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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董64. 長谷川利行作 油彩小品「裸婦」について


油彩「裸婦」

 間もなく生誕130年を迎える放浪の夭折画家、長谷川利行の油彩小品「裸婦」について書いてみたいと思います。油彩について書くのは今回が初めてだと思います。私は小学校の4年生の時から地元東京都中野区の絵画図工教室に通っていましたので、絵を描くことは好きでした。そのような訳で今回は私が一番好きな長谷川利行の油彩小品「裸婦」を取り上げました。
 長谷川利行(明治24年1891年~昭和15年1940年49歳没)の絵を知ってからかなりの時間が経過しました。大学に入るあたりから好きな画家の一人です。私は浮世絵研究では学者以上の知識を持つ小説家、永井荷風の「歓楽」という小品を大学時代に読んで感動し、長谷川利行とともに彼らの生きた跡、歩いた跡、絵を描いた跡をたどり千住あたりから浅草六区界隈、向島あたりを歩いた思い出があります。今も時々通う江戸情緒あふれる「駒形どぜう」本店もその時発見しました。50年くらい前の話です。長谷川の評価はまだ一般的には高くありませんが、ひとたび彼の絵に接するとかつて見たことのなかったその異才に驚き畏敬の念を抱くようになります。日本を代表する画家のひとりであると私は確信していますが、調べれば調べるほど絵を観れば観るほど不思議な画家であると思わざるを得ません。それは数奇な運命をたどったという好奇な目からではなく、彼の持つ人間性からにじみ出る魅力と絵の品格からだと思います。油彩画材が特に高価な時代、あらゆる出費をそこに向け貧困、栄養失調に甘んじた絵画への情熱。最低の生活の中で描いた膨大な絵の数々。今や多くは失われましたが残る絵に彼の自由な境地がうかがえます。最低の生活に甘んじることによって不自由な社会との関りを断ち、自由な境地を獲得し得たことが大きな芸術的発展を彼にもたらしたに違いありません。その結果、彼は二科会に出品し「樗牛賞」を受賞します。その後いくつか受賞。しかし二科会の会員に推挙されることはありませんでした。あまりにも上をいく絵のレベル、会員とは違いすぎる生活態度、身なり、考え方、生き方が二科会の会員たちに畏れを抱かせたか馴染めなかったか、そのどちらかだろうと推測されます。
 けがれを知らない純粋さのために毀れ易く、純粋すぎたために世の敗退者にされてしまいました。気を紛らわす酒が胃潰瘍を進行させ、やがて癌に発展して彼を死に至らしめたのでした。


1923年第1回 新光洋画会初入選作「田端変電所」油彩

 長谷川利行は当時フランス帰りの画家から「日本のゴッホ」といわれたくらい、素晴らしい色彩で観るものを魅了しました。スピード感ある筆致はブラマンクを凌ぐほどです。速筆の長谷川はこう言ったと伝えられています。
 「細かに描きあげて行きますと、その筆力がのびませんから、上手にいかぬばかりでなく、美感が消されて、深い美しさに至りません」
 スピード感について利行はこのように書いています。速さの魅力が長谷川利行芸術の魅力であり、それをさらに倍化させるのが色彩の魔力です。彼の描く油彩の魅力はマチエールの魅力です。今回の小品「裸婦」では背景の色彩に眼を奪われます。微妙に絡み合う色彩の重なりと筆致の妙。もうこれだけで長谷川利行の絵だと分かります。こうした絵が描けるのは長谷川利行のみです。私は昭和51年に鎌倉近代美術館で行われた「長谷川利行展」を観た時に1928年頃に描かれたと思われる「大和屋かおる」と同じ年代の「針金の上の少女」の色彩、特に肌のピンク色に感動しました。なんと美しい色だろうと思いました。やはり油彩の美はどんなに美しく印刷された画集でも再現不可能だと改めて思いました。実際の画面の一筆で描く唇の赤、頬のピンク、それはもう油彩ならではのきらめく美しさでした。

左・「大和屋かおる」
右・「針金の上の少女」

 ゴッホが北斎や広重の色彩や構図から大きく学んだ点を考慮すれば、優れた色彩印刷術のなかった当時、本当のゴッホの絵の色彩を知り得なかったと思われる長谷川の絵こそもっと評価されて良いのではないかと思います。これまで長谷川利行の油彩のいい絵は数少なく大変高額であったために買うことはできませんでした。今回縁あって手に入れることのできた油彩「裸婦」は縦95㎜×横144㎜という小品です。利行らしくややデフォルメされ、この頃の裸婦像と比べ少し丁寧に描かれています。それは小品ゆえのことだからでしょう。制作年代は同じような作品が数点描かれた1936年前頃と思われます。2・26事件が1936年、日中戦争が1937年に始まっていますから軍国主義の台頭と戦争に向かう暗い時代であり、洋画家が「裸婦」を描いて生きてゆくにはつらい時代であったと考えられます。にもかかわらず「裸婦」を描いたところに私は彼の微かな反骨精神を見る思いがするのです。

左・ゴッホの模写作品
右・広重の東海道五十三次より「おおはしあたけの図」

 生きるのが下手で、ワガママだけれどとんがらずどこか絵にはユーモアとペーソスが同居して憎めず、絵を描かせたら抜群に上手い絵かきが私は好きです。本当の「芸術家」とはそうあるべきだと思います。富裕層相手の社交界で恵まれた生活を送りながらとんがる絵かきは芸術家ではないと思います。有名な画家U氏は長谷川の絵に嫉妬したのか、彼の出品した多くの力作を落選させた選考委員の一人といわれています。彼のように気難しさをパフォーマンスとして表に出すことは決して芸術家のすることではありません。芸術とは「畏れるべきもの」だからです。
 絵を描くことによって命を削った長谷川利行、関根正二、村山槐多(かいた)、青木繁などそうした素晴らしい芸術家の中でも一番私の好みに合うのが長谷川利行です。一方私が極めて技術の高い「プロの画家」として認めるのはレオナルド藤田(藤田嗣治)です。藤田については私の美術の師である武田先生のまた先生ですから、彼の価値ある小品が手に入ったらまた稿を改めて書いてみたいと思います。


友人矢野文夫による撮影・長谷川死の直前49歳の最後のポートレート

 世間から見放され、放浪の果てに路傍に倒れた長谷川利行。関根正二、青木繁、村山槐多(かいた)。彼らもまた同じような死を迎えました。彼らは食事や生活費を削って当時高価な油彩画材を買い、そのため栄養失調になり、さらに不治の病とされる結核に侵され早死にしました。
 男には本能的に放浪癖というか放浪願望があります。経済力、生活力を得る目的から会社組織に加わりますが、そんな気持ちの裏側に組織から離脱したい気持ちがあります。やむを得ず自分には合わない仕事をしているというケースも多いでしょう。ですから自分ができないことをしている芸術家を応援もするし、羨望もし、あこがれるのです。若いときにわたしもそんな「芸術家」の生きざまを考えたことがありました。「芸術家」とは自分の安定した生活を放棄して一番したいことを当然のごとくしている人たちといえます。しかもわがままに生き、周囲に迷惑をかけ死ぬ時に後悔することもなく死ねる人たちなのです。あえて恋人から結核を自分に移すという行為によって死に向かい合う関根正二みたいな生き方もできるのです。自虐的自殺願望ともいえるものです。生活力の欠如などから世間の常識に反した生き方をし、自暴自棄になる背景はさまざまです。「幸せ」の感覚は人それぞれですが、長生きすることばかりが幸せではないという、ある意味世間的常識に反する考え方、生き方を彼らは我々に突き付けてくるのです。


1937年頃の「裸婦」黄色が本当に美しい。

 生の充実、生の輝き、関根は代表作となる作品数点を描いて20歳で死を迎えました。世界広しといえど20歳で光を放ち亡くなる芸術家はいません。人の命は短いといわれますが、彼の生はあまりにも短い。自分の限界をはるかな高みで成し遂げた人間のみの味わえる境地、死を越えた至高の生き方をしたといえるかもしれません。
 長谷川利行には関根のような宗教的な強烈な個性はありませんが、童画を原点としたどこか文学的、詩的な抒情性、気持ちの柔らかさを感じます。この「裸婦」は利行としては小さい油彩ですが、そんな長谷川の特徴がよく出ていると思います。小さいだけに丁寧に描かれています。かえって大きな絵にない利行のすばらしい油彩のマチエールを味わうことができます。モデルの女性の胴長でゆったりした、すこしマンガチックな姿態に惹かれます。
 この絵には日本の絵画では唯一信頼のおける「東京美術倶楽部」の鑑定書が付属しています。絵に入れられたサインはT・H(TOSHIYUKI・HASEKAWAの略)です。画面右上に入っています。
 この私の今回の文章をお読みいただいた方へのお願いですが、是非彼の生きざまや作品をまずはネットで、次は画集や伝記で、次に展覧会で実物のマチエールの美しさを味わっていただき、彼の生きていた唯一の証としての作品を味わっていただきたいと思います。
 彼が最後まで離さなかった、気に入った絵画作品をぎっしり入れた行李と、いつも持っていたデッサン帳は、彼が行き倒れて収容された東京市養育院での彼の死後、引き取り人のない場合の規定によりすべて焼却処分されたといわれています。


「裸婦」(部分)
掌(てのひら)の骨董
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