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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董47.鎌倉時代の金銅仏・阿弥陀如来像と種田山頭火


阿弥陀如来像

 今回は鎌倉時代の金銅仏「阿弥陀如来」に登場してもらいます。この金銅仏はかなり古い時期に軽い火災に遭ったみたいで、台座の蓮弁や手が溶けてありません。お顔も首も少し溶けかかり、本来あったであろう渡金も残りません。本体の頭部は若干傾き加減ですが、これがなんともかわいい感じです。


傾いた頭の「阿弥陀如来像」

 昔の日本の家屋は簡単な木造ですから、火が出るとよく燃えますが、あまり長い時間は燃えなかったようです。特に戦乱や天災の多かった昔の家は質素でしたし、さらに鎌倉時代の吉田兼好の「徒然草」に書かれているように、家は夏用に涼しく過ごせるように風通しよく建てられた可能性は高いといえます。冬の寒さはいかようにも暖かくできると兼好はいいます。鎌倉時代の夏も相当暑かったみたいです。特にクーラー全盛の現代と違い、京都や鎌倉は盆地ですから、蒸し暑く、暑さ対策、風通しは重要だったのでしょう。


エジプトの浄土を司るオシリス神

 さて今回の仏像は「阿弥陀如来」です。阿弥陀はエジプトの冥界を司るオシリス神に起源を発すると考えられる渡来系仏で、死後の極楽浄土の世界を司る仏様とされます。この仏様の名号「南無阿弥陀仏」を唱えると、誰でも極楽浄土に往生できるとされ、空也上人、法然上人、親鸞上人と引き継がれた浄土宗、浄土真宗の最高仏とされています。「南無」とは帰依すること、おすがりすることを意味します。「南無阿弥陀仏」は自分で死後のことはあれこれ考えないで、阿弥陀様にすべてお任せします、どうか極楽浄土にお導きくださいという意味です。すべて阿弥陀様にお任せですから「他力本願」といいます。この反対が「自力本願」で、修行によって、自分で自分の人生の事、自分の死後のことを考えることを「自力本願」といいます。禅宗などがそれに該当するでしょう。


藤原氏によって建立された「宇治平等院」本尊・定朝作・国宝・阿弥陀如来像

 平安時代は藤原氏による貴族政治の全盛時代で、豊かな貴族たちが寺院や僧たちの生活を援助していました。そのため僧侶は貴族たちがやすらかに極楽浄土に往生できるように祈る傾向が強く、経済力のない庶民や貧民たちはまったく救われない状態でしたが、親鸞上人が布教の中で「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるといわれ、死の恐怖からの庶民救済の道をつくりました。そのため、わかりやすい親鸞上人の「浄土真宗」の教えは爆発的に信者を増やしました。


親鸞聖人像

 1206年、建永元年に法然、親鸞は法難に遭います。美男美声の弟子の安楽坊が後鳥羽上皇の熊野神社参拝の留守中に侍女の松虫、鈴虫という上皇お気に入りの女性二人を出家させるという事件が起きました。更に安楽坊は御所に宿泊した事実も発覚して、後鳥羽上皇は激怒、1207年建永2年、安楽坊は三条河原にて死罪に、師の法然は土佐に流罪、親鸞は法然上人に許された妻帯の罪も合わせ越後に流罪となりました。法然上人の専修念仏の信者獲得に危機感を抱いた旧仏教派の動きも背後にあったという説もあります。親鸞は配流先の越後で布教、彼の分かりやすい教えは、またたくまに越後、越中、越前に多くの信者を獲得します。貧しい人たちの魂に救いの手を差し出した親鸞上人はやさしい人であったと思います。彼は日野氏という名門の出で、母親を早くに亡くしています。
 宗教家で母を早く亡くしているのは空也上人、一休禅師、円空、種田山頭火などたくさんおられます。この中で、種田山頭火は一応、僧ではありますが、宗教家というより自由律俳人としての方が有名です。私はこの11月前半(平成30年)、九州国東半島に眠る多くの石仏、磨崖仏を研究のために訪れました。また九州熊本県と福岡県の装飾古墳を大半回り、そのすばらしさに触れてきました。
 その旅の最後に学生時代から大好きな種田山頭火の故郷、山口県防府市の生家跡を訪ね、念願であった墓参を済ませ、帰りの途中に立ち寄った京都にてこの原稿を書いています。種田山頭火について書くことは、これからもないと思いますので、ここで少し書かせていただきたいと思います。


種田山頭火

 種田山頭火は資料によると明治15年に山口県防府に生まれ、58歳(昭和15年)のときに脳溢血で愛媛県の一草庵で亡くなりました。この写真は45歳から50歳くらいの写真かと思います。防府市に訪ねた菩提寺、護国寺の住職様から複写させていただいた写真です。山頭火は曹洞宗の托鉢僧、行乞僧として生活しました。山頭火(本名・種田正一)は11歳の時、資産家の父の芸者放蕩で、愛する母が悲しみと絶望のあまり井戸に入水自殺、多感な山頭火の楽しかった少年期は悲しみの人生へと急転したといいます。母の入水自殺の時、父は芸者と安芸の宮島に遊んでいたとされています。そのためか、山頭火は一度しか宮島に足を向けていません。それもきっと母を弔うためだったと思われます。

 愛する母の死にもめげず高校を主席で卒業した彼は早稲田大学文学部に進みましたが、過度の神経衰弱に悩まされ、退学。また悪いことにその頃、資産家の父の造り酒屋が放漫経営で倒産、家屋は人手に渡り、父の行方不明など不幸が彼を襲いました。もともと生活力の無い彼から生活費と居場所が失われ、それが彼を放浪と酒と、はた目には破綻と思われる人生に追いやったのだろうと思われます。彼は若くして死んだ母への想いを、そのやるせない想いを15歳で始めた俳句に込めることにしか自分の生きる道をみいだせなかったのではないでしょうか。
 そんな行乞の中に生きる山頭火を、俳句の師である荻原井泉水、句友たち、そして妻が離婚されても暖かく見守り、支えました。彼らは山頭火という芸術家の心の奥の、地面を這うような生きる苦しみと哀しみを理解し、そこからほとばしる素直な句を心から愛していたからではないでしょうか。山頭火の人生は女性には身勝手な、わがまま人生に映るようですが、男には放浪と孤独に対する憧れと畏れがあり、母、友に対する想いにも山頭火を偲ぶとき身につまされる部分が多いのです。

 行乞放浪する中で山頭火は良寛を愛しました。彼はあこがれる良寛の清貧の生活と歌に敬意を抱いていたことでしょう。たびたび良寛の遺跡を訪ねています。今回の私の旅行の中で、岡山に寄りましたので、良寛が若き日に修行した圓通寺に寄り、良寛を偲びました。その折に山頭火の句が石碑に彫られているのに気がつきました。

山頭火は基本的に自然を愛しましたが、それは良寛も同じでした。昭和11年、死の4年前にここを訪れて、

岩のよろしさも良寛さまのおもいで

と詠んでいます。


圓通寺山頂の巨石 良寛はここで座禅したであろうと思われます。

 確かにこの圓通寺の山頂には巨石が多く、古墳が作られた痕跡もあります。山頭火は彼の晩年の日記・随筆集である「一草庵日記」の中で、四国遍路道を歩いた時にこう書いています。

 「室戸岬は真に大観である。限りなき大空、果てしなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽きない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる・・・」

 自然、特に石の魅力、力に山頭火は魅了されていたに違いありません。良寛が12年修行した圓通寺はまさに巨石の山であり、それを良寛も山頭火も愛したのです。古来、日本の大和三山の中心をなす三輪山の頂上にも信仰の対象になっている神石・磐座が三か所あります。巨石文化は古く、縄文時代からあり、世界にも数多くそうした文化は見受けられます。山頭火も石の魔力、力に感じ入っていたのでしょう。

円空作・観音菩薩像(三重県・眞教寺蔵)
スピード感のある菩薩と阿弥陀

 さて母を亡くして同じように、悲しい人生のスタートを切った芸術家に江戸時代初期から中期の僧、円空(岐阜県関市にて1695年没)がいます。円空は山頭火と同じように、幼少期に村を襲った水害で早くに愛する母を失い、それが彼を行乞僧として仏像彫刻と全国放浪に駆り立てたようです。生涯に12万体造像を目指し、現在5300体余が残っているといわれます。極論をいえば、彼の造像はすべて亡き母に供養されたものといえます。円空仏の謎は造仏の多さとそのスピード感です。それは幼い時に別れた亡き母への哀しい想いを振り払うように、寸刻も惜しみ亡き母への哀しみの思いをすべて造像に転嫁したようなスピードだと思います。スピード感故のシャープさなのですが、観音菩薩像だけは別で、彼を代表するような丁寧な素晴らしい作振りです。そうした母への思いが観音菩薩さんには特別にしっかり刻み込められた故といえるでしょう。

 山頭火の人生は円空の仏像彫刻を俳句に置き換えた人生に思えます。それぞれの人生の哀しみは本人にしかわかりませんが、洋の東西を問わず、さまざまな、そうとしか生きれない芸術家の生き方をみることはいろいろと考えさせられます。山頭火の

「うどん供えて母よわたくしもいただきまする」

 哀しみを越えた、いい句です。わたしは山頭火の墓参を終えたときにこう確信しました。この一句をつくるためだけに彼は生きてきたんだと・・・。この句は彼の死後、愛する母の墓の隣に造られた山頭火の墓にそえられた自由律の句です。彼は芭蕉を慕い「奥の細道」を逆に巡っていますが、五七五の俳句の形式に囚われない自由で、心からわき上がる素直な思いからの言葉で句を作ってきました。だから読む者の心に響くのです。自由律の俳句は識者の間では賛否両論ですが、わたしは好きです。何回も本で読んできた句ですが、墓参を済ませたいま、あらためてこの句を思い、この文章を書いていて眼が涙でかすみました。泣ける句は初めてです。


母の墓の横に造られた山頭火の墓

 今回の鎌倉時代の金銅仏「阿弥陀如来」さまは12センチほどの、まさに掌の骨董にふさわしい仏さまです。27年間、私と一緒に居られましたが、先日ご主人を亡くされた日本骨董学院の会員さんとのご縁があり、そちらに転居されました。これも仏縁ですから、悦ばしいことと思います。


阿弥陀如来像
掌(てのひら)の骨董
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