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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董50.明治後期から大正時代・ライト兄弟飛行機銅版プリント印判皿


ライト兄弟飛行機印判皿

 私は子どもの頃、乗り物が大好きだったことは前にも書きました。小さい頃は電車の運転手になりたいと、大半の男の子は憧れた経験があると思います。私はまた飛行機にも憧れていまして、中学になってもUコンというワイヤー付き小型エンジン付飛行機を友人と飛ばしに行き、高校時代まで熱中していました。


Uコン速度競技用機体

 (子どものころ、大人たちが飛ばしていたあこがれのENYA29エンジン搭載したスピード機機体・骨董市で見つけて懐かしさのあまり購入)

 小学生の頃は少ない小遣いをやりくりして、バルサ材に竹ヒゴ製のゴム動力飛行機の長時間滞空を競う大会に出て競技会で入賞したりしました。凝り性で結構斬新な飛行機やら競技用模型ボートを考えて作り、当時全国的に有名であった中野のハヤブサ模型店のオヤジさんを驚かしていました。
 そんな子どものころの性格を未だに引きずっていて飛行機に反応してしまいます。今回の飛行機皿は明治末から大正時代の12センチたらずの銅版プリントの小作品ですが、世界初飛行したライト兄弟の複葉機フライアー号の印判皿です。初期複葉機の皿はとても珍しいもので、人気があります。


飛行機のアップ写真

 明治時代は「文明開化」の時代で、西洋に追い付け追い越せの気概にあふれていて、有名な岩倉使節団がアメリカからヨーロッパ諸国を回り、鎖国時代に遅れたすべての文化、政治、芸術、工業などを取り戻すことに精力を使い、後の日本の発展に大きく貢献しました。


岩倉使節団の代表メンバーたち

 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。いずれも明治新政府で活躍した人物たちである。他留学生などを含め、総勢107名で構成されていた。

 そのような時代に夢のような空飛ぶ飛行機は憧れの的でした。世界初の飛行は、ライト兄弟によるもので、1903年に成し遂げられました。1901年にグスターフ・ホワイトヘッドが初飛行したという説がありますが、定かではなく、ライト兄弟が世界初とされています。


初飛行当時のフライアー号の写真

 印判の技術も明治の「文明開化」の流れから日本に導入されたものでした。江戸時代は伊万里磁器全盛時代であり、製作母体の鍋島藩の方針からも高級品であったため、なかなか庶民には行き渡ることがなかったようです。当時の庶民や農民の食器は素焼きの土器や木のくり貫き椀が大半で、長く使用した椀にはカビが生じたりして、極めて衛生的に良くないものでした。


くらわんか磁器・なます皿

 「くらわんか」なる伊万里磁器がいかにも庶民のために製作されたようにいわれますが、実際は高級品で、大名やら豪商が使った高級食器だと確信した経験がありました。それは20年以上昔のことですが、東京代々木に日本骨董学院を移転した折り、裏隣りに新宿御苑があり、しばらくぶりに散歩しに行きました。新宿御苑は小学生の遠足で行ったきりになっていましたから、懐かしい場所でもありました。植物を観察しながら、少し道から外れた窪みに白いものがキラリと光っていました。近づいて拾いあげると初期「くらわんか」(1730年から1750年くらい)の、質の悪い呉須絵の入った小さな草花文杯を見つけました。よく見ると他にも陶片が散乱していましたから、ゴミ捨場だったのかもしれません。新宿御苑は元、信州高遠藩の支藩の内藤家の屋敷跡の庭園が都民の憩いの場として公開されているところですから、他に譲渡された形跡はないので、これは間違いなく内藤家で使用されていた磁器だと確信しました。しかもよく観察すると、割れたところが焼き継ぎされていたのです。内藤家のような大家の使用した食器が焼き継ぎされていた、これは驚きでした。考えてみれば、江戸時代中頃の支配者階級の人たちにとって磁器は割れたら直して使うような「高級食器」であったのだと実感として確認できました。

 そうした江戸時代に伊万里磁器や瀬戸磁器は極めて高級な食器でしたから、特権階級が支配した江戸時代から明治維新の折りに、新政府は庶民重視の方向にいくつかの新政策を打ち出していきました。その時に二つの大きな変革がなされたのです。①磁器製品を安価に一般生活に導入すること。②窓ガラスを一般生活に導入することの二つでした。磁器は先ほど述べました衛生面重視の方向から、また窓ガラスも同じ衛生面と明るい健康的生活の面からの導入でした。それまでの江戸時代の生活は「障子」や鎧戸・板戸の文化でした。室内は暗く、じめじめして、寒く不健康でした。そこで新政府は西欧に習い、日本の障子をガラス窓にしようと考えたのです。江戸時代のガラスはポルトガルから伝わった鉛ガラスの意味の「ビドロ」が訛ってビードロと言われていました。原料は吹きガラスに適した鉛ガラスでしたが、それは板ガラスには適さない原料と製法でした。そこで新政府は明治維新に貢献のあったイギリスからガラス職人のトーマス・ウオルトンを招聘して、窓ガラス(板ガラス)を製作させました。GLASS という英語がこの時定着して、以後日本ではビードロからガラスと呼ばれるようになりました。


窓ガラスの日本家屋

 磁器も高級品から大量製産により、安価な磁器食器が庶民に提供されました。それまで伊万里の染付の呈色剤であったペルシャからの輸入品、超高級品の天然呉須、すなわち酸化コバルトはドイツで化学的に大量生産され、安価なものとして製作、輸入されましたから、思う存分使用できるようになったことも幸いしました。これがベルリン藍、訛って「ベロ藍」として明治、大正印判作品に大量使用されました。
 それが今回の「ライト兄弟飛行機皿」の出現になったのです。こうした西郷隆盛を中心とした初期明治維新政府の一連の庶民の生活向上をめざした文明開化政策は素晴らしいの一言に尽きます。


ライト兄弟とフライアー号の記念切手。
掌(てのひら)の骨董
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