文化講座
掌の骨董12.江戸根付師・鈴木正直作「老蛙根付」
鈴木正直作「老蛙根付」
新年あけましておめでとうございます。本年も皆様に気に入っていただける古美術・骨董品についてお話しさせていただければ幸せです。
本年初回は新年にふさわしい長寿と古くから再生・復活のシンボルとして敬われてきた「蛙」に登場していただきましょう。前回も少しでしたが古代朝鮮の玉製の蛙に登場してもらいました。
根付だけでの取り上げは今回初めてとなります。根付はどのように使うのかといいますと、印籠と根付は下げ緒でつながっており、印籠を帯から吊るす時に、根付を帯の下から上に通して帯の上に出して、いわゆるストッパーとして印籠を保持する役割を担ったものです。この3㎝から4㎝に満たない小さな作品に根付職人たちは一つの宇宙を表現しました。この作品を手にしたときに、なんとも形容しがたい感動がありました。おそらく素材は柘植(つげ)の材だと思われますが、鹿角かもしれません。そうした材料で丹念に制作された作品で年取った蛙の雰囲気が非常によく表現されています。
伊勢伝統工芸保存協会のホームページを見ていましたら、ほぼ同じ作品が掲載されていました。
伊勢伝統工芸保存協会のホームページ掲載の正直根付の写真と今回掲載の著者所有の作品のサイン
老蛙の姿、形、雰囲気もほぼ同じです。作者、鈴木正直は江戸時代後期の伊勢の名工といわれ、その後代々技術が受け継がれているようです。
有名な伊勢志摩の真珠王・御木本幸吉翁も、伊勢が生んだ名工・鈴木正直(すずき まさなお)作の狸の根付を「人を化かす狸を正直(しょうじき)が作ったとはおもしろい。」
といって求め、最も大切にしていた矢立にアクセサリーとして結わえていたといいます。
また江戸の後期に浮世絵が大流行しました。その大きな原因は、伊勢参りが庶民に解禁になったことに端を発します。伊勢参りをするのがもちろん目的なのですが、そのついでに富士山を色々な角度から楽しんでみたいとか、箱根の温泉につかって命の洗濯をしたいとか、東海道途中のおいしい物を食べたいとか、現代と同じような名所観光を楽しむ風潮が出てきたのです。そこにうまく照準を合わせて出版されたのが北斎や広重の風景浮世絵でした。「富嶽三十六景」「東海道五十三次」「江戸名所図絵」などはいわば現代のビジュアル旅行案内書とでもいうべきものといえるでしょう。
鳥居清長の「箱根七湯めぐり」より
「温泉」が都市に住む庶民の娯楽になるのは江戸時代中期以後です。歌麿の美人画の先達ともされる浮世絵師、鳥居清長の「箱根七湯めぐり」(1781年・天明元年)、歌川広重の「箱根湯治の図」(天保3~12年)などの浮世絵が続々出版されたのがその始まりです。徳川幕府の御膝元の江戸では古来「入り鉄砲に出女」には注意しろ、と関所役人は上から厳重注意されていたので、江戸の出入りは厳しく制限されていました。「入り鉄砲」とは、江戸で騒乱や反乱が起きないように、鉄砲の持ち込みに対する警戒を怠るな、ということ。「出女」とは、1615年・元和元年にできた「参勤交代制度」により諸大名の正妻と跡取り息子は江戸屋敷に置かせ、このいわば幕府にとって重要な人質に逃げられないように、関所を出ようとする女(奥方)にはくれぐれも注意せよ、という御触れの事です。しかし、後に人の流れが経済と密接に繋がることに気付いた幕府は次第に統制を緩めて行きます。
葛飾北斎作「富嶽三十六景」より
中でも絵師たち、すなわち葛飾北斎が「富嶽三十六景」(1831年・天保2年)、広重が「東海道五十三次」(1833年・天保4年)などを発刊する世相では、庶民の間に旅行気分が一挙に高まりました。それを益々強めたのは、昔からのお伊勢参りでした。伊勢参りは宗教行事として認められてきたので、それに付随した宿場町と寄り道的な東海道の名所の観光案内書として発行したのが「東海道五十三次」だったといえます。お伊勢参りの名目で遊興を楽しむような風潮が増えてきた、ということです。それだけ庶民の暮らしぶりが楽になって来たともいえるのです。次第に各地の温泉が庶民の楽しみに格上げされ、大都市江戸では手近な箱根あたりが恰好の観光地になり、今に至ります。
現在でも伊勢参りは特別に人気があり、20年に一度の「式年遷宮」などにでかける方々は後を絶ちません。この風潮は江戸時代後期からあったのです。
また「蛙」という題材についてですが、古くから蛙は再生・復活の神様だったのです。蛙は卵から変身を繰り返し、尾のあるおたまじゃくしになり、その後足が出て、手が出て、次第に蛙の形になって尾もなくなります。蝉も蝶も蜻蛉もみな同じように複雑な「変身」をとげます。
その変身の様子を見ていた古代の人たちは驚きの眼で見守ったことでしょう。
人間もいつかは死を迎えます。古代においては生きることそのものが苦しく、毎日を過ごすことが精いっぱいだったに違いありません。だからせめて死後の世界では幸福な人生を送れるように安楽な世界に復活・再生したいという望みが強かったのだと思います。
またエジプトでは現世への復活・再生が祈られたようで、ミイラがつくられました。死をエジプト人は魂と肉体の分離と考えたようで、いつか魂が肉体に戻り、再生・復活できると考えたようです。その時のために肉体が滅びぬようにミイラをつくったのです。
人々の再生・復活への願いは宗教に端的にあらわれます。南無阿弥陀仏の六字名号を称えれば、極楽往生がかなうという浄土宗、浄土真宗の教えがそうです。死と死後への想いは永遠のテーマです。お釈迦様も死後のことはわからない・・と言われています。
古代中国・漢時代の副葬品と思われる「蝉」
中国の古代の権力者のお墓に埋葬された遺体の口には蝉型の玉器が入れられることが多いのですが、まさに蝉の再生・復活の力にあずかるために悪霊の入り込みやすい口に入れて体を守ったのだと思われます。蛇の抜け殻が神社の守り神であることも同じ考え方によるように思われます。蛇は脱皮を繰り返すことによって成長して力を増します。すなわち生命の更新を意味しています。蝶もやはり変身して、脱皮して羽が生えて飛んでゆきます。神聖な動物として崇めたようです。古代ギリシャのプシケ伝説にその面影がうかがえます。
この老蛙は枯淡の味わいを見せてくれています。古井戸の底の抜けた釣瓶の上に乗っていていかにもそのあたりの主といった風情です。古井戸ではありませんが、芭蕉の有名な句がありますね。「ふる池や かわずとびこむ みずの音」を思いださせます。芭蕉は侘び寂びの名句が多く、静謐な世界である古池に、ポチャンと蛙が飛び込んだ音に驚く芭蕉。そんな素直な感覚が風景と共に脳裏に去来します。
この蛙にもそんな世界が感じられます。小さくてどこまで写真撮影ができるかわかりませんが、この細密さは尋常ではありません。前のめりに身を構えている様子はある意味、ユーモラスです。普通の蛙表現の一境地を超えているように思えるのですが、いかがでしょうか?背中の年老いたコブのような表現も一見写実的ですが、どこかユーモラスです。京都栂ノ尾高山寺の鳥羽僧正の筆になるという国宝「鳥獣戯画」も同じですが、ユーモラス(漫画)と芸術性のすれすれのところに位置しているのが名品の一つのありようかもしれません。研ぎ澄まされた緊張感だけでは芸術とは言えないのではないでしょうか。またあまりにもくだけすぎると緊張感がなくなり、観ている側に作品の深さが伝わりにくいですね。微妙なかねあいなのです。
鳥獣戯画の一コマ(国宝・京都・高山寺所蔵)
さて作者の鈴木正直はなぜこうした「蛙」を制作したのでしょうか。もちろん今述べてきました宗教的な側面について作者は知っていたと思われますが、伊勢には遥か遠くからも多くの参拝者が訪れました。江戸から京都まで普通の大人で13日から15日かかったといわれます。女性やお年寄りはまた更に日数がかかったでしょう。私などスニーカーでちょっとウオーキングしても足が痛くなりますから、京都と同じくらいの距離にある伊勢まで行ってお参りしてまた帰るには大変な思いをしたはずです。旅に病む方々も多かったでしょうし、帰れない方々もきっといたでしょう。そんな旅の苦労を乗り越えて無事に「帰る」事を「蛙」に重ねて願って制作し、遠くからお参りに来られた方々のお守りとして、またお土産として販売したのではないかといわれています。
しかし土産品とは比べようもないくらいこれは芸術性豊かですし、観ていて飽きの来ないものです。素晴らしいなぁと感心します。私は根付を特別に収集している者でもないし、根付の専門家といえる者でもありませんが、いつも心に響く作品に出合いたいと願っています。いろいろ今年も楽しみ、また探してゆきたいと思っています。