代の素晴らしい「濁手」作品の完成がありました。「濁手」の白は、米汁の白く濁った様を表すと一般的にはいわれますが、米のとぎ汁とは比較にならないほど美しく、純白に近い白です。この白の原料は何か、ということは成分分析してみないとわかりません。


濁し手の美しい初期輸出手色絵作品

 私が今回の吸坂手古九谷葡萄文中皿を手に入れたのはもう20年以上前のことで、青山の老舗古美術商Iさんの店から購入いたしました。当時、とても高価で、がんばって勉強のために購入した思い出の一品です。鉄釉が全面に掛かり、薄いという点を除けば美濃の織部作品を思わせる色合いと図柄です。(トップの写真)当時、伊万里焼の研究者として多くの著作を出版されてきた著名なO先生が、この作品を見て「これは何ですか?」といわれたのには驚きました。古九谷の吸坂を知らないんだ...という驚きが記憶に残っております。そのくらい当時でも珍しかったといえるかもしれません。
 昭和13年に東京国立博物館の当時の陶磁室長であった北原大輔さんが、有田の山辺田古窯跡で古九谷の素地を大量に発見したことから、古九谷=伊万里論争が始まりました。


山辺田古窯出土の古九谷の素地

 更に昭和56年に科学者の河島達郎氏が成分分析方法として有力な「放射化分析」を開発され、加賀の九谷村から出た陶片や古九谷の皿の一部、更に伊万里の磁器の成分と泉山採石場の磁石などを分析されて研究成果が発表されました。その結果、調査した古九谷作品の成分は有田の泉山の磁石の成分と一致したことから、多くの古九谷作品は伊万里磁器であるではないかと考えられるようになりました。ただその後の調査で完全に古九谷は伊万里作品であるという決着はついていませんが、仮に伊万里であると考えると、なぜ鉄釉を器全体に掛けて、伊万里の自慢の白磁の美しさを故意に覆ってしまったかが謎として残ります。もともと吸坂手の「吸坂」という名称は加賀の大聖寺藩の地名とされ、いわば加賀で焼かれたとされていた古九谷と同時期の作品の呼称とされるものでした。しかし多くの古九谷が伊万里の作品であったという河島達郎氏の研究成果から、この吸坂手も伊万里の作品であるというように考えられるようになりました。伊万里焼の歴史を見ると、その製作母体は鍋島藩であり、鍋島は関ヶ原の戦いで負けた外様大名であったことは有名です。当時の鍋島藩は関ヶ原の戦いの債務やその後の自藩存続の手段として行った尾張徳川家の城壁修理などに使った費用が重くのしかかり、負債にあえいでいたようです。そこで鍋島藩は都の茶人たちの間で売れ行きのいい美濃陶芸の鉄釉の作品や中でも緑釉織部様式の作品に着目したのではないかと私はかねてより推測しておりました。


美濃鉄釉作品

美濃の織部作品

 これを真似れば売れ行きが上がる、すなわち藩の財政の立て直しに大きく役に立つと考えたのではないかと考えました。事実、青手古九谷がそうですし、鉄釉の間に白抜きされて、そこに伊万里の完成された白磁に美しい呉須で絵付けされた鷺の絵が描かれた吸坂手作品もそうした作品です。


九州陶磁文化館所蔵の吸坂手作品の呉須絵

 今回取り上げました本作品に描かれている葡萄の歴史は古く、私の知る限りでは紀元前8000年頃のシリア、現在のヨルダン、テル・アスワド遺跡から検出されています。また紀元前3500年ころのメソポタミア文明の楔形文字の中に葡萄に関する記述があったと記憶しています。エジプト王朝時代の壁画にも葡萄がたくさん描かれているものが残っています。さらに紀元前750年頃の新ヒッタイトのレリーフに葡萄を持った神が登場します。ギリシャのディオニュソス神やバッカス神の出現との関係で葡萄は酒の神にかわってゆきます。そして唐時代に海獣葡萄鏡ができて日本の天武朝に輸入されて、法隆寺などに現存しています。また一説によると天武天皇の墓とされる高松塚古墳の副葬品として出土した海獣葡萄鏡も大変有名です。


海獣葡萄鏡(唐時代初期から中期頃)

 私も海獣葡萄鏡が好きで、何枚か持っています。葡萄はこのようにオリエントの食べ物であり、種を多く持っていることから子孫繁栄とか復活再生のシンボルとみなされてきた歴史があります。日本では「海獣葡萄鏡」の海獣はオットセイやイルカと観る方々が多いようですが、そうではなく海外からきた獣ということからライオン(獅子)とされています。事実この「海獣」には手足と尻尾がついています。なぜライオンかといいますと、一番姿がよく、強い動物と考えられたからでしょう。その証明に古代エジプト人たちがスフインクスを作ったとき、頭脳は人間(ファラオ)、肉体はライオンというのが理想的な強者、すなわち王者の理想像だったということがあげられます。
 馬の首が人間の上半身であるケンタウロスも同じでしょう。羽の生えた馬であるペガサスも理想像なのでしょう。まさに千里をゆく天馬です。海獣(ライオン)に葡萄、東洋人にとってなにか憧れのオリエントを代表する図柄の鏡です。鏡は権力のシンボルでもあり、論文「蛇」で有名な吉野裕子先生の説によると、言語的にはカガミはカガメからきており、その源流であるカガ、即ち蛇の信仰のシンボルでもあると先生は述べられています。葡萄のツル(蔓)も蛇信仰や唐草文のルーツの一つとされ、神秘的な絵柄で我々を魅了します。今回の鉄釉葡萄文吸坂手皿にも葡萄とツルが見事に描かれています。


葡萄と細く伸びた蔓文様
(九州陶磁文化館所蔵)

 狩野元信(1476年8月~1559年11月)は狩野家2代目の絵師で、後の国宝「花下遊楽図屏風」で有名になる狩野長信や信長の安土城の障壁画を描いた狩野永徳の先祖にあたりますが、私の持っておりますその元信の描いた葡萄図絵に実は伊万里作品に描かれた絵柄の謎を解くヒントが隠されていました。伊万里作品の絵柄は京都の絵師たち、恐らく本流である狩野家、琳派の流れの祖である宗達工房、京都御所の公家たち相手に衣装を納めていた尾形光琳の実家である雁金屋の工房の絵師たち、すなわち光琳工房の琳派絵師たち(デザイナー)によって描かれたものであるという考えを私はかねてより持っていました。なぜかといえば鍋島藩の最大の献上品は「鍋島」であり、そうした献上品の絵に徳川将軍家や天皇家に対して非礼や間違いがあってはいけないからです。有職故実に詳しい宮廷絵師に決まりにのっとったおめでたい絵を描いてもらえば安心であるし、センスの良い素晴らしい作品が製作できるからです。当時の京都の宮廷絵師はそうした専門知識を持った最高の絵を描いていた集団だったのです。
 そこで伊万里・鍋島の図柄からの考察をもう二つ。鍋島の鑑定の重要なポイントの一つに葉の葉脈の描きかたがあります。特に元禄を中心とした色絵鍋島の植物を詳細に観察すると、葉脈は主脈につながる支脈の付け根が主脈から少し離れています。それがこの時期の鍋島の本物の描き方の特徴とされます。


鍋島の葉の描きかた。下の狩野元信の描きかたと見比べてください

 その描きかたが今回の狩野元信の葡萄図の葉に同じに描かれています。葡萄の図柄全体の描きかたが非常に似ています。似ているというより、鍋島の原図を宮廷絵師である狩野派に依頼したか、後に同じような図柄の絵を手にして模倣した確率はかなり高いと思われます。その証拠がもう一点、蔓の描きかたです。
 もう25年ほど前に東京・平和島の骨董祭りで手に入れた金銀彩の向付の絵柄と今回の葡萄図の蔓の描きかたと、狩野元信の絵の蔓の描きかたを比較してみましょう。
 25年前に手に入れた金銀彩の作品は大きく割れておりますが、私はその絵の素晴らしさに打たれました。「なんてうまい絵なんだろう」感動とともに、そののびのびとしたその線の魅力の虜になりました。小品ですが、まさに日本の絵画の素晴らしさを観る思いです。現在は学習院大学の教授に転出されています荒川正明先生は、当時出光美術館の学芸員をされておりましたが、日本骨董学院に来られた折にこの金銀彩作品をふとご覧になり「これはいいですね」といわれました。それはこの蔓の描きかたの素晴らしさのことを褒められたのだと思います。
 かねがね私が主張している鍋島を中心とした「高級伊万里の図柄=京都の宮廷絵師が描いた絵柄」がこの狩野元信の絵においても証明されると思います。


狩野元信の葉脈の描きかた

古九谷金銀彩の藤の蔓の描き方
掌(てのひら)の骨董
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