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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董96.李朝辰砂(しんしゃ)香炉

 新年明けましておめでとうございます。本年もたのしく、ちょっと珍しく、興味がわき、可愛い骨董品・古美術品の数々にスポットを当ててご紹介できればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。


李朝辰砂香炉

 李朝時代(朝鮮時代・1392年~1910年)の焼物のジャンルには正式ではない土器を除き、大きく分けて2種類あります。

1. 粉青沙器(ふんせいさき)

 正式には粉粧灰青沙器(ふんしょうかいせいさき)といい、白土化粧したボディに青磁釉薬をかけた陶器という意味です。青磁釉から透明釉に変わっていきます。多くは掻落しに鉄絵が入り、最初の産地である朝鮮半島中央部のやや左下あたりにあります鶏龍山を中心に製作された焼き物であることから単に「鶏龍山」と呼ばれることも多いです。
 日本の初期茶人たちに愛された茶碗の「三島暦手茶碗」などは皆この「鶏龍山」作品の一ジャンルとなります。初期に高麗青磁に似た青磁釉薬を掛けた作品がありますのは、高麗青磁を製作した朝鮮半島南部、一番南の左下の「熊津(ゆうしん)」に近く、高麗王朝を部下の李成圭(李朝建国の祖)が滅ぼし、簒奪した折りに高麗青磁の技術を「鶏龍山」が継承したからと考えられます。
 「高麗青磁」の産地が半島の最南部左の「熊津」にあるのは、適した「陶土」がそこに産出し、かつて対岸である中国杭州との貿易ルートを通じて中国の北宋時代に景徳鎮などの官窯の「青磁」の製品と技術が交易として入ったからと考えられます。


高麗青磁・総唐草文透飾箱

高麗青磁から技術を受け継いだ鶏龍山作品への過渡期の作品(ソウル国立中央博物館所蔵作品)

粉青沙器の徳利

2. 白磁

 この白磁の中には更に純粋白磁と白磁をベースとした鉄絵、染付、瑠璃、辰砂があります。

 今回はこの最後の、私が好きな「辰砂」作品を取り上げます。李朝白磁全体から考えれば、辰砂作品は極めて少なく、独特の美しさを持つことから一時は非常に高価でした。


李朝辰砂香炉胴部分

 この「辰砂香炉」の製作時期は李朝後期から晩期、18世紀から19世紀頃とされます。

 白磁は素材がカオリンという石の成分から成り、高温で焼かないと固く焼き締まりません。そのため還元焔焼成、すなはち酸素を少なめにして窯の中を高温にする技術を使わないとできない焼き物です。
 伊万里磁器も、秀吉による文禄・慶長の役後の李朝帰化陶工から学び作られた、日本初の「磁器」作品とされます。


草創期伊万里作品

 どこの国の焼物の歴史をみても、最後に登場するのが「磁器」なのです。それだけに製作者に高度な経験と技術を要求する究極の焼物といわれる所以です。
 中でも還元焔で焼かれることにより、最高の美しさを出す「染付」と「辰砂」が、いかに多くの人たちを魅了し、愛されたかはいうまでもありません。

 釉薬としての辰砂の科学的な根拠は、金属としては鉄に次いで地球に多い銅が成分です。酸化・還元と鉄、銅の関係は下記表に詳しく記しました。辰砂はもとは朱砂、すなはち水銀を精製する前の赤い硫化鉱物でした。銅の還元で得られる色が似ていることから「辰砂」と名付けられました。


酸化の色・還元の色

 銅は酸化焔焼成、すなはち酸素を多くして焼きますと「緑色」に発色します。いわゆる「漢の緑釉」として、古くは中国古代国家「漢帝国時代」に副葬品として大量に製作されたことで有名です。日本の織部の緑も銅釉から酸化焔焼成されてできます。


漢の緑釉鉢(1~2世紀頃)

 また同じ中国の唐時代、則天武后に愛された、美しい「唐三彩」が製作され、その緑釉に使われました。


唐三彩の盃

 唐時代の後に、世界初の磁器「元染付」が元時代の景徳鎮窯で製作されますが、この還元焔焼成でしかできない磁器に美しいペルシャ産の呉須、すなはち酸化コバルトが用いられて最高の藍色が完成します。

 同時に銅を用いた辰砂作品も製作されます。これは後の清朝の乾隆帝の時代に色絵と共に最高のブルー、藍色と赤が完成します。藍色は後に日本の茶人に愛された祥瑞(しょんずい)などにその美しさが継承されます。そうした一連の最高作品を製作したのは景徳鎮窯や龍泉窯で、その還元焔焼成の窯の銅釉の作品が朝鮮李朝に伝わり辰砂作品が製作されます。これが李朝辰砂です。特徴は中国の辰砂よりえんじ色に近い色をしてます。これも「民族性」の違いかもしれません。


李朝辰砂香炉部分

 日本の茶人は派手な赤色を好まず、インド更紗やジャワ更紗の渋目のえんじ色を好むようになったようです。明時代の後期にベンガラ赤絵が伝来して、古九谷様式(釉上彩)から柿右衛門様式に使われ渋い赤として好まれるようになります。

 遊牧騎馬民族である清朝は肉食で、玉でも最高の「羊脂玉」のように、羊の脂の「白色」を最高に美しい「白玉」としたように、赤では鮮血を思わせる鮮やかな赤が好まれたようですが、日本や李朝ではそれを敬遠して好まず、えんじ色に変化させました。こうして李朝辰砂作品が生まれました。


宋時代の辰砂の本場、釣窯澱青釉紅斑碗・松岡コレクション蔵)

 私はかつて韓国を頻繁に訪れましたが、その時に手に入れたのが今回の作品です。韓国にも少なくなった、思い出の李朝辰砂作品です。

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