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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董19.デルフト陶器

オランダのデルフト色絵陶器盃


色絵デルフト盃

 私が桃山後期、江戸前期の歴史で興味深く思うのが日本とオランダとの関係です。当時、オランダやイギリス、スペイン、ポルトガルは大航海時代を経て、各々がアジアとの貿易や、またあわよくばアジアを侵略して植民地とし、国益に貢献しようと競っていた事実があったからです。その背景にはマルチン・ルターによる宗教改革の影響がありました。結果的に免罪符販売による収入が激減したローマ・カトリック教会側は宣教師たちをアジアに派遣し、布教によってその穴を埋めようとした事実がありました。ちょうどマゼランやコロンブスによる大航海時代によって航路も発見された時代、日本は信長の天下でした。ポルトガル船に乗って日本へやってきたカトリック教会の宣教師たちが紹介した進んだ科学技術や文化、合理主義に興味を示した信長は、日本の堕落した仏教界に対する当て馬的意味からキリシタンを利用したと考えられます。イギリスはヘンリー8世の離婚問題によりローマ・カトリック教会から破門されていましたので、政治的には反カトリックの立場でした。


ヘンリー8世肖像画

 ところで、日本がオランダと最初に関係を持つのは、ちょうど関ヶ原の戦いの半年ほど前の1600年4月19日のことでした。オランダ船リーフデ号が豊後の沖に漂着したのです。その船に乗っていたのがイギリス人航海長であったウイリアム・アダムス、後の三浦按針とオランダ人乗組員ヤン・ヨーステンでした。この日、徳川家康が彼らに面会したことが後のオランダとの関係を築き上げたとされます。海賊と思い込んでいた家康は彼らの正直でまじめな態度と報告に感心して、武士として高禄を与え、帯刀も許し、日本人妻を娶らせて重用します。面白いのはこのときヤン・ヨーステンが家康から屋敷をもらい受けたのが今の東京駅八重洲あたりとされています。八重洲という名はヤン・ヨーステンから付けられたといわれます。当時関ヶ原の戦いを控えた家康は多忙であったと考えられます。ましてこのイギリス人とオランダ人のプロテスタント乗組員二人を敵視しているポルトガルのカトリック宣教師たちからは、彼らを処刑せよとの要求まで出ましたが、その要求を退けた家康は、彼らとのその後の将来に期するものがあったのでしょう。その後の徳川幕府によるカトリック宣教師たちに対する過酷な迫害にもかかわらず、オランダが例外的に出島に出入りを許されたのも、家康に誠意をもってヨーロッパの宗教事情(特に宗教改革の舞台裏)を話したヤン・ヨーステンの人柄を重んじたゆえのことであったのだと思います。


伊万里の色絵皿に描かれた当時のオランダ船とオランダ人たち

関が原合戦図屏風(六曲一隻)1600年10月

 歴史的にみて江戸時代前期の重大事件は、キリシタン弾圧です。これはやはり徳川幕府が西欧列強による日本侵略を恐れたからでしょう。それゆえの鎖国に歴史は動いてゆきます。ただすべてのヨーロッパの国々が鎖国令によって日本から締め出されたにもかかわらず、ヨーロッパ勢の中で特にオランダだけが出島に出入りできたのは前記のようにオランダと家康との関係が大きく作用していたためだと考えられます。オランダの東洋貿易の中心は中国陶磁器の輸出で、それによって17世紀、18世紀は莫大な収益をオランダにもたらしています。レンブラントやフェルメールの活躍もそうした経済的バックに支えられていました。しかしオランダはその中国貿易の中心であった磁器製品輸入が中国の王朝交代を演じた明と清2か国の戦争のために阻害されたことによって大きな損害をこうむります。そこでオランダは伊万里磁器に白羽の矢をたて、伊万里に中国磁器を模倣させて、中国陶磁器としてヨーロッパに売ることを考えたのです。ところが伊万里磁器は関が原で家康に敵対した外様大名、鍋島藩が製作しており、その対応に苦慮したと考えられます。その時にやはり長い徳川家との厚誼がものをいったと考えられます。関ヶ原の敗戦以来、経済的に追い込まれていた鍋島藩にとって、オランダとの貿易は願ってもない幸運と言わざるをえないでしょう。それによって鍋島藩は借金地獄から息を吹き返しました。それが伊万里磁器の発展と技術革新を成し遂げた鍋島藩のお家事情といえるでしょう。


鍋島の作品 「松に鶴の巣ごもり図」元禄頃

 その素晴らしい技術をオランダは学び、独自の焼き物を作り出そうとします。それがデルフト陶器です。伊万里を模倣した陶磁器としては18世紀初頭のマイセンが有名ですが、デルフト陶器はフェルメールの名作「窓辺で手紙を読む女」(1657年から1659年に描いた絵画)にブルーの顔料の文様の皿が描かれていますから、マイセンより早い時期に中国や伊万里に似た作品を焼き始めていたことは確かです。
 私はデルフトまで古い焼き物を求めて旅したことがありますが、その時は見つかりませんでした。ところが後にフランス、パリのバスチーユで年2回開催される大規模なアンティーク・フェアにオランダから出店していたディーラーから2個の古いデルフト盃を購入することができました。一つは色絵の花模様の盃で、土も釉薬もかなりもろいものですが、わびた感じの盃です。もう一つは織部の千鳥の文様に似たややブルー味をおびた鳥の絵がたくさん描かれた盃です。それももろいもので、縁のほつれがかなりあり、やはりわびた感じが強いものです。


良い美術品が集まるバスチーユのアンティーク・フェア風景

 このデルフトは初期の作品だろうと思いました。初期は錫釉が掛けられて、地肌ももろく、とても磁器とはいえないものです。デルフトでは輸入された中国磁器や伊万里磁器を研究したでしょうが、なかなか同じレベルのものはできなかったようです。しかしデルフト陶器は今にして思えば、その未熟さになかなか味わいがあり、私は好きです。現代の完成されたデルフト陶磁器は美術品としての鑑賞には耐ええないものと私は思います。
 呉須(酸化コバルト)の美しい作品はなんといっても中国の「祥瑞(しょんずい)」で、色も磁器質も美しいもので、呉須の美しさでは筆頭に挙げられる作品でしょう。私の持っている明末期の杯か煎茶碗の写真を見ていただきましょう。


明末期の呉須の美しい小盃

 詩経とか易経と文章が書いてありますから、四書五経の絵柄に神か鬼かわからない姿が描かれていて、面白いものです。呉須は最高にきれいな発色をしています。オランダはこうした中国や伊万里の、最高に利益をあげられる磁器類を独自の技術で生産したいと願っていたに違いありませんが、材料や技術がついていかなかったのでしょう。後のドレスデンのマイセンに先を越され、ここで遅れをとったことが後にオランダの大きな経済的衰退を招く原因となり、華やかな貿易の表舞台から姿を消すことになってしまうのです。


手前左3点はデルフト、あとは初期伊万里の盃(筆者蔵)
掌(てのひら)の骨董
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