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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董16.加賀・松原図縁頭から思うこと


加賀・松原図縁頭

 私は18歳から刀剣に興味を持ち始め、現在師と仰ぐ飯田一雄先生に教えを受けたことが本格的に古美術・骨董とかかわる契機となりました。勉強を始めますと、刀本体だけではなく、外装部分すなわち拵(こしらえ)にも興味を持ちました。刀本体ももちろん素晴らしく、勉強会をかねた刀剣博物館の鑑定会に出品された重要文化財指定の備前の名刀、畠田守家の太刀のすごさにただ見とれた思い出があります。それが刀にのめりこむ最初のきっかけだったのです。本当に今でも目に焼き付いて離れない思い出の太刀で、守家独特の大蛙子丁子(おおかわずこちょうじ)の刃文に見事な映りが全面に立ち、景色、変化にあふれ、華やかというかそれは息をのむ美しさでした。こんなに刀は美しいものなのだと驚いたものでした。
 そして刀に次いで刀装具の中で一番の人気はやはり「鍔」でしょう。腰に刀を差すと、一番人の目に立つ場所についておりますし、古今の名工が製作しており、この「金工」というジャンルも一生研究しても尽きない世界です。
今回はおそらく金工刀装具では一番地味な分野である「縁頭(ふちがしら)」について書いてみたいと思います。
 縁頭は刀の握る部分、すなわち柄(つか)といいますが、その上下を締めてしかも装飾している極めて重要な部分なのです。刀は自分の命を守る最も大切な武器であり、精神的バックボーンですので、とても合理的に、かつシンプルに作られています。軽すぎず、重すぎず、持つ武士の体格に合わせて製作された合理の世界であるとともに美学の頂点に位置する世界でもあるのです。その刀を持つ武士の生きざま、宗教観、考え方、センスなどすべてが刀に投影されていると考えてもいいと思います。




柄の各部の図と名称

 今回テーマにした縁頭は加賀、今の石川県の金工作品で、財団法人 日本美術刀剣保存協会の鑑定書のついた作品です。私はこの松の描かれた赤銅魚子地(しゃくどうななこじ)高彫金色絵の縁頭が好きで、愛蔵して10年になります。派手さがなく地味ですが観ていて飽きません。赤銅は金と銅の合金で、黒ずんだ落ち着いた風合いに変化し「渋い」味わいを醸し出してくれる最高の素材なのです。将軍から武士にいたる各層に愛された高級素材、それが「赤銅」です。そこに魚子地、小さな鱗のような点々、見えるか見えないかの本当に小さい点々が見事に打刻されているのです。むやみに打てばよいというものではなく、整然と大きさを違えず打刻の力を一定に打たねばなりません。ですから休む間もなく完成するまで緊張度を持続しながら打ち続けたに違いありません。ルーペで鑑賞すると、その緊張した様子が伝わり、こちらまでもが息苦しく感じるほどです。できるだけ拡大してみました。



加賀 松原図縁頭

 松は将軍家や武士たちに愛された縁起のよいものの代表格です。常緑樹である松は枯れないことから壽、命長しという長寿のシンボルとなりました。松竹梅の一番先にあるのが松です。徳川将軍家の弥栄を祈ったものなのです。あの忠臣蔵の浅野内匠頭刃傷で有名になった「松の廊下」のように、江戸城はいたるところに松図が描かれていたようです。将軍謁見の間もすべて松尽くしだったようです。
 松はまた松籟の風といって、寂しげに吹く風音は墓地のイメージともつながります。永遠の眠りにも松はふさわしいものかもしれません。
 私の本家の墓地はその松の多い多磨霊園にありますが、すぐ近くに日露戦争で日本を救った児玉源太郎大将の墓があり、墓参の折りによくお参りさせていただいております。私の尊敬する人物の一人です。児玉源太郎大将は、当時の日本陸軍士官学校で教鞭をとったドイツ陸軍参謀少佐のメッケルが「児玉がいれば日本はロシアに勝てる」と太鼓判を押したほどの秀才、逸材でした。若き日に児玉が谷干城とともに戦った西南戦争の折りに西郷隆盛軍と激戦を交わした熊本城の籠城戦・・・児玉は加藤清正以来の城の石垣上の本体木造部分をすべて取り壊し、土台である石垣だけで、燃えるものを無くして闘い抜いた智謀の将でした。熊本城を落とせなかったことが西郷軍の大きな敗因であり、逆に言えば児玉源太郎の智謀と奮戦があったから明治政府軍が勝てたともいえます。


児玉源太郎大将

多磨霊園・彼と妻の墓石

 日露戦争の勝敗を分けた旅順の戦いで、司馬遼太郎の説によると、武士道的精神論を重んじる乃木大将は、ロシアの機関銃を前に兵たちに半年近くの長きにわたり敵から目立つ白襷をかけさせて無謀な突撃を繰り返させ、戦死者15400名、戦傷44000名、延べ6万名近い損害を出しとされます。乃木将軍は有能であったか、無能であったかについては諸説ありますが、無能ということはないと思いますが、1要塞の奪取に戦死、戦傷だけで6万名という多くの戦力を失ったことは空前絶後の事実でした。戦争の継続が危ぶまれるとともに、バルチック艦隊接近の危機感から乃木に代わり急遽、児玉源太郎の指揮に換え、わずか4日で203高地を陥落させたとされています。なぜ203高地が大事かというと、203高地からは旅順港に停泊するロシア艦隊が丸見えで、そこから彼の指揮で旅順港のロシア艦隊を最大の28センチ榴弾砲で山越えの位置から狙い定めて撃滅させたのです。このおかげで東郷平八郎率いる連合艦隊が憂いなく日本海海戦で勝利できた下地をつくったのです。私はこの日本を陰で救った児玉源太郎大将が軍医総監であった石黒忠悳(ただのり)に宛てた、皇室の繁栄と王子(後の大正天皇)誕生の祝いを記した手紙を大切に持っています。


児玉源太郎の手紙

203高地

 今、熊本は何百回という地震・余震で大変な思いをされています。心からお見舞い申し上げます。
加藤清正が構想して造らせた、あのすばらしい石垣が地震で崩壊しつつあり、城も櫓も危機に瀕していることは大変残念です。若き日の児玉源太郎が谷干城とともに死守した歴史的な熊本城が何とか存続してほしいと願わずにいられません。


熊本城・石垣
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