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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董98.「織部燭台(桃山時代)」


大変珍しい「織部燭台」(桃山時代)

 今回は長年大切にしてきました、「織部燭台(桃山時代)」をご紹介いたします。
燭台は言うまでもなく、夜の茶会であります「夜咄(よばなし)」で、真っ暗な茶室にて唯一の灯りとして使用されたものです。


美しい織部釉

 利休により創設された夜の茶会は、足利義政の「銀閣寺」の夜の美学を継承するもので、夜の持つ独特な、極度に緊張感のある、厳粛なセレモニーのようです。明日、戦いで死ぬかもしれない武将の最期の夜を茶会でもてなす、そうした「別れの場」に夜の茶会「夜咄」はふさわしいものであったと推察されます。まさに「一期一会の茶会」であったのでしょう。利休も最高のおもてなしでお別れをし、送られた武将も、この世の未練を断ち切り、死を覚悟の一歩を踏み出したことでしょう。最高のおもてなしは永遠の世界を思わせます。こんな素晴らしい時間は他にはない、この世とあの世をつなぐ「能」の橋懸を歩くような、納得した感覚で未練を断ち切ったと思います。

 「切りむすぶ 刃(やいば)の下こそ地獄なれ かかれやかかれ あとは極楽」戦国時代の狂歌です。
この歌には後に、宮本武蔵、柳生宗矩作などと幾つか変化が生まれましたが、私はこの歌が古く、かつシンプルで好きです。

 織部焼きは緑色(銅釉)と黒(鉄釉)の釉薬を中心とした焼き物です。当時は緑色を青とよび、いわゆるブルーは藍とよんでました。今現在もその傾向は残り、「青信号」は緑色ですね。


青織部向付(東京国立博物館所蔵)

 織部作品は桃山時代の総決算と言われています。この桃山時代そのものの華やかな雰囲気と新しい技術がすべてこのやきものに投影されています。四種類の美濃を代表する桃山時代の作品としては「志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部」がありますが、織部が一番斬新で現代において大変愛好者が多く、そのもてはやされ方は特筆に値するものです。

 ニューヨーク・メトロポリタン美術館においても大変な人気で、世界に鮮烈なインパクトを与えました。特にアメリカは歴史が浅いため、400年以上前の抽象的な表現に目を見張りました。特に黒織部の茶碗にみるマチスやミロを思わせる白黒抽象文様には度肝を抜かされたようでした。


雪の金閣寺

 その源は足利義政ですね、あの義政の「銀閣寺」での月を愛でる文化(月は銀、金は太陽、極楽浄土を表す)では、じっくり夜の美学を楽しむ新しい方向性の中に月の光と影、その白と黒の世界そのものが抽象性として着目されました。さらに絵画や工芸品への、新しい南蛮美術、キリスト教カトリック教会の華やかな文化、バチカン文化の影響には計り知れないものがありました。


隠れキリシタンの迫害に使用された踏み絵

 宗教的には国内に多くのカトリック信者を生み出し、特に信長は比叡山延暦寺に対する反対勢力として、新しい科学、文化、美術としてキリシタンを保護し、高山右近のようなキリシタン大名の出現にまで至りました。そうした南蛮、バテレン文化、バチカン文化の華やかさを一手に引き受けたのが「織部」というバサラな様式でした。

 戦国時代は遠くから見守る主君に自分の戦場における働きをしっかり確認してもらい、報禄、現代でいう給料を上げてもらい、将来に渡り一族の安泰のために命がけで働きましたが、そのため目立つように派手な衣装、鎧兜、旗指し物を身に付けました。黄金、赤、青、黄色、こうした原色的風潮を「伊達もの」「バサラもの」「かぶきもの」と呼び、後の歌舞伎の派手な服装、しぐさにつながりました。そうした戦場における「奇抜さ」「派手さ」は社会的な風潮となり、桃山時代の美術に大きな影響を与えたのです。これが「バサラ」です。


美濃茶陶の優品に使われる百草土

 しかし、この時代に利休により「侘び・寂び」の傾向がより強く表面化したのも、そうした秀吉に代表される、度を過ぎた派手さに対する利休の反発的主張、方向性も彼らの反目の原因とも考えられます。

 また織部様式に顕著なデフォルメも中国の天目茶碗などの完成度の高さへの反発が、義政や村田珠光の好みに見いだせます。黒織部には足利義政による「銀閣」、夜と月の織り成す夜の美学の結果が凝縮され、月の光線と垣根文様などの織り成すモダンと思われる抽象性が作品に投影されたと考えられます。

 月の明かりというのは時間によって移動していきますから、自然に美しい影を新しく作り出します。それに従い、映った影が非常に美しいひとつの抽象世界を形成したのです。


織部の肖像画(佐川美術館所蔵)

 秀吉に若くして仕えた古田織部正重然(ふるたおりべのしょうしげなり)は、利休に茶道を学びますが、利休が秀吉の怒りをかい、切腹させられた後、秀吉に命ぜられ茶道を引き継ぎ、茶頭としてお茶の世界を導きました。織部は秀吉が生きている間は、秀吉の嫌いな黒茶碗は制作せず、1598年の秀吉の死から大阪夏の陣直後の1615年、反逆罪で家康から死を賜るまでの間である17年間が織部が自由に活躍した期間で、織部独自の黒織部、織部黒が集中的に制作されたと推測されます。(黒織部→白の空白に文様が入るデフォルメ作品。織部黒→真黒なデフォルメされた作品)


黒織部茶碗

織部黒茶碗

 私は織部の死の意味するところは、家康による商人茶道の廃止、武家を中心とした身分制の確立のための茶道への転換をなすものであり、村田珠光、武野紹鴎、利休と続いた「商人茶道」から小堀遠州、片桐石州の「武家茶道」への急速な転換がなされたゆえと考えます。いわゆる利休の「暗い侘び寂び」から遠州による「明る寂び」への変化です。士農工商の下層と位置付けされた商人茶人が一番身分の高い将軍に、茶の指南をすることなどあり得ないと考えられるようになったからです。


鼠志野向付(桃山時代・美濃牟田洞古窯周辺)

 その結果、美濃を中心とした桃山時代の志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部は終焉し、新しく武家茶道の流れとなった小堀遠州により「遠州七窯」すなはち、遠江 (とおとうみ )の 志戸呂 (しとろ )焼、 近江 (おうみ) の 膳所 (ぜぜ) 焼、山城宇治の朝日焼、大和の 赤膚 (あかはだ )焼、摂津の古曽部焼、筑前の高取焼、 豊前 (ぶぜん )の 上野 (あがの )焼の茶道具がメインになります。美濃の茶陶の後に成立した萩茶碗や九州の唐津、さらに藤堂高虎により茶陶に生まれ変わった「信楽・伊賀」がそれに加わります。


伊賀茶碗(桃山時代)

 秀吉子飼いの織部は、徳川政権の土台が固まった大阪夏の陣直後、家康により反逆罪との名目で切腹させられますが、いわば家康には不必要な茶人となった訳ですから、織部という名前は徳川時代は禁句であり、明治になり、利休と共に復権しました。

 今回取り上げました「織部燭台」は秀吉全盛期、華やかな桃山時代の真っ最中の久尻元屋敷窯周辺で制作された素晴らしい織部作品です。オリジナルの四角い鍛冶釘の蝋燭差しを備え、鎌倉時代の古瀬戸の伝統の形を継承した姿は、非常に美しく珍しいものです。正面には秀吉ゆかりの五三の桐紋の形が彫られ、秀吉の夜の茶会、いわゆる「夜咄」に使用された可能性があります。


五三の桐紋の形が彫られた燭台。
蝋燭の燃えかすの芯などやそれを切る小ハサミがこの中に入れられた。

 使用された土は百草土で、クリーム色した柔らかい土に鉄釉で回転輪文様を描き、そこに志野釉を掛けて、更に緑の織部釉を制御しながら、うまく下で「美的」に止まるように流しています。熟練した美濃陶工の技が光ります。

 古びと気泡つぶれはありますが、伝世品らしく釉薬にカセはなく、桃山織部の特徴である美しい自然のコバルトブルーが交じる釉調を楽しませてくれます。志野釉も美しい。


伝世品の緑に映える美しいコバルトブルー。

 もう40年以上前、当時はレベルの高かったある東京の露天骨董市で見つけた織部燭台です。いまではあり得ない作品が骨董市にありました。以来私は日本骨董学院の講座で皆様にお見せしてきました。私にとりまして、桃山時代の織部を考える、生涯の愛すべき織部作品の一つといえます。


織部燭台(桃山時代)

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