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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董31.漢時代・青銅渡金騎馬人物古印


魅力的な青銅古印 高さ:44ミリ 幅:28ミリ 奥行:15ミリ

 前回に引き続き私の好きな漢時代前後の作品について書いてみたいと思います。
 もう45年くらい前になるでしょうか、篆刻に興味を持って道具を一式揃えて彫り始めたことがありました。普通はかなり書道をなさった方が篆刻をなさるものですが、私は書道をやってきたわけではないので、それは順序が逆でありました。ですから、まったくおはずかしいのですが、私の場合、やりたくなったら始めてしまいます。ひとまず道理は無視して古代からの書家の名字体の載っている「書体小辞典」(東京堂出版)と「朝陽字鑑精萃」(西東書房)の2冊を買い、それらの本から自分の好みに合った字体を選んで、あとはバランスよく配置して好きな詩や句を彫ったものでした。これはなかなかおもしろいもので、今でも気に入って使っている印もあります。そんなむちゃくちゃをする人間は私一人かと思ったら、一時の篆刻ブームもありまして、結構いらっしゃるようで驚きました。好きなことを楽しくやるのは良いのですが、順序は大切です。字体の年代を無視して彫ってしまったりして、観る人が見ればやはりまったく素人の域を出るものではありません。
 しかしそうした印や字体への興味がまったく無駄であったかといえば、そうでもないのです。印材などの観方とか彫刻への興味とか、少しは古字に親しめるようになり、いろいろな面で勉強になり、仕事に役立ったり、視野が広がったりと、よいこともありました。

 今回の古印を見つけたきっかけもやはり印鑑への興味があったからでした。しかも古いものですから、緑青の吹き出た金の鍍金(ときん)が施されていて、金の色と質がよく、厚く掛かっていることに大いに大いに惹き付けられました。電気メッキの無かった古来、今では考えられないようなメッキ方法が発明されました。メッキは昔、鍍金(ときん)といわれました。金を他の金属、特に銅の合金である青銅に直接付着させるにはただ一つの方法しかありませんでした。水銀アマルガム法がそれです。


水銀

 金は普通どのような液体に入れても溶けません。硫酸のような劇薬に入れても溶けることはありません。金は不変の光沢を持ち、永遠不滅の光を放ち続けるがゆえに最高に貴重な金属として大切にされてきました。純金の作品は貴重で価値の高いものであることはもちろんのことですが、昔は今よりはるかに高額だったと推定される金はふんだんに使うわけにはいきません。いろいろ試された結果、水銀が金を溶かすということが分かったのです。鍍金(メッキ)に水銀が使われるようになります。
ツタンカーメン王の黄金のマスクなどは純金でできていますが、後世に於いて少ない金でたくさん使ったように見せる鍍金が発明されてからは、この技法が一般的に使われるようになりました。

 水銀は今では体温計の中に入っている銀色の表面張力の強い液体として有名です。中国の古代社会である五胡十六国時代(304年から439年)に鍍金はかなり流通したようです。ありがたい銅の仏さまに永遠の輝きを与えるのが金です。また金は極楽浄土を表現したものであるとか、たそがれ時の西方を表したものとも言われています。
 古代のエジプトにはエレクトラムという金と銀の合金があったようですし、金箔を張り付けたものはありますが、鍍金はないようです。
 鍍金を発明したのはいつの時代のどの民族かはっきりはわかりませんが、紀元前1500年から500年のルリスタン(Luristan)かスキタイ(紀元前700年から250年頃)のどちらかであると思われます。ルリスタン青銅製鳳凰小像については、本連載「掌の骨董」の第15回を参照ください。


かわいいルリスタンのひくい鳥(鳳凰)

 ルリスタンもスキタイもともに遊牧系騎馬民族で動物を模した青銅器は有名です。ガンダーラから仏教を引き継いだ同じ遊牧系騎馬民族の五胡十六国で初めて鍍金された10㎝から15㎝ほどの仏像が登場します。ガンダーラはアレキサンダー大王の東征によって造られたギリシャ植民都市であり、ギリシャ彫刻の影響を受けた石仏が中心となりますが、石は遊牧系騎馬民族には重く持ち運びに適さず、それまで身の回りの装飾品を製作していた高度な金属加工技術を使って、小さくしかも価値ある金の鍍金仏に急速に傾斜していったものと推測されます。日本では私の知る限り古墳時代の鞍とか馬具に鍍金が施されたようです。


東大寺大仏

 日本において後の天平年間、聖武天皇が東大寺大仏をお造りになった折にも同じ方法が用いられて製作されましたが、15メートルの金銅仏制作には膨大な青銅と金とそれに水銀が必要であったことでしょう。
 水銀に溶かされた金の溶液が刷毛で仏像に塗られ、それを更に熱であぶって金を青銅に付着させるわけですから大変な作業であった事が推測されます。特に熱であぶられた水銀は蒸発して人間の肺を傷めました。多くの工人たちが水銀中毒の犠牲になったことが考えられます。世界最大の東大寺建立の謎というか驚きは数え上げればきりがありませんが、日本人はコンピューターのない8世紀の時代で驚くべき能力を発揮しました。


空海

 そのような訳ですから日本の古代社会において、大仏制作の鍍金に絶対欠かせない水銀は極めて高価で貴重な鉱物でした。丹生(にう)とか丹(たん)というのが水銀です。後の話になりますが、平安前期の弘法大師空海の宗教である真言密教の道場のある高野山には丹生川という水銀が沢山採取される場所があります。空海の宗教を支えた財源はこうした鉱山探査から得たものが多いとされます。四国88か所のお遍路さんで有名な寺々の多くはかつて銅鉱山であったという研究もあります。空海が平安京の東寺や高野山諸堂を建立したり、国費留学生ではないのに遣唐使船に乗れたりした謎がこれで解き明かされます。膨大な鉱物探査と開発に携わったグループが存在し、彼らが空海の財力を支えたことになります。
 さて鍍金の歴史や空海の金属探査は大変興味深く、飽くことを知りませんが、このあたりで本題に戻りましょう。


印の細部 人物の顔

 この古印の金は厚く、美しく掛かっています。彫りはさほど後世のように緻密ではなく、むしろ粗目ですが、素朴で力強く、私には非常に魅力的です。この古印の時代判定の大きな手掛かりに思えたのが馬の姿と顔の表現でした。何とも言えない素朴な表情。私は特にこの馬の「面構え」が気に入っています。馬体はずんぐりと足も短く駄馬的な表現です。古代社会には今の作られた競馬馬、サラブレッド種はおりません。ですから昔の馬は背も低く、足も太く、短い駄馬のような馬なのです。唐三彩などに騎馬人物像がありますが、サラブレッドのようにすらりと足も長く、背丈も大きな馬であるなら、それは当時いない馬を表現しているわけで、見ただけで贋作である可能性は高いといえます。
 本作は駄馬で、騎馬人物の足も稚拙で短く、笑えます。しかし奔放そうなこの馬の顔には何か威厳が感じられます。かつて見学した西安の霍去病(かくきょへい)将軍の墓のそばに置かれている、匈奴を踏みつけている勇壮で憤怒と誇り高き表情の石馬の顔を思い出しました。この金銅印の馬の彫り方は明らかにそれに比べると古く、素朴です。これは後漢時代前後のものだと直感しました。騎馬人物を良く観察すると、顔は宇宙人的で眼が大きく力があります。タガネのきいた彫で力強い表情は、漢人よりも遊牧系騎馬民族を思わせ、眉毛の表情ものびやかで、素朴で観飽きない顔をしています。腕の表現もおもしろく、縄文時代の稚拙な土偶を思わせます。髪の毛を後ろに腰のあたりまで長く伸ばしていることが特徴的です。


後ろから観たヘアスタイル

 漢の武将でしたら髪の毛は頭上に高く太く束ねて、笄を差しています。また、馬の鞍も表現されていないところも遊牧系騎馬民族を思わせます。匈奴ないしはその同時代前後の北方系騎馬民族の将軍レベル以上に使われた古印という直感を得ました。匈奴、この呼び方は中国サイドから観た野蛮な異民族として名付けられた人たちのことです。

 まさにロマンあふれる後漢時代と三国志を中心とした3世紀から5世紀ころに活躍した匈奴、北方系遊牧騎馬民族の騎馬将軍レベルに使われた古印ではないかという直感を得ました。
 彫られている字体も古く、今後字体から製作年代の詳しい考察をしてゆきたいと考えています。


印の馬の顔
掌(てのひら)の骨董
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