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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董8.伝・当麻寺三尊磚仏(せんぶつ)

血なまぐさい古代史の鎮魂の磚仏


掌の「伝・当麻寺三尊磚仏」

 最近、寺院に対する関心が高くなってきているといいます。戦後の景気を支えてきた団塊の世代が定年退職の時期を迎え、新たに趣味となった最新のデジタル一眼カメラを持って、夫婦で京都でも旅行しようか・・ということからなのでしょうか、それとも終活の意識の流れで仏教に興味を覚え、実際に寺院をめぐって勉強してみようかという気持ちになったのでしょうか?いずれにせよ歴史や美術、宗教哲学に興味を持たれるのは大変素晴らしいことです。
 私は若いころ、出版社時代には制作部門を担当していたこともあり、雑誌のレイアウトを決める時には、カメラマンに依頼するより自分でそれに合ったイメージの写真を撮影したものでした。
 いろいろな会社案内のビデオ制作やDVD制作などを手掛けたことから、映画のシナリオまで書いたりしました。そうしたことから写真もプロの仕事としてこなしてきましたし、小さい時から好きだった絵画の世界への延長から挿絵のカットまで描いたりしました。
 そうした経験をしているうちに最も好きな古美術の世界にのめり込んだことから仏像の研究を始め、古寺にでかけることが多くなりました。
 私がそうした古寺の中で一番好きな雰囲気の寺は唐招提寺です。奈良時代の脱活乾漆の鑑真和上像(688~763)の崇高なお姿に惚れ込んでいることもその原因ですが、秋に可憐な萩が咲いている唐招提寺は静かでなんとも素晴らしいところです。


鑑真和上像

 仏像では三月堂の諸仏が好きですし、京都東山の永観堂の珍しい見返り阿弥陀なども好きです。また有名すぎる宇治の平等院鳳凰堂の国宝・定朝作の阿弥陀如来像も堂々としていて素直に素晴らしいと思います。奈良の興福寺にある山田寺伝来の仏頭も大好きなものの一つです。しかしそうした仏像のどれよりも威厳を感じるという点では「当麻寺金堂」の四天王像で、とりわけ広目天像がその筆頭に挙げられます。

 
山田寺仏頭と当麻寺金堂広目天立像

 この髭をたくわえた異国風のお顔は伝説によれば、壬申の乱(672年)を勝ち抜いた大海女皇子、後の天武天皇(631~686)の猛き姿だともいわれています。私は通常ですと仏像に相対した時に、そのお顔の優しさにうっとりするか、あるいは威厳にうたれて自然に頭を下げるような気持ちになるか、鑑真和上のお姿のように、強い意志を秘めたお顔に人間の信念や崇高さを感じるか、そのいずれかが自分が感動する仏像ということになるようです。いずれにしましても、仏像はそうした優しさ、感動、威厳、崇高さを与えてくれるものでなければならないと自分では思っています。
 古代史の中では藤原鎌足とともに大化の改新をなしとげ、ひときわ策士として異彩を放った中大兄皇子、後に猜疑心から無実な義父、蘇我倉山田石川麻呂までも疑って殺した天智天皇(626~671)、またリーダーとして勇猛で壬申の乱を勝ち抜いて即位する猛々しい天武天皇、天の智、天の武、両者共にいずれも名前に即した天性を持っていたようです。
 ところで出版人になりたての私に古代史への眼を開かせてくれたのが梅原猛氏の「黄泉の王(よみのおおきみ)・私見高松塚」1973年新潮社刊でした。学者とはこういう姿勢を持たねばならないのかと大いに教えられるところがありました。梅原先生の学問への真摯な取り組みにもとても共感が持てました。


斜め光線で浮かび上がる今回の「伝・当麻寺三尊磚仏」

 この当麻寺金堂四天王の内の広目天がもっとも威厳があるように思えます。天智天皇は百済系天皇で母親の皇極天皇、重祚して斉明天皇は百済の王女であったといわれています。白村江の戦いの時、母と百済救済のための援軍を自らが指揮して唐と新羅の大群と戦ったことから考えても百済系の人間であることは間違いないでしょう。一方、天武天皇はどうでしょうか。歴史書では兄弟ということになっていますが、後の世に万世一系という考え方から兄弟にされたと考えることもできそうです。白村江の戦いにも参加していない様子ですのできっと兄弟ではないのでしょう。新羅系とか高句麗系とされる天皇のようです。額田王(ぬかだのおおきみ)との間に十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけています。ある研究書によれば、額田王は純粋日本古代史の豪族である物部氏出身であるため、天皇に即位するためには彼女との結婚が条件であったのではないかという考えもあります。そう考えますと天智も後に額田王と結婚しています。天智に嫁いだ額田が標野(しめの)でうたった歌が万葉集に収録されています。「茜さすむらさき野ゆき標野ゆき、野守はみずや君が袖ふる」はあまりにも有名です。意味はあなた(天武)が私に手を振られるのを、この標野の紫野の番人(天智天皇)に見られたらどうしましょう(今の私の夫の天智は猜疑心が強いから前の夫のあなた(大海女皇子)との仲を何か疑われたりしたらどうしましょう)という含みのあるこの歌をよく考えてみると、額田王は男らしい天武がやはり好きだったし、天武も額田王を好きだったと思われます。天智が即位するために無理やり天武から額田王を奪ったとも考えられます。それはやはり天皇に即位し、衆人が納得する天皇になるためには古き日本の豪族である物部氏出身の額田王の力が絶対に必要だったとも考えられます。場所と時代は違いますが、古来実力で王になったエジプトのファラオが王として認められ、君臨するには伝統ある王家の女性と結婚する必要があったのと同じことなのかもしれません。権力は卑弥呼以来、女系であった可能性もあります。私は権謀術数に富んだ天智より、男らしく雄々しい天武に額田王は惚れていたのだと思います。二人には十市という娘までいたのですから。しかしその十市皇女には天智の息子の大友皇子、後に壬申の乱で自害する弘文天皇の正妻となっているという複雑な人間関係があります。古代史最大の壬申乱の時に敵方である父、大海女皇子に夫側の情報を流したことから後に殺害されたのではないかという悲劇が生まれたとされます。
 また歴史学者の小林惠子(やすこ)さんは著書の中で高松塚古墳は様々な理由から天武天皇の墓であると考えているようです。天武・持統陵は別にありますが、そちらが本当に天武の墓か、いまだ決まってはおりませんから、高松塚が天武の墓である可能性は十分あり得ます。高松塚の被葬者は頭蓋骨が抜き取られ、さらに副葬品の三種の神器の一つである剣の中身が抜き取られているため、復活を非常に恐れられた人間であると考えると、当時の権力者の中で高松塚の主として天武は一番ふさわしいように思われます。強さと雄々しさ、猛々しさ、威厳ある風貌を考えると、当麻寺金堂の四天王像、とりわけ広目天は天武そのものという感じがしてなりません。
 磚仏の磚とは、もともと装飾用タイルなどの意味であり、磚仏となりますと型で作られた塑造の仏像、すなわち平面的に素焼きされた粘土製のレリーフ仏ということになります。この時代、一番有名なのは川原寺出土の磚仏です。


川原寺裏山出土の三尊磚仏

 この磚物は今回の「伝・当麻寺三尊仏」と違って大きいものです。川原寺のものは唐時代の三尊磚仏を模したものだけに素晴らしいものです。

並行に割れた磚仏の様子

 そこで今回の「伝・当麻寺三尊仏」を詳細に見てみましょう。当麻寺は7世紀創建とされていますがだれが建てかはわかっていません。この寺の位置的な関係から考えると河内と大和を結ぶ線上にありますから、古代の交易ルート上ということから重要な寺であったことは間違いありません。寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、当麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみる考え方も有力です。仮にそうであれば国見の上司である天武に大いに評価された訳で、敬う天武の姿が「四天王像」に擬された可能性は大きくなります。
 過去にない強い顔立ちの四天王像です。そもそも四天王像の顔はすべて天武の顔であるという言い伝えがあることからも、ますますその信憑性を高くしています。
 壬申の乱は古代史最大の戦いといわれ、天皇制の確立に大きく前進した戦いとされます。「天皇」という称号を初めて使ったのが天武とされます。敗者と勝者がはっきりして、敗者が完全に処罰され葬り去られました。天皇制という中央集権国家が成立してゆく大きなきっかけになったのがこの壬申の乱なのです。
 この磚仏は掌にのる小ささです。劣化してますが三尊形式であることが光の当て方でおぼろげにわかります。右側の菩薩像が摩耗して見えませんが、この磚仏のおもしろいところは、側面から平面的に二つに割れていて、香合のようになっているところです。像を型で美しく表現するために、型に粘土を半分しっかり押し付けて、その上から残りの土を再度押し付けて制作したと考えられます。最初の粘土はしっかり固く強めに押されたため、上からのせた土との接着性が弱かったようで、後にその部分から上下に割れて剥がれたようです。最初の粘土をしっかり押した痕が明確にわかります。指紋はさすがに残りませんが、きわめておもしろい遺物です。
 素朴な作ゆきは、土のもろさと相まって、独特な風合いを見せてくれています。年代的には掌にのる小さい磚仏で、8世紀初頭の白鳳期の作であると思われます。
 飛鳥後期から白鳳時代は権力が形成される時代ですから、持統天皇、藤原不比等によって天武亡きあと、天武系の多くの皇子や皇女が陰謀の犠牲になり、命を落としたとされます。当麻寺がそうした亡くなった多くの人たちの鎮魂と天武を敬う当麻国見の寺となれば、こうした鎮魂の磚仏は当麻寺にこそふさわしいように思えるのです。


当麻寺遠景

当麻寺練供養会の様子
掌(てのひら)の骨董
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