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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董22.唐津鉄絵半筒茶碗 桃山時代作


 今月は前回の「ロイヤル・ウースター デミタスカップと飾り皿」とは正反対の世界の登場です。私は若いころ、日本のひなびた、わびさびの文化が大好きで、特に平安の渥美の壺や珠洲の黒い世界や、鎌倉時代初期の釉薬の剥離をともなった古瀬戸が好きでした。それらは今でも自分の身近にあって、いつも目にできる距離のところに置いてあります。


渥美大文字入灰釉古壺(平安時代)

 これらの魅力は何といっても背景が仏教ということに尽きるかと思います。宗教的な遺品、中でも特に人間の死に関係する遺品の第一は骨壺ですが、一般的には蔵骨器とか骨蔵器と呼ばれるそれら骨壺は長い年月、大切な主人の遺骨を抱いて地中深く眠っていたものです。中の骨は状態にもよりますが、酸性度の強い日本の土のために溶けてなくなり、何も入っていない状態で出土する場合が多いといわれます。もうすでに700年から1000年近い年月が経っているので仕方ありません。この大文字入灰釉古壺もそうした壺の一つです。700年から1000年の時間を楽しめるのが六古窯作品とその周辺の窯の作品ということもできると思います。そんな世界の美しさに強く惹かれていました。


古瀬戸壺(平安後期~鎌倉初期)

 そうしたひなびた世界から少し新しい世界、桃山時代に花咲いた茶道に登場する茶碗にもそうした侘び寂びが導入されて、素晴らしい作品が製作されました。茶道具の中心はやはり楽や美濃ということになりますが、その楽の黒楽、赤楽や美濃の志野や黄瀬戸、織部にはない風情の作品が今回のテーマです。

 「唐津鉄絵半筒茶碗」がそれです。私は少々ひねくれているためか、骨董屋さん方が「唐津はいいね、素晴らしい」と熱心に話し合って集めていると、買おうという意欲がそがれてしまうのです。みなさんが「唐津、唐津」というときはあまり買いたくないのです。ちょっと普通の唐津とは土味もわびさび系の風情の「山瀬窯・斑唐津」だけは魅力を感じて少し買ったりしていました。


山瀬盃(桃山時代)

 唐津ブームが衰えてきた頃でしたか、知り合いの骨董商の方のオークションサイトを観ておりましたら、観たことのない絵唐津の茶碗が出ていたのです。彼の解説にも「初めての絵柄の作品に魂を奪われた云々」書かれていました。唐津についてはブームには乗らないというだけで、私も一応は勉強しておりますので、その彼の書いていることも十分わかります。じっくりその作品を画面で拝見しました。確かに今まで観たことの無い絵柄と、やや小ぶりの桃山時代らしい筒形の茶碗です。彼も東京美術倶楽部の大手の業者市に通う「シブ好みの業者」ですから、この作品を観て、ここ一番とかなりの金額を出して買ったようで、その解説には力が入っていました。


唐草の唐津茶碗 割れた茶碗(桃山時代)

 割れた茶碗で、修復が入っていますが気になりません。この絵はなんと表現して良いか、ギリシャ伝来の唐草の変化のような大胆な文様と瓢箪に似た形が抽象化されたような独特な文様に描かれて大いに惹かれます。全体的にやや下に開いた筒形の形も桃山時代の風情が感じられます。特に一か所、小林秀雄や青山二郎に愛された、名品の誉れ高い唐津酒器「虫歯」のような、腫れた子供のほっぺのようなしもぶくれがあり、何ともいいのです。


唐津茶碗のしもぶくれ

 これまで唐津にはほとんど投資していなかったため、ここ一番私も頑張ってこの茶碗を落そうとの意欲が久しぶりに沸きました。
 満を持した入札者が殺到する中、かなり深夜になりましたが、この作品を手にすることができました。

 
中箱と外箱

 表箱は漆仕上げで、中箱は味わいある古色の箱の二重箱でした。
 今日もこうして出してみると、この唐津はなかなかいいな、と思います。骨董マニアはみな自己満足の世界を普遍化できる人たちですから、その幸せを感じるひと時がすべてなのです。このひと時のために生きているのです。
この絵を描いた陶工はどんな人だったのだろうかとか、この時代の姿形をつくれる陶工の技量、美的センス、こうした時代の持つ美しさ、素晴らしさ、自然の表現力を魯山人は「さくゆき(作行)」と呼んでいます。私の座右の書の一冊に「魯山人陶説」(中公文庫)があります。


「魯山人陶説」の表紙

 もうボロボロになりかけの本ですが、この本は素晴らしいです。今まで何回読んでも新鮮で、魯山人の主張に間違いがありません。学者が何十年かけて研究したり、発掘したりして得る結論を、魯山人は観ただけで瞬時に見抜きます。全人生をかけて美に傾倒した魯山人ならではの世界です。

 ここでその「魯山人陶説」の中から「私の陶器製作について」と題する重要な一文を引いてみましょう。
あるやんごとなき御方の御下問に奉答したという彼、魯山人の一文です。

 魯山人「一番私の重きを置いておりますのは作行(さくゆき)であります」
「作行とは?」とのやんごとなき御方の御下問に魯山人はこう答えています。
「土の仕事、即ち土によって成り立つ成形上の美醜に係わる点に於いて、芸術上から鑑る観点であります。陶磁器は、この土の仕事が芸術的価値を充分に具えていることを第一条件とします。いかに美しい釉薬が塗布されても、いかに力ある模様が付されていても、土の仕事が不十分では面白くないものであります。それに引き換え、土の仕事が芸術的価値を充分に具えます場合は、釉薬が掛かりませんでも、少し曲がりまして出來そこねましても、所期の色沢が出ませんでも、元々根本の土の仕事の作行が良いのでありますために、燦然として有価値に光を放つのであります」と応えています。

 これは極めて重要な魯山人の古美術、古陶磁器を観るポイントが凝縮された文章です。このまさに魯山人が言わんとする「作行」こそがこの唐津の半筒茶碗にも出ているように思えます。陶磁器の名品にはすべて、この作行の良さがあるといえます。

 よい作品は何度観ていてもさらに良さを増します。前回のロイヤル・ウースター作品について書いた時の冒頭に書きましたように、私は東京国立博物館を訪問した時には必ず観に行くいくつかの作品があります。それらは私の魂を揺さぶる作品です。最近は仏像に対してその傾向が強くなりました。やっとエジプトからギリシャ、ガンダーラ、中国、朝鮮を経た彫刻美の系譜が観れるようになったからだとも思えます。

 改めてこのやや小さめですが「唐津鉄絵半筒茶碗」を観ると、まさに彫刻と同じような世界、エジプト、ギリシャの唐草の息吹、朝鮮鶏龍山鉄絵の伝統をひく素朴でのびのびした絵、同時代には見かけない瓢箪のような織部的抽象絵画の魅力、そしてさらにその姿に魯山人のいう「作行」の美が混然一体をなして、自分に迫ってくるのです。


唐津鉄絵半筒茶碗(桃山時代)
掌(てのひら)の骨董
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