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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董17.舎利容器 ガンダーラ出土・銀製の舎利容器


ガンダーラ銀製舎利容器

釈迦の死 涅槃 死とは何か

 仏教の目指すものは何でしょうか?それは一言でいうと「世の無常を認識し、欲望と生と死の執着を捨てること」と私の尊敬する浄瑠璃寺のご住職の佐伯快勝さんがおっしゃっております。その佐伯快勝さんが今年3月に83歳でお亡くなりになりました。生前にお話を伺えたことが懐かしく思い出されます。浄瑠璃寺は京都と奈良の中間にあって、平安時代の元の趣を残した、数少ないお寺で、特に国宝の九体阿弥陀仏と平安の浄土庭園がすばらしいところです。また重要文化財の吉祥天女像も有名です。九体阿弥陀仏の胎内から見つかった平安印仏も手ごろな仏教美術として有名です。
 佐伯師はいつも拝観に来られる方々を外で迎えてお話をされるのがとてもお好きな方でしたし、そうした気さくさを慕う方々がたえず訪れて来ていました。
 今回は佐伯師の思い出から、仏教とくに釈迦にちなむものを取り上げてみました。


浄瑠璃寺

九体阿弥陀像

 浄瑠璃寺の三重塔を支える塔心礎にも必ず「舎利容器」が収められています。舎利とはお釈迦様のお骨のことをいいます。お寿司の用語で米のことを「銀シャリ」といいますが、実はお釈迦さまの細かく砕かれたお骨に由来した言葉なのです。
 お釈迦様がお亡くなりになったときに、荼毘に付された遺骨は八等分され、残った灰や容器も含めて十か所の寺院に納められたとされています。その200年後にインド・マウリア朝のアショーカ王がそれらの骨を発掘して、さらに細かいお骨に粉砕して8万あまりのお寺に再分配したとされています。そのお骨が入れられ、祀られた容器を「舎利容器」といいます。また仏教の発展過程で寺院建立が盛んになり、舎利が足らなくなった中国では、寺院に納められた塔の前で供養された宝石類は釈迦の骨と同様にみなされたことから、小粒の瑪瑙、真珠なども埋納されたとされます。
 日本への仏教の伝来は日本書紀による552年説と元興寺縁起、上宮法王帝説などから538年とする2説がありますが、百済の滅亡との関係から538年説が強く支持されています。「舎利」は梵語で遺骨、遺体を意味するシャリーラ(śarīra)の音写に由来するとされます。またお墓はスツーパといわれ、やはり梵語で卒塔婆(供養塔)とか塔を意味してます。もともとお釈迦様のお墓の円墳とその上に立つ相輪と言われる部分が相互に発展して三重塔や五重塔に変化したとされます。意味としては具体的な墓を祀ることで、釈迦が実在の人であったことを後の信者に伝えるためとされます。ですから「釈迦の骨」が大事に塔に奉納・埋納されたのです。教えはお経や金堂が具体的な仏像の形をもって伝えます。そうした形が伽藍であり、お寺になります。日本では法隆寺や奈良10大寺の塔が有名です。それらの塔は、すべて釈迦の遺骨である舎利を祀ったものなのです。一例をあげますと、「日本書紀」の推古元年正月15日(西暦593年)に、「仏の舎利を以て、法興寺の刹の柱の礎の中に置く」とあります。1956年、飛鳥寺周辺の発掘調査により、法興寺(または元輿寺)の遺構が現れました。そして今は失われた仏塔の心礎から、木箱に収められた舎利容器が発見されました。舎利は593年に心礎に安置されましたが、完成した仏塔は1196年に落雷のため焼失したとされます。舎利は翌年いったん掘り出され、新しい舎利容器と木箱に入れて、ふたたび心礎部分に埋めたものといわれます。
 『日本書紀』にはまた、推古30年7月(西暦623年)には新羅の真平王が仏像・金塔・舎利などを贈ってきたとあります。この舎利は四天王寺に収められたようです。
 釈迦の生きた時代は紀元前485年前後から405年前後とされますが、キリスト誕生の約400年前、マホメットの約1000年以上前の存在ですから聖人たちの中で一番古い存在です。あえて知られた古い賢人を探すとすると、それはソロモン王であると思います。プラトン、ソクラテスなども釈迦と同時代の哲学者ですが、釈迦以外どの賢人も宗教家とはいえません。私は釈迦の偉大性は身分制度の厳しい時代に「人間は本来、平等である」と唱えたことにあると思います。釈迦は王族であったからなおさらです。普通は高い身分にあったら自ら身分を落とすことはしないでしょう。それをお釈迦さまは実行したのです。高貴な王子の座を捨てて自らを平民、虐げられた人たちの中に身を置いたのです。それはそれまでにはなかった画期的なことでした。
 「舎利」はそうしたお釈迦様の実在を証明するものであったのです。今回取り上げました「舎利容器」はガンダーラ地方に伝わった古い舎利容器で、紀元2世紀から3世紀ころのものと想定されます。

 
舎利容器と中身

 中には小さいビーズ玉や水晶、厚めの金箔銀箔で作られた多くの花や骨の灰とも思われる砂状のものが入っています。当時、金はとてつもなく貴重な金属でした。あるいは釈迦の骨の一部がつぶされて砂状化して入っている可能性も否定できません。もう10年以上前に懇意の古美術商から手に入れたもので、その形状から宗教の専門家の方から釈迦の骨が入っている可能性を指摘されました。
 この舎利容器は銀製で、打ち出しの技術で製作され、まさに最初期のスツーパの形を表現しています。蓋の中央には相輪の最初期の形が残っています。私はそのほかに室町から江戸時代のものと思われる水晶の舎利容器と鎌倉時代の日本の舎利容器を持っています。人間として敬い、尊敬する釈迦にまつわる美術品の一つでも身近に置いておきたいという気持からに他なりません。


水晶の舎利容器(室町から江戸時代)

 偶然ですがR・パール著「仏教メソポタミア起源説」という本を読んでおりましたら、この火鉢の灰ならしのような形をした文字に出くわしました。
すなわちブッダのお墓の形を古代象形文字にしたもののようです。釈迦の死後にできた文字と考えられます。こうした形は珍しく今のところ類似のものはありません。この灰ならしの形は「こけし」の研究に役立ちました。(以前のこけしの連載参照ください)
 仏教の真理である涅槃という言葉は、悟ること、生と死の執着心のない世界、さらにそこから静かな死の世界に入ることを意味しているとされています。
 こうした「舎利容器」を前にして、少しでも清らかな世界にあやかれればと改めて思うのです。


インドのスツーパ(釈迦の墓とされる)
掌(てのひら)の骨董
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