文化講座
掌の骨董14.藍柿右衛門様式「竜田川文盃」について
掌の藍柿右衛門盃
前回は大好きな色絵古九谷様式のふくべ形小皿についてお話しさせていただきました。古九谷は北大路魯山人も大変愛した世界であり、美術品としての評価は高いものです。今回は偶然、名古屋の大須観音骨董市で手に入れた向付、今では盃として使われる大きさのものですが、この作品についてお話しいたします。実は今年のお正月にお屠蘇をいただいた時に、この盃でいただきました。
骨董で迎えるお正月
鎌倉の鶴岡八幡宮の太鼓橋手前右角の鎌倉彫の老舗、博古堂の青海波御所車文の盆にのった伊万里作品群です。手前の箸置きは草創期伊万里・小溝窯出土の砂目高台痕のある陶片。徳利は色絵呉須古九谷面取浮彫花文徳利、盃はお酒が入っているため見にくいのですが今回取り上げました延宝年製藍柿右衛門様式「竜田川文盃」。中央の御煮〆は延宝年製の古山福銘の飛鴨雨降文田家図向付、数の子の入った古九谷様式桔梗型白磁向付、右の黒豆の入ったものは延宝年製・千鳥草花文色絵小皿(古山福銘)、一番奥の鯛のお造りと伊達巻の入ったものは延宝年製の龍唐草文舟形向付です。
この盃は今まで観たことのない作品で、売ってくれた新婚ほやほやの若いご主人は九州を回っていて仕入れたと話してくれました。思うに古美術雑誌の表紙を飾ってもおかしくない、品格と風格を兼ね備えた藍柿右衛門作品です。
私は献上品である「鍋島」はなおのこと、こうした最高級伊万里磁器の絵柄も京都の宮廷絵師たちが下絵を描いたのではないかと考えています。特に「鍋島」は献上品であり、厳格な吉祥紋としての有職故実を厳守しつつ描かれてきた作品であり、絵に吉祥文としての決まり事が厳然とあるため、どんなに絵が上手でもその決まりに従った絵でないと問題にならないどころか、幕府や朝廷から無礼に思われたり、あらぬ疑いをかけられたりする可能性があり、献上品どころの問題ではなくなります。そこでそうした決まり事、すなわち有職故実に詳しい宮廷絵師たちに問題が起こらないすばらしい下絵を描いて貰うことが、制作の最前提になります。伊万里の絵師たちにもすぐれた絵師はいたでしょうが、宮廷絵師に描かせた方が間違いがなく安心です。ですから相当な金額を払って宮廷絵師に描かせたものだと私は考えています。俵屋宗達は生没年不詳な謎の絵師ですが、法眼という絵師としては当時最高の位、称号、現在でいえば芸術院会員とか人間国宝クラスの実力者であり、琳派の祖として本阿弥光悦とともに有名です。その宗達の代表作の一つ、フリア美術館所蔵の「松島図屏風」(写真)に見られる波の描き方は今回の藍柿右衛門様式「竜田川文盃」の波の描き方に極めて似ています。当時最高の絵師に鍋島藩は依頼した可能性は高いのです。宗達の波はワラビのようなかわいい姿で描かれており、独特です。宗達のやさしい人柄がうかがえるようです。
松島図屏風に描かれた「波のかたち」
また古九谷などには琳派的題材、特に平安時代の歌人、在原業平の作と伝えられる「伊勢物語」に登場する「かきつばた」が後の尾形光琳の国宝絵画で有名ですが、宗達のカキツバタは素晴らしいものです。私の持っている色絵古九谷中皿の文様もカキツバタで、宗達の絵に似ています。
色絵古九谷 中皿のカキツバタ図
そうした点から伊万里と琳派のつながりが連想されます。私はかねがね美濃の茶陶である織部の文様や古志野の絵は宗達が描いたのではないかと思っています。特に抽象文などは宗達ないしは光琳などの琳派絵師以外には描けなかったものだと思っています。美濃の織部作品の抽象性も宗達などの影響を受けていると思いますが、特に初期「鍋島」は古九谷の技術や図柄、作風を模倣して製作していますから、それはかなり可能性が高い問題といえます。総織部は全面に織部釉、すなわちコバルトを微量含んだ銅の酸化焔焼成で緑色に美しく発色しますが、とても素晴らしいもので、それを古九谷は模倣して「青手古九谷」という全面緑の作品ジャンルを制作しました。また美濃鉄釉の小皿作品を模倣した一群の作品を「吸坂手」と呼んでいます。吸坂作品は由来はともかく、全面が鉄釉に覆われ、伊万里独自の美しい磁器の大半部分が鉄釉に覆われている、不思議な作品です。なぜ美しい売り物の価値ある白磁を鉄釉で塗りつぶしたのかということが昔から不思議に思われてきましたが、理由は簡単なのです。当時の桃山時代から江戸時代前期の時代は信長に命じられ利休が焼物の価値を上げた時代で、その結果桃山時代の美濃作品が高額に取引されるようになったわけです。結果、利益至上主義の鍋島藩に注目され続けてきたからなのです。関ヶ原で西軍について敗れた鍋島は、財政的にも追い詰められて、しかも外様大名というきわめて不安定な立場に甘んじていましたから、幕府への接近と収入のアップと図ったといえます。その古九谷の色絵技術が献上品「鍋島」に収斂してゆきます。「初期鍋島」は古九谷に非常に似ています。
高級な素地の古九谷といえるくらいです。古九谷はまた同時に柿右衛門様式にも変化してゆきます。初期輸出手色絵作品は古九谷作品の持つ渋さがなくなり、ヨーロッパで売るオランダ東インド会社からの注文ということもあって、華やかな中国陶磁器に近い明るさをもってゆきます。古染付といわれる明末・清初の染付作品に明るい色絵を施した作品が登場します。それが初期色絵輸出手作品といわれる作品です。
古染付に色のついたような、初期輸出手色絵皿
古九谷末期に濁手の白く美しい素地に古九谷のえんじ色に金彩、銀彩が施された作品が登場しますが、私は銀彩に注目しています、なぜ黒く汚れ、酸化する銀を敢えて使用したかという謎が残るからです。黒く酸化する銀は食器に使われる場合はイギリス銀器のように決まって毒殺防止のためです。銀は青酸毒に反応しますから、銀の箸と銀彩の施された食器はそれに好都合です。その頃時代的には外様大名潰しのうわさがあったか、ないしは幕府による外様大名暗殺がささやかれたのかもしれません。1658年から10年間ほどが金銀彩磁器の製作期間とされます。ちょうどキリシタン弾圧が終わって武家諸法度による幕藩体制も固まり、いよいよ外様大名潰しが具体的になってきた時期とも考えられます。その先手を打って作られたのが金銀彩とも考えられます。ただ短い期間でオランダ貿易に切り替わって行きますから、この金銀彩は実際に有効であったかはわかりませんが、独特の魅力をもった白磁のすばらしい磁器です。私も吸坂手と金銀彩に注目しています。
こうした時期が終わり、輸出の作品全盛の時代に転換します。現在、色絵柿右衛門様式といわれる作品はほぼすべて輸出作品です。いわばオランダ人や主な購入先であるヨーロッパの外人たちの要望にのっとって制作されたものです。その作品たちはヨーロッパで次なるマイセンを生み出すまで、彼らを魅了してやまなかったのです。
伊万里の歴史に藍九谷様式と藍柿右衛門様式という作品があります。ともに「染付」ですから共通した部分が藍色ですが、様式上は違います。藍九谷は少し古く、藍柿右衛門はより新しいといえます。しかし大きな違いは空白のスペースの取り方、デザイン性と描き方にあります。藍九谷の筆使いは力強く、デザイン性に富んでいます。藍柿右衛門は繊細で、細かい筆遣いです。それからグラデュエーション、すなわち濃い呉須からゆっくり薄くなり消えてゆく呉須の美しさ、これが藍柿右衛門の技術です。少し古い藍九谷はベッタとした濃い絵付け方法が特色です。男性的なのが藍九谷、女性的なのが藍柿右衛門ともいえるかもしれません。
今回登場してもらった「盃」はもともと向付だと思われますが、今では「盃」でしょう。
今年のお屠蘇に使った藍柿右衛門様式の「盃」
今までは志野とか織部とか、いわゆる土ものの盃でお屠蘇をいただきましたが、今年は初めて磁器でいただきました。私が最も気に入っている磁器、それがこの竜田川文の盃です。この盃の絵は逆立つ波に桜の花が流れてゆく風情を描いたものですが、この絵の原作者は先ほど来述べてきた琳派の絵師、宗達の絵を伝承してきた絵師ではないかと思わせる素晴らしさです。藍柿右衛門の特徴である繊細な波の描き方、グラデュエーションの美しさが際立っています。空間処理もなかなかです。いわゆる最高の伊万里磁器がつくられた「延宝時代」の作品だと思われます。