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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董10.古代エジプトのアラバスター小壺


掌のアラバスター小壺 筆者蔵

 かなり前に、ある西洋アンティーク・コレクターの知人から譲ってもらった2つのアラバスター作品があります。共に東京有楽町の出光美術館の旧蔵品であったと伝えられていますが、一つは「掌の骨董」というには大きすぎるので、今回はこの掌にのる小壺について書いてみます。この高さ7.2㎝、幅5㎝の小さな壺ですが、この石はアラバスターといって、古代エジプトの時代には王侯・貴族専用に使われた石といわれる大変貴重なものでした。
 アラバスターは別名、現代では雪花石膏といわれる滑らかな石です。古代のアラバスターは方解石ともいわれ、炭酸カルシウムが成分であるため塩酸で溶けてしまいます。どちらかといえば共に柔らかい石で、この雪花石膏の方の硬さはモース硬度で1.5から2程度といいますから2.5の爪より柔らかいことになり、爪で傷がつくほどの繊細で柔らかいものです。実はこのように柔らかい石をなぜ古代エジプト人は重要な用途、特に葬祭に関係する用途の素材として使ったのかという事に、私は大きな関心と疑問を持ちました。私にとってエジプトをめぐる謎の一つといえるものでした。

 私がエジプトの歴史や美術に初めて興味をもったのは小学5年の頃です。明治37年に当時エジプト考古学庁長官であったフランス人ガストン・マスペロ氏が東京国立博物館に寄贈された子供のミイラを見て、とても衝撃を受けたことを憶えています。「アンクムートの息子、パシェリエンプタハ」と解読されているこの第22王朝時代のミイラですが、その3000年も前のミイラの顔を見て、自分と同じように生きていた子供の死体が汚れた布に巻かれて保存され、頭だけ布が取り除かれて骸骨化した小さな頭骨もボロボロになっている姿を見て、ショックと不気味さ、さらに怖い物見たさの気持ちがさらに私の興味と関心をかき立てたのでしょうか。
 団塊の世代ということもあってか学区の生徒数が多く、旧来の校舎での2部制の授業ではまずいと教育委員会が思ったのでしょうか、新設の小学校が近くにできて5年の時に新しい小学校校舎に移ったあと、エジプトについての真新しい本を真新しい図書室で読んだ記憶が今もはっきり残っています。それ以後、ハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発掘物語やハインリッヒ・シュリーマンのトロヤの発掘についての本などを読むにつれ古代への興味と関心はますます強くなっていきました。

 ご存じのように現在はIS(イスラム国)などの情勢によってエジプトは治安が悪く、観光は安全上難しくなりましたが、私が訪れた6年前ころはまだ安心して観光できました。小学5年の頃からあこがれていたツタンカーメン王の遺品がすべてカイロ博物館の2階に陳列されており、それらはいうまでもなくとても素晴らしいものでした。特に王の遺品のジュエリー類はとてつもなく美しいものでした。やはり実物を観ないとこの感動はストレートに伝わらないものだということを体験しました。ほぼ完全な遺品として墓から出た黄金のマスク他の副葬品およびミイラ、内臓を納めた4つのアラバスター製のカノポス壺など、当時の最高の遺品としての美術品を観る絶好の機会となりました。

 このかわいい小さなアラバスターの壺をじっと見つめていると、エジプトを見学した当時の思い出とがオーバーラップして、大きなものに負けないその美しさがじわっと感じられるようになりました。
 こうして改めてよく見ると六古窯の一つ、常滑の平安後期の古壺や同じ時期の渥美焼きの壺が、この小壺の形に非常に似ていることに気が付きました。


常滑の三筋壺(平安時代・12世紀後期ころ・筆者蔵)

 これは骨壺や経塚に埋納されたりしたケースが多いのですが、壺と骨壺につきましては以前の連載でも書きました。古代から母なる大地として農産物を生み出してきた土地は豊穣のシンボルとされてきました。それはさらに進化して、再生のシンボルに変化してゆきますが、再生、復活となるとやはり母の子宮に戻ることが条件とされるようになったようです。縄文時代に亡くなった子供の埋葬方法を考えればそれは明らかです。深鉢といわれる長いバケツのような円筒形の壺の底に穴を開けて、そこに子供の頭を下にして埋葬する風習はまさに母体の中にいる状態に戻しているのです。すなわち復活させたい願望、復活したいという人間の願望が葬送という儀式に見られます。葬送はもっとも人間的行為といってよいものでしょう。人類の永遠の哲学的、宗教的テーマ「死とは何か」そして「死からの再生・復活」への欲望が人類の文化というものを築き上げてきたともいえるのです。


甲府市の縄文遺跡である釈迦堂博物館展示の子供の葬送に使われたと考えられる土器
(底に穴が開けられている。本展示では分かり易いように底を上にして穴が見やすい)

 ところでこのアラバスターの小壺はいったい何のために作られたのでしょうか。ツタンカーメン王墓からの出土品にはアラバスターでできたものが多いのです。エジプトではアラバスター作品が盛んに製作されたのは紀元前14世紀から同12世紀頃とされます。そうしますとツタンカーメン王(紀元前1342年頃に生まれて、紀元前1324年頃に死亡した古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 から紀元前1324年頃)、そのツタンカーメン王の在世はまさにアラバスターの盛期製作期間とオーバーラップしています。そのアラバスターでつくられた最も典型的な遺品が「カノポス壺」です。これはミイラ処理する折に取り出したツタンカーメン王の内臓を胃、肺、肝臓、腸とに分けて4つのアラバアスター壺であるカノポス壺に納めたものです。心臓はミイラに残しました。


4つのカノポス壺(Wahibra、26王朝の王のもの。トリノ・エジプト博物館蔵)の横線

 このように王が復活する時に必要なもっとも大切な内臓を保存するために柔らかいアラバスターが使用されたのかも知れません。

 カノポス壺は王の内臓を入れる容器として作られました。それはそれとして、それでは今回のこの小さなアラバスター壺は一体どのような目的でつくられたのでしょうか。最初、私は香水を入れる小壺として作られたのではないかと推測しました。しかしよく考察しますと、壺の口から胴体の中には円筒形に、直線的に穴が底まで掘られているにすぎません。入れる溶液の量が増えるように中側が横に拡げられて彫られるのが普通ですが、この作品はそうなっていないのです。上からずん胴に掘られているだけなのです。仮に香水瓶としてアラバスター壺がつくられたのであれば、中に入る容量が少なすぎると思います。ですから形式的にだけ穴が開けられたものだと考える方が自然です。ツタンカーメン王のカノポス壺がやはり直線的な穴が開けられています。まさに同じです。


蓮(睡蓮)の香りを楽しむ貴族
(テーベの市長のゼンヌファーの墓室の壁画より・Aegypten Architektur Plastik Malerei in drei Jahrtausenden von Kurt Lange und Max Hirmerより転載)

 香水の歴史も古く、エジプトから始まったようです。エジプトは暑く、当初は葬儀の折に、死体の腐敗臭を和らげるために、大変良い香りのする「蓮の花」(睡蓮)が葬儀や祭壇に捧げられたようです。当時の貴族の女性も男性も、この香りが大好きだったようで、レリーフに蓮の香りを楽しんでいる多くの人の姿が描かれています。そうしたことから次第に蓮の香水がつくられたようです。それが香水の始まりといえるかもしれません。それからさらに神殿では朝夕に没薬(もつやく)という香が焚かれ、祭祀が執り行われ、香が上流階級の人々に親しまれ、エジプトからメソポタミアなどを経てインドに伝わり、仏教にも影響を及ぼしているようです。「香道」の源流といえます。蓮の花は仏教寺院の「瓦」の連弁文様にも変化し、唐草のルーツのロータス文様などもエジプト伝来と考えられます。仏教のシンボルとも深く関係しています。
 香油の発展もエジプトにあります。ツタンカーメン王の妃であるアンケセナーメンがツタンカーメン王に香油を塗っている場面が副葬品の黄金の椅子に描かれています。エジプトは乾燥した気候であり、貴族たちは肌の乾燥を嫌い、香りのいい香油などを常に体に塗っていたようです。

 そう考えますとこの小壺もツタンカーメン王の時代とほぼ同じ時期に副葬品として作られた可能性は大きいと思います。私はこの小壺を観ていて、ふと常滑の三筋壺が思い浮かんだのです。それはアラバスターのこの壺の表面に見られる横線状の筋にふと眼がいったからなのです。そうした新たな観点から改めて内臓を入れたツタンカーメン王の「カノポス壺」を観察してみると、横線状の筋が入っているのです。以前、「こけし」について書いた時に、こけしの胴体の装飾文様に横線文が多く、それは再生と復活に欠かせない文様であると論証しました。

こけしについて是非この機会にお読みください。
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こけしの輪文様(2本とも土湯の名工・佐久間由吉作 筆者蔵)

 さらに再生・復活・更新の儀式「茅の輪くぐり」についても考察しました。輪は天と地を分けるシンボルであり、この世とあの世、現世と来世をつなぐ通路とも考えられ、また母親の体内、すなわち子宮への通路でもあったのです。それは再生、復活、生命の更新を意味しており、「輪」の思想は大変重要です。エジプトのファラオたちが身に着けたネックレス、腕輪、指輪、ベルト、冠、さらに横線文の衣服などなどはすべて輪の本来の考え方を示唆してくれます。それらは現代のファッションそのものに強く影響を与えてきています
 こけしに多く見られる輪線文様もそうした観点から再考すべきものです。単なる装飾文様ではないのです。


人型棺に見られる横線文(25王朝・トリノ・エジプト博物館蔵)

すべてが輪線文(横線)で表現されるツタンカーメン王の内臓容器としての
黄金製ミイラ型小棺(エジプト・カイロ博物館蔵)

 このように考えますと、このアラバスター小壺の横線文から考えますと、これはやはり再生と復活に関わる祭祀に使われた副葬品と考えた方が良いようです。
 常滑や渥美の三筋壺もこうした古代エジプトの事例を考え直すことによって、三筋文の意味するところも次第にはっきりしてくるものと思われます。三筋壺の三という数は聖なる数としての三という意味が強いことによるのではないでしょうか。七五三のお祝いや三重塔、三尊仏などなど。キリストが誕生した折に東方の三博士がキリストを礼拝したという話などもこうした聖なる三という数にまつわる話です。かつて三筋壺は五輪の思想、すなわち地水火風空の思想から線で分けたのではないかという説があり、私もそう考えた時期がありましたが、やはり筋というか輪は3本であり、以上に述べたエジプト的観点からも再考すべき時が来ているように思えてなりません。

掌(てのひら)の骨董
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