文化講座
掌の骨董132.「ぼろ(BORO)古布の美」 古裂収集の楽しみ

BORO古布
いつのころからか、はっきりしませんが、わたしが露店修行をしていた頃ですから、もう40年は経っているでしょうか・・・藍染のぼろぼろの布が露店に出ていたことがありました。「つぎはぎ」だらけのその野良着を見て「ああ、いいなぁ」と思ったものでした。捨てられないで、最後まで使い込まれた物には、不思議な魅力という「力」があります。
私は興味を持つと集めて研究したくなりますが、こうした「ぼろ・BORO」は現在でもますます外国人たちに人気があります。美術館ができたり、専門書が書かれたりしているという噂もあります。外国人に人気です。ジーンズも藍染めで人気が高いですから、共通点があります。少し前はフランス人が収集していました。今はニューヨークでファッション関係の若者やデザイナー、クリエーター達に「BORO」として人気があり、日本に買い付けにくる業者も多いと聞きます。

BOROの一部
「BORO」というタイトルの本も出版されて、ネットで販売されてます。そういえば初期ジーンズはアメリカやイギリスで、すごい高値でコレクターに売れるらしく、ハンターが必死に探しているようです。以前テレビで放映してました。
「BORO」の端切れをパッチワーク風につなぎ合わせて面白い生地を作り、それでコートや上着を作るとなかなか味わい深いものができます。ファッションショーに登場したり、さらに古い生地をそこに使えば、それはもう「ものすごい力」を服に与えますから、これまでの「美」とは違う存在感があります。普通の生地とはまったくというか、ケタ違いに違うのです。異次元の「美」といえます。

BOROの一部
また服やファッション関係ということにこだわらずにコレクションの対象として、素朴に楽しむこともできますし、コンクリートの打ちっぱなしの壁にタペストリーのように掛けても鮮烈なインパクト、「新しさ」があります。裏の味も素晴らしいから、2面楽しめます。

BOROの裏面
もう十数年前になりましょうか、東京平和島の骨董祭に、シブい趣味の商品を出す知人の骨董商が出店していましたが、私は偶然そこに行き合わせ、とても味わい深い、半端ではない古布に巡り合いました。一目見ただけで引きつけられました。かつて自分が見た中で最高の雰囲気、味わい、古さを兼ね備えた本物の「ぼろ布」(The BORO)です。25年間見てきた中で秀逸なものであるように思えました。その友人の骨董商も、「いままで好きで300枚以上売ってきたが、大きさ的にも、これに勝る古布はない、これは最後の一枚だ」といってました。まあそれはオーバーであるにしても、145センチ四方の大きさも珍しいし、見た目も素晴らしく、雰囲気もいい。
だいたい古布の命は保存状態にもよりますが、良いもので100年が一つの限界という見方があります。要するに保存状態がきわめて悪い場合はすぐに消滅してしまうのでしょうが、状態がいいとかなり長い年月ぼろぼろになってもまた継ぎはぎされて使われます。継ぎはぎに継ぎはぎを繰り返して使う。この連続で、徹底して使い込む。そうした観点から、この古布は、部位によりますが、おそらく江戸時代をかなり遡り、藍染めの歴史を辿れるものもありそうに思います。
美術の一つの見方に「用の美」というのがあります。これは家屋そのものにしてもお椀類などにしても、またさまざまな囲炉裏端の道具などにしても、使えば使うほど煤やタールが付着して美しさが増すということを表しています。民衆の日常道具のうちでも、先祖から伝わる道具などの中には何世代も前から使われてきたものが今でも最前線で使われているものがあります。合理的で使いやすいということも美につながる「利点」です。
愛され続けて、使われてきたものには、使いやすいという合理性の中に美しさが感じられるという見方もあります。これが「用の美」です。
また日本には古来、枯れゆく美、消滅する美、消えゆく美という世界があります。仏教的「空」の世界では、存在するもの、色や形あるものは必ず滅するという教えがあります。不変であるものはこの世にはないことを「空」といいます。
その姿が消えゆくときに光芒を発する一瞬のきらめきが「滅びの美」とされます。茶道における「わび、さび」などもその考え方の延長線上にあります。私はまさにこの古布「BORO」がその消えゆく最後の美の世界を見せていてくれているように思えてなりません。

BOROの裏面の一部
友人の骨董商にお願いして、この一枚の「BORO」を自分のコレクションの一つに加えました。(約145センチ×約145センチ)正方形、スクエアです。
たとえば琳派の作品に観る古美術としての美。そしてここでご紹介した古布の消えゆく美。ともに美でありながら性格を全く異にしています。たとえば琳派の作品は、もともと美術品として生まれ、伝来してきたものです。由緒伝来が正しい美術品といえます。それに比べて「古布」は生まれは民衆の生活に供されるために、どこで作られたものかもわかりません。そして長い間、消耗品として酷使され続け、擦り切れ、破れ、継ぎはぎされてまた使われる・・・こうして大半は長い酷使の時間の経過の中で消滅していったに違いありません。しかしそれらのなかから今まで残った数少ない一枚、おそらく、推定ですがこれまで生産された布の何百万分の一がこの残ったぼろ古布で、それゆえになんとも、いとおしく美しく感じるのです。たまたまというか、奇跡的に残ったものといえます。「古美術品」と「BORO」はともに全く正反対の世界を過ごしてきましたが、共に究極の「美」の一つであることに変わりはないと思います。美術品と民芸の一線はまさにここにあります。美とは美しいと感じる人間にある感覚であり、絶対基準はありませんから、規定はできませんが、その判断基準を自分なりにつけて行く努力を我々はしないといけないのです。それには多くの世界の物を真剣に、正しく「観る」ことによって比較研究し、どちらが美しく、本当の価値を有するか、この自分なりの判断基準を高めてゆくしかないのです。

奇跡的な「BOROの美」
改めてこの「BORO」を観ると、我々が時代の中に置き忘れた「美」が奇跡的に残っていたことに気付くのです。年代を経た、本物のBOROはもう生産されることはありませんから、大切にしたい日本の「遺産」・BOROです。
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