愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董141.美濃古陶«桃山時代・初期黄瀬戸水差しについて»美濃窯の成立経緯


初期黄瀬戸水差し(桃山時代)

 私は高校時代に始めた刀剣鑑定の勉強を大学時代に終えた後、社会人になってからは日本の陶磁器の勉強を始めました。好きな領域から始め、興味のある領域に進む方法が一番自分として熱心に取り組めるので、その方法を取りました。

 当時、高松塚古墳が発見され、その高句麗伝来の壁画に皆さん魅了されていました。梅原猛先生の高松塚論の著作「黄泉の王(よみのおおきみ)・私見・高松塚」が出版され、古代史に興味を持ち始めていた私は一心不乱に読みふけり、古代史の知識を深めました。そのころ一番感心があったのが朝鮮半島の王朝「新羅土器と日本の須恵器」でした。古代史は面白く、その後長く日本史の勉強は継続しましたが、それと同時に、関連する陶磁器と仏教美術を学んでゆきました。須恵器は葬送に使われるものが大半であり、次第に朝鮮文化、古墳文化から仏教美術へと深く関連してゆくとともに、古瀬戸から美濃古陶、そして茶道へと関係を深めてゆきました。その成り行きに任せて、興味を移してゆきましたが、大学時代には「茶道部」に入りましたが、実態は「酒道部」でしたので、アルコールが体質に合わない私は、早々に退部して、後に武家茶道の石州流に入門しました。


古代史への道を拓いてくれた、懐かしい梅原猛先生の著作「黄泉の王・私見高松塚」初版本(昭和48年)

 瀬戸や美濃の窯跡もたくさん歩きました。実際の現場から表面採取できる陶片で勉強しましたから、窯場と陶片が一致してますから、後に大いに役立ちました。


初期黄瀬戸水差しの渋い色調の釉薬

 特に後期の黄瀬戸の胆礬、すなはち銅による緑釉の酸化焔焼成ですが、古く美しい釉薬の変化、荒川豊蔵さんの言うように、中国「唐三彩」の伝統を微かに受け継いでいると思います。

●黄瀬戸の渋い黄色はどう出すか?
 有名な陶工、加藤唐九郎氏によれば、黄瀬戸のあの渋い黄色は樫の木灰を釉薬に使い、酸化焔焼成すると、味わいのある、桃山茶人が愛した独特な渋い黄色が再現されるとなにかに書いていたのを思い出しました。

 東美濃に焼物の技術が瀬戸から移転した理由としては、以下に依ります。

 具体的には、現在の岐阜県東濃地方である多治見市、土岐市、瑞浪市、可児市などに本格的な高級施釉(せゆう)陶器の技術が移転・定着した最大の理由は、古瀬戸陶工集団を専属として経済的に大きく支えた北条得宗家(北条本家筋)による鎌倉幕府の衰退・新田義貞による鎌倉攻めと、それによる北条家滅亡が大きく、そのためそのメリットを引き継いだ「土岐氏の移住勧誘(経済的支援)も大きく陶工の移転に拍車を掛けました。志野は初め「白瀬戸」と呼ばれ、織部は「青瀬戸」(当時は緑を青と呼んだ)、「黄瀬戸」、「黒瀬戸」といわれ、新しい庇護者である土岐氏は鎌倉時代からの名門「瀬戸」の超高級ブランド名をしっかり残して売りました。それらは後に「志野」、「織部」「黄瀬戸」「瀬戸黒」と呼ばれ、美濃窯の窯業発展を支えました。


初期黄瀬戸水差しの横写真

 この歴史的移動は「瀬戸山離散(せとやまりさん)」と呼ばれており、技術が瀬戸より移転した背景には、瀬戸の経済力の衰退がありました。その経済力の衰退の原因は以下の3つと考えられます。

1. 室町時代後期から戦国時代にかけて、尾張(愛知県)やその周辺は度重なる戦火に包まれました。これに対し、山を挟んで隣接する東美濃の山間部は比較的平穏であったため、戦乱を逃れて安全に作陶に専念できる安全地帯として多くの陶工が移り住みました。

2. 織田信長による美濃進出と保護。織田信長が美濃を攻略・統治するようになると、信長は自身の好む「茶の湯」の道具(茶陶)を確保するため、陶工たちを自らの保護・統制下に置きました。信長の美濃進出に伴って、尾張と美濃の国境を越えた窯業のネットワークが広がり、陶工たちが東美濃で積極的に新しい窯(大窯など)を開く後押しとなり、発展してゆきました。

3. 東美濃の圧倒的な自然環境(陶土と薪)技術を受け入れる東美濃の地には、焼き物作りに理想的な環境が揃っていました。良質な粘土(陶土): かつて存在したといい「東海湖」の底に堆積した、長石の多い、きめの細かい、大量の粘土層がありました。豊富な燃料:美濃には窯を1200度以上の高温に保つために不可欠な「赤松(アカマツ)」の森林が豊かに広がっていました。


初期黄瀬戸水差しの「歪み」を上から見る。

 技術移転が生んだ「美濃桃山陶」の黄金期。この技術移転によって東美濃の窯業は飛躍的に進化し、安土桃山時代には千利休や古田織部といった茶人の指導のもと、「志野」「織部」「黄瀬戸」「瀬戸黒」といった日本を代表する独創的な茶陶(美濃桃山陶)が生み出されることになりました。これが、現在の生産量日本一を誇る「美濃焼」の基盤となっています。

 志野については、牟田洞古窯発見者、後の人間国宝、荒川豊蔵や北大路魯山人の功績が大きく、美濃陶器の一大飛躍・人気につながりました。


黄瀬戸水差しの高台 渦形糸切り痕は東海系古窯の特徴

 今回の「黄瀬戸水差し」は黄瀬戸としての最初期のものであり、元屋敷窯跡下にあります「土岐市美濃陶磁歴史館」に展示してあるものと「同手」のもので、大変「ひなびた黄色」の貴重品です。縦線、斜線が側面に9本入ります。高さ78.13ミリ 幅175.5ミリです。水差しとしては低いですが、何か不合理な安定感が感じられます。

 美濃焼発展の背景には、かつてこの地域一帯に「東海湖」という巨大な湖が存在したことに遡ります。長い年月を経て湖の底に堆積したキメの細かい良質な長石の多い粘土層の存在が大きいです。また「もぐさ土」という、ざんぐりした、荒い土味の独特な土も使われましたが、現在は少なくなり、採取できなくなりました。本作は「もぐさ土」による制作です。

 千利休や古田織部のような茶人らの活躍もあり、美濃焼の基本をなす四様式(志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒)が誕生します。ゆがみをあえて良しとするなどの斬新な「織部様式」の考え方が敷衍し、自然で自由、おおらかな姿や形がのびのびした桃山芸術の自由性の一端を示しています。非常に価値ある作品群です。


桃山時代・初期黄瀬戸水差し 桃山時代作らしく、持ちやすく、安定した姿をしている

※こちらをクリックされますと、同じ著者によります「旅・つれづれなるままに」にアクセスできます。こちらもお楽しみください。

掌(てのひら)の骨董
このページの一番上へ