文化講座
掌の骨董115.渥美山茶碗(平安時代後期)私論
平安時代の渥美・山茶碗(著者所蔵)
今回は私の秘蔵の「山茶碗」を出してきました。まず「山茶碗」とは何か、からお話しないとなりません。いろいろな説がありますが、焼き損じた茶碗に似た器がたくさん山から出土してくることから付いた名前というのが、妥当でしょう。「焼物」、いわゆる「陶磁器」は古い時代、特に「平安時代」に入ると作品数は急に少なくなり、値段は「高級品」になるという認識をしてもらわないといけません。更に作品に釉薬、すなはちカセ(風化)てないガラス質のきれいな上薬が掛けられていたら、それはもう庶民は見る機会すらない「超高級品」と思ってください。古代の釉薬は基本は「灰釉(かいゆう)」で燃料の薪を燃やして出来る「灰」を水で溶いて、それを器に塗り、1240度以上で焼きますとガラス質の釉薬に変質します。(当時技術のあった中国では漢時代から「鉛釉」があり、それは唐三彩に発展した)
まあ同じ焼物にも縄文式土器や弥生式土器などもありますが、それら「土器」でも形が良く、美術史的に珍しい作品は高価です。しかし土器になりますと完全な保存状態の作品は少なく、ほぼ破損していて、補修がしてあります。破片なら骨董市などで一つ500円から1000円で手に入りますから、紋様やうねった形が残れば、良い勉強資料になりますし、太古のロマンがあります。
さて話を戻しますが、焼物を作ることは非常に高度な技術を必要としますから、普通では製作できません。大半の人たちは木をくり抜いて皿や椀を作り、使ってました。漆も高級品ですから、庶民は使えず、貴族や王様、天皇一族が使いました。後には一般にも普及しますが、やはり高級であることに変わりはありません。
須恵器という古墳時代の副葬品がありますが、これは貴族や天皇の御陵に副葬される品々ですから、いうまでもなく超高級品でした。須恵器も今拝見しますと、一見粗末な作品に見えますが、よく見ると、素晴らしく美しい曲線美を誇る形をしていて、用途も現代では想像しにくい物も多く、大変魅力的なものがあります。これらは中国や朝鮮半島経由で伝わった「焼物」の技術で作られた、超高級品といえるでしょう。
美しい古墳時代の「須恵器・はそう」瓦の字の右に小さく泉と書いて「はそう」と読みます。
再生する死者の魂を宿す器です。
日本では仏教が伝来した538年以降、葬法が次第に荼毘に付す、すなはち「火葬」に変化し、平安時代の貴族たちの間に浸透して行きました。肉体を保存する「復活・再生」の考え方が次第に変わってきたのでしょうか、荼毘に付した「火葬骨」の一部を入れる「骨壺」が必要となり、製作されるようになります。
渥美半島の先端のほぼ半分くらいの地域は、古来天皇家の神社である伊勢神宮の所領「御厨(みくり)」で、東大寺が2回焼け落ちた時に「瓦」を渥美半島の先端部の伊良湖岬にある窯で製作しました。京都の公家たちはその渥美半島の最高窯に、窓口である「三河守藤原朝臣顕長」から天皇家を通じて自分の骨壺や器類を依頼していたのです。平安時代の最先端技術で、しかも安定した釉薬の掛けられた陶磁器には夢に見るような憧れがあったことでしょう。仏教文化が花開いた「平安時代」には仏教のシンボルとして、高貴、優雅で香り高い「蓮」が盛んに美術に取り入れられました。国宝「渥美・秋草文壺」は神奈川県川崎の、古墳に隣接した平安時代の貴族の墓から、遺骨が一杯詰まった状態で出土しました。
国宝「秋草文壺」の頸に描かれた「蜻蛉」(慶應義塾大学所蔵)
なぜ「秋草」かといいますと、この壺には頸(くび)部から胴部分に釉薬が施され、その下に秋草や昆虫が線彫りで描かれ、特に頸部には蜻蛉が大きく彫られ描かれています。まさに「もののあはれは秋こそまされ」の世界です。秋は、冬を死と考えれば、季節は一つの完結したサイクルとなり、そこに人生の秋という観念もあるかもしれませんが、一般的には「もののあはれ」(おもむき、情緒)がぴったりの季節です。世界で最も「日本美学」が優れ、素晴らしいと私が思う最大の理由はまさにこの「もののあはれ」の一言の魅力に尽きます。外国人には理解しにくい、繊細にして枯れた優美なる日本独自の世界観です。
世に「秋草の美学」といわれています。更にそのすばらしい美的世界に、さりげなく再生のシンボルの昆虫類が描き込まれているということです。ここが重要なのです。
源氏物語にこうあります。
「はるけき野辺にわけいりたもうより、いとあはれなり」
意訳しますと、「光源氏の君が広大な秋の野辺に入っていかれますと、そこの野辺には秋の草花に虫たちが鳴いていて、大層趣深い風情を醸し出しておりました」という感じでしょうか。こうして考えますと、平安時代の「あはれ」と室町時代の能の「幽玄」、桃山時代の茶道における「侘び・寂び」、これらの世界が最も日本美術、ひいては「日本人」の精神の根幹をなしている、重要なキーワードであることが分かります。
昆虫類は卵から長い時間を経て変身し、幼虫からサナギに、更に殻を脱ぎ捨て成長します。蛇が神聖視される原因の一つに「脱皮」があります。脱皮を繰り返す毎に「若返る」のです。驚異です。また水に生まれて、サナギになり、殻を出て羽が生え飛び去る蜻蛉や、蝉、蝶の「変身」に驚きの眼を向けました。蛙も縄文時代から聖なる生き物です。何度も姿を変身させ、生まれ変わり、きっとこの世からあの世の橋渡しもしてくれるに違いない、こう考え畏敬の眼で観たのは縄文人だけではなく、エジプトやメソポタミア、オリエントの人々もそうでした。「再生・復活のシンボル」となりました。
日本で蜻蛉は鎌倉時代以降「勝虫」と呼ばれるようになり、戦に勝つこと、すなはち姿を変えながら生き抜くことから、死なないこと、「変身」することから更に再生・復活のシンボルになりました。戦国時代の武将の鎧下に着た着物には蜻蛉の図柄が多数描かれたり、兜の前立てに大きな蜻蛉が飾られました。どれもこれも再生復活、勝利を祈念したものでした。
蓮(飛鳥・藤原京)
古代エジプトでは蓮の香りは死者の腐臭を消すために、葬儀の際に手向けられ、そこから更に香料へ変化したり、瓦に「蓮」は仏教のシンボルとして使われました。
天皇家の紋章は「16弁の菊」となっていますが、もともとはより古いメソポタミアやエジプトの「蓮」にルーツを持ちます。それらは仏像の持物、特に観音菩薩の持物に変化して行きました。私の知る限りでは、エジプトのセティ1世葬祭殿のレリーフに描かれた女神たちが蓮の花を亡き王に献じてます。その女神たちがおそらく「観音菩薩」のルーツと考えられます。ですから「観音菩薩」様は女性です。
蓮を献じる女神たち
国宝渥美・秋草文壺にはこうした奥深い文化の源流への手がかりがいくつも描かれています。専門家でも知らない方がおりますから、皆さんは是非知っておいてください。類品の多い中でこの壺だけが「国宝」に選定されているのですから、それにふさわしい理由があります。文化の歴史は「魂」の歴史であり、限りなく太古から古代の人間像に遡れる極めて興味深い世界といえます。
渥美山茶碗の流れる釉薬と右側の「銀化」
さて「渥美・山茶碗」ですが、極めて美しい「黄釉に近い灰釉」が掛けられ、素晴らしい美しさです。山茶碗の製作意図は初期においては大半「骨壺」の蓋に使用されたと推測されます。東京国立博物館の展示にもありましたが、骨壺の口は大半破損して、というか人為的に頸は欠きました。山茶碗はその口(頸)のない肩をピッタリ覆うように作られ、中に雨や水が入らないように覆われました。まあ後世には大量生産され、食器に転用されたようですが、私は平安時代から鎌倉前期あたりの「渥美山茶碗」ではあり得ないと考えています。なぜならその時代の渥美・山茶碗の縁には輪花(りんか・蓮の花びらの尖り部分が退化した形)が四箇所あり、それが「死」を意味する「四」ですから、日常生活に使うことはなかったと私は考えます。昔はそうした「用途」は厳格に守られていたからです。渥美以外の山茶碗では、それが退化して、食器に使用されるようになったようです。
輪花の様子(手先で軽くつまみ、ひねった感じ)鑑定ポイント
その一つの事例ですが、かつて女性料理人の某が山茶碗の同じ大きさの五枚か六枚セットをどこからか買い、「古い山茶碗を料理に使ってるんです」と得意になって料理に使ってましたが、私はそれを見た瞬間、あれは「贋作」か「新しい山茶碗」だと思いました。なぜなら、キズもないセットの完全な同じ大きさの揃う山茶碗などはあり得ないからです。また天皇家などが使った食器は形が違い、さらに美しい姿をしています。知らないということは恐ろしいことだと思いました。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥、といいますね。
ちなみに山茶碗の産地は、渥美、常滑、猿投、湖西から遠江、瀬戸、美濃の六ケ所となります。
個人的な山茶碗のランキングは、①渥美(平安) ②猿投(平安) ③美濃(鎌倉) ④湖西から遠江 ⑤常滑(鎌倉) ⑥瀬戸(鎌倉~室町)となりますが、これはあくまでも個人的好みでの座興とお考えください。
渥美山茶碗(平安時代)