文化講座
掌の骨董3.統一新羅緑釉雁鴨文小徳利について
作品両面雁鴨文絵
私はこの作品が好きで、いつも身近なところに置いています。二面に一対の雁鴨が描かれています。雁鴨のつがいはペアを組んだらどちらかが死ぬまでお互いに離れないといいます。韓国では結婚する時に新郎が木雁(木で作った鴨)を作り、日本の風呂敷にあたる、福を表す意味のポシャギに包んで新婦の実家に贈る習わしがありますが、それは新郎からの、仲の良い雁鴨にならって夫婦として添い遂げますという意思表示に他なりません。古来、こうした雁鴨への思いが朝鮮半島では強いようです。
雁鴨池宮殿(写真・「新羅瓦塼」国立慶州博物館発行より転載)
新羅最初の瓦(筆者蔵)
統一新羅時代の674年に首都である慶州に雁鴨池(アナプチ)宮殿ができました。ここは現在の慶州国立博物館の横で、遺跡として1975年に発掘調査され、再建法隆寺と同等の大変重要な建築学的遺構の発見が相次ぎました。「新羅」という名称は「新しいローマ(羅馬)」を目指すという意味の国名です。シルクロ-ドの西の果てにある最新鋭繁栄国家、ローマ帝国。それにならって東の最強の国になりたいという意気込みが朝鮮半島を統一した原動力なのでしょうか。新羅の黄金文化もローマ的ですし、ギリシャ・ローマ神話の有翼の馬ペガサス(天馬)のレリーフの古瓦が出土し、ガラス文化もローマンガラスを彷彿とさせます。
今回私がこの作品を取り上げたのは、絵もかわいくすばらしいのですが、不思議な緑釉が施されているからなのです。しかも濃い緑釉が掛かっています。
天馬瓦(上記「新羅瓦塼」より転載
緑釉といえば、まず思い出すのが中国の「漢の緑釉」です。美しく銀色に輝く「銀化」した壺や碗が有名です。銀化は特に鉛釉に出やすい現象で、経年変化として釉薬の表面が七色に反射して輝き、その後銀色に変化してゆきます。ローマングラスも銀化して七色や銀色に輝きますが、原料は鉛ガラスではなく、アルカリ石灰ガラスです。漢の緑釉にしても、ローマングラスにしても、時間が経つと変質して美しい、神秘的な銀色になってゆきます。これを「虹彩」または「銀化」といいますが、これは釉やガラスが長い間に風化されてガラス質そのものが薄い層に分かれ、劣化分解してゆくと、そのすき間に空気が入り外光を屈折分散してオパール現象を起こすことをいいます。この現象はあらゆるガラスに起きますが、特に鉛釉、鉛ガラスにこの現象が起きやすいとされます。
漢の緑釉を引き継ぐのが北魏から北斎時代の緑釉ですが、緑の色が薄いものが多いようで、銀化にも品格があります。
銀化の美しい北斎緑釉盃(筆者蔵)
その後中国大陸を支配するのが随帝国から唐帝国です。その唐帝国でたくさん作られるのが有名な「唐三彩」です。
当時の権力者である則天武后は女帝ですが、権力を握り、三彩に執着したようです。この三彩は鉛釉で、とても美しいものでしたが、焼成の時に鉛の害により多くの陶工が倒れたようで、そのため見るだけなら美しいが、使用すると有毒であると考えられたようです。その結果、死後の世界にお供するなら良いだろうということになり、美しい副葬品として墓に大量に入れられたようです。
唐三彩手付き盃(筆者蔵)
そうした唐時代最高の技術である唐三彩の技術がなぜ日本にもたらされたのか、不思議に思うことがあります。後の伊万里磁器の焼成について、実際にあったことですがその技術は極秘に扱われ、制作方法は決して外部には漏らさないという方針が採られたからです。特に最高の技術とされた伊万里の献上品である「鍋島」にその傾向が著しく見られます。唐三彩の庇護者にして嫉妬深く、執着心、復讐心の強い、この則天武后が果たして彼女を魅了する美しい三彩の技術を外国人に教えようと思ったかは大いに疑問です。則天武后が亡くなったのは706年5月ですから、私は則天武后のこだわった唐三彩制作の技術が日本塼にもたらされたのは武后の死後のことと考えています。
唐三彩の技術が日本にもたらされて作られたのが「奈良三彩」ですが、その奈良三彩が歴史的に登場する最初が「古事記」編纂の立役者である太安万侶(おおのやすまろ)の墓からの出土でした。太安万侶の生年は不詳ですが、没年は明治44年(1911年)に発見された彼の墓から「墓誌銘」が出土しており、そこに神亀6年(729年)に太安万侶が亡くなったと記載されていたのです。その同じ墓から発見されたのが「奈良三彩」の壺の底部なのです。ですから当然のことながらその陶片は太安万侶の死よりも前に焼かれたことは間違いありません。当時の唐帝国の支配者は楊貴妃を溺愛したことで有名な玄宗皇帝であり、則天武后のように唐三彩にこだわりを見せたとは到底考えられません。政治から遠ざかり、楊貴妃を愛し、楊一族を偏重し、「安史の乱」により唐帝国を傾国と滅亡の淵に追い込んだ原因を作ったのは玄宗皇帝であることは確実であり、そうしたことから考えると遣唐使船で派遣された日本の優秀な僧侶、政治家などによって当時最高の唐三彩の製作方法を日本に伝えることを懇願された玄宗皇帝はさほど拒否する様子も見せずに許可したのではないか、と考えられます。そう仮定しますと則天武后の死と太安万侶の死の間の時期に日本に伝えられた可能性が極めて高くなります。そこでその間の遣唐使船の帰船を調べますと、717年に日本を出帆して718年に順調に航海を終えて帰国した「第8回遣唐使」しか可能性がないことがわかりました。おそらくその718年の帰り船に制作方法、量はわかりませんが材料一式が積み込まれたに違いありません。東京国立博物館の元陶磁室長の矢部良明さんは、奈良三彩は制作方法を記載した資料によって日本で須恵器、ないしはそれに類する土によって制作されたと書かれていますが、私は材料一式、量は多くはなかったとおもわれますが、同帰船でもたらされたものと考えています。その理由は、私の持っている東大寺二月堂裏山祭祀場出土の奈良三彩の陶片を詳しく調べてみると、土も釉薬の色調も唐三彩の作品にそっくり同じだからです。
唐三彩盃と奈良三彩陶片の似ている鉄釉と土質の写真(筆者蔵)
奈良三彩の特徴の一つに釉薬の色を分けて施した作品が多く、唐三彩の混ざるように掛けた施釉方法と違うことが多かったからです。日本の習慣では、食事でも混ぜるのを嫌う傾向があるように思います。それに比べて大陸ではチャーハンやビビンバなどのように混ぜることを好むような例が多いように思います。日本では新鮮な素材の良さ、美味しさそのものを楽しむ傾向が強いように思います。唐三彩の釉薬は緑、黄、茶、地の白をとても美しく混ざり合うように流しています。そうした点で奈良三彩は違う美的感覚で制作されているといえます。もともと遣唐使帰船によって日本にもたらされた陶土は中国のものであり、量も少なくすぐになくなったため須恵器の土が使われたと考えられます。
後に愛知県瀬戸市近くの猿投において白い土が発見され、灰の釉薬、灰釉がその白い土に見事に美しく垂れる「玉垂れの壺」が制作され、日本の美学の確立に大きな一石を投じることになり、その延長線上に桃山時代の灰釉緑釉の「青織部」が出現しますが、奈良時代にはまだ唐三彩と同じような白い土は日本では見つかっていませんでした。
猿投 灰釉玉垂壺(平安時代・筆写蔵)
ここで知っておいていただきたいのは、日本でこうした緑釉を制作した奈良時代は中国における唐三彩が最盛期を過ぎるころであり、さらに朝鮮半島では統一新羅が繁栄していたころとオーバーラップするということです。今回の統一新羅緑釉雁鴨文小徳利はこうした時代の狭間で生まれた、朝鮮半島の作品ではないかと思います。その根拠は以前に見た天平の緑釉とこの統一新羅時代の緑釉の色合いが他の三彩と比べて濃く、お互いに似た特徴を持っていることに起因しています。
雁鴨宮殿造営が679年、統一前の古新羅の始まりは356年で統一新羅の高麗への委譲による終焉は935年。唐は618年から907年。奈良三彩伝来は武后の死後の玄宗治世(712~756)の718年に日本に材料と焼き方が伝来していると考えられます。前にも書いた通り、武后死後のことと玄宗皇帝のことを考えますと、技術の流失への警戒心も緩かったのであろうと推測できます。唐三彩にこだわっていた武后が生きていたら、また皇帝が玄宗でなかったら日本に三彩の技術は伝来しなかった可能性は高まったことでしょう。
天平時代の緑釉は色も濃く、暗緑色というのがふさわしいほど濃い緑色です。この新羅の雁鴨文小徳利も同じ暗い色合いです。そうした点で似た部分を含んでいます。この新羅の暗緑色は鉛釉薬ではないようなので、唐三彩や奈良三彩の流れとは違う系列のものと考えられます。白色の雁鴨の絵を詳細に観察してみると、素地に緑釉を掛けて乾いたところに良質な白土で雁鴨二羽の絵を達者な筆で一気に上描きしています。裏表二面に二羽の雁鴨がなかなかかわいく描かれています。その上に灰釉を薄く掛けていると思われます。通常白土絵は定着が弱く、剥離しやすい場合が多いのですが、この白土は周辺の緑釉が剥げ落ちているにもかかわらず残存しており、しっかりと素地に定着して雁鴨の絵を生き生きと今に伝えてくれています。
釉薬を掛けるという作業、すなわちやきものにおける施釉というものは、陶磁史を人間の体に例えてみると、背骨の部分を構成しているくらい重要なものであり、さらに緑釉はその背骨の中を通る神経系を形成していることに該当すると例えていいように思います。それくらいに重要な色の釉薬といえます。それらは漢の緑釉に始まって、後世の織部、伊万里古九谷様式や柿右衛門様式、金襴手様式にも受け継がれ、さらに北大路魯山人の作品にも受け継がれていくのです。