文化講座
掌の骨董139.山形県村山市・伝「宮の前遺跡」出土縄文土器研究(3)縄文土器舟形文様とエジプト文明の「太陽の船」の微かな類似の可能性を求めて

宮の前遺跡出土の縄文「舟形文様」土器口縁部破片
今回は、連載136回、137回に続き、再度取り上げて書いてみました。紀元前2500年頃の縄文土器とエジプト文明がつながっているなんて、あり得ない、とお考えの方々は多いと思われます。実際の学者でも、それは無理だ、あり得ないと考える方々は多いと思われます。そうであればこそ、ここで更に今回もう一度同じ「宮の前遺跡」出土の縄文土器の中の、舟形文様土器片とエジプト文明の「太陽の船(クフ王の船)」との類似性について比較検討してみたいと思いました。

クフ王のピラミッド南側から発掘された「太陽の船」が大エジプト博物館に運ばれる時の「太陽の船」の絵
エジプトと縄文土器、互いに9000 キロ以上離れた文明の交流(一方通行かもしれません)があり得るかどうかの「確証」はありませんが、私は仏教的な側面からも、エジプト文明との数々の類似点を確認してます。古代の人々は、我々が考えている以上に躍動的で、行動的です。ここは「常識」をはずして、一つのチャレンジとして、可能性として読んでみて下さい。縄文時代、日本では文字の無い時代(絵柄で意味を共有していた可能性があります)大半の信州系縄文土器は「性と出産」のことを扱う図柄、デザインとされますが、宮の前遺跡出土の遺品には、極めて特徴的な図柄が混じります。ですから、いくつかの推論の一致が同じように重なれば、その「推論」は正しい可能性が高いと歴史家で哲学者の梅原猛先生は書いておられますが、その可能性を追ってみたいと思います。
文字のある時代なら、古文書や石碑、粘土板から確認できますが、それはまたそれで、違った難しさもあります。とかく「時の権力者」は、いつの時代でも自分の都合の悪いことは隠し、記録を良い方向に書き換えさせるという「勝者の改竄(かいざん)」の傾向が強く、なかなか「記録」そのものにも信憑性の面で難しいものがあります。粉飾された「太閤記」などが最も良い例とされます。

ニーチェ像
ドイツの哲学者「ニーチェ」は「疑うこと」の天才でしたが、彼は元々、スイスのバーゼル大学で24歳で「古典文献学」の教授になったという天才中の天才で、この「古典文献学」という学問は何かといえば、研究する前の段階の「文献・資料」が本当に正しいものかどうかを判別する「専門学問」で、しかも24歳、普通なら大学修士課程そこそこの歳で、国立大の教授になった訳ですから、それは権威で名高いヨーロッパの国立大学では前代未聞の快挙でした。
すなはちニーチェの仕事そのものが「疑い、真偽を確かめること」でした。この学問は極めて大事で、学者はこの正しいとされた文献を基に「研究」を進めるわけです。またニーチェは「疑う」ことが、一番大切であることを数々の著作において証明しました。
連載の136回、137回の中で、日本の考古学界のかつての「失態」を書きましたが、それはそもそも日本に「古典文献学」という学問ジャンルが無いから起きてしまったことともいえますし、「発掘現場至上主義」を逆手に取られた事件でもありました。最近は「放射性炭素C14年代測定法」がありますから、間違いは少なくなってきましたが、人間の知識、認識、思い込みには、どうしても「限界」があるということでしょうか。やはりなんでも「許容性」が必要で、最初から権威で「あり得ない」と否定しないことが、虚心に発掘でも偽物は入り込む余地はあり得るかもしれない。このようにニーチェのように徹底的に疑うことが大切だと考えます。「考古学者」は、全てを信用してはいけません。私なんかは「あり得ない」は「あり得る」んだと出土品を謙虚に凝視することにより、まったく新しい風景が見えるときもあるのです。間違えるから、人間は成長するともいえるのです。その「間違い」を禁止したり恐れていてはいけません。その「過程」が大切なんです。
今回の「太陽の船」は別名「クフ王の船」ともいわれ、私が先生の私的な学校の講師もさせていただいた、敬愛するエジプト考古学者・吉村作治先生が研究され、クフ王のピラミッド南面前から発掘された「太陽の船」、今から約4600年前の大型木造船のことで、まさに世界が驚いた大発見でした。
最高神、太陽神ラーやイシス女神が乗り、昼の天空と夜の冥界を航海する船と考えられ、死後の壮大な世界観、宗教観から重要な役割を担ったものと考えられます。
世界最大のクフ王のピラミッドの南側地下から、分解された状態であった発掘品は、4600年ぶりに復元され、全長43.6メートル、幅5.7メートル、重さ約20トンになる、クフ王の権力に見合う巨大な船でした。また驚くべきことに、その後第2の船も発見され、吉村作治先生のエジプト考古学上の業績は、ハワード・カーターによるツタンカーメン王墓発掘に次ぐ世界的な発見と高い評価を受けています。クフ王は、少年王ツタンカーメンと違い、エジプトの王の中でも最大級の「大王」とされる偉大な王ですから、力の弱い王族や貴族たちはより小さな舟の絵や模型を造り、埋納したことでしょうが、クフ王のそれは規模が違います。43.6メートルの冥界を行く船ですよ、すばらしいです。

発掘された「太陽の船」(大エジプト博物館)
エジプトの宗教観は日本の最も古いとされる「阿弥陀信仰」によく似ており、阿弥陀のルーツとされるオシリス神が冥界の主とされ、復活を司ります。エジプト人の考えでは「死」は魂と肉体の分離と考えられ、三途の川の原点とされるナイル川を渡り、この世を終えて冥界の天空を旅し、いつか元の肉体に戻り復活を遂げると考えられました。ですから「肉体や臓器」は復活に必要ですから、大切に防腐処理がなされ、内臓は「カノポス壺」という四つの壺に入れられ、遺体は、高級で清潔なリネン布により、護符と共に巻かれ、ミイラとして保存されました。権力者というものは、常に豊かな人生を送りたいと願い、また長生きしたいと考えて来ました。そうした考えは、平均寿命が30歳前後とされる縄文人も同じで、医療の発達してない時代では、神なる大自然、宇宙に祈るしかなかったことでしょう。そうした中、シルクロードの果てから、高度な最先端の「宗教観」による、まったく新しい「エジプト文化」が東の果てとしての目印、日本海に面した単独峯「鳥海山」麓手前の「最上川」を遡上し、彼らの住みやすい「宮の前遺跡」に流入したとしても何の不思議もありません。

「太陽の船」に乗るイシス女神(遺品を模倣した倣製品)

古墳時代のガラス勾玉・これも舟形とも考えられる
136回、137回の「ウジャトの眼」や「唐草文様」と同様に、極めて「太陽の船」に似ています。縄文土器は「人の葬送」に使われ、中に遺体を入れて埋納した事例もありましたから、そうした目的に使うために製作された可能性もあります。
実は書きましたように、まだまだ私は日本仏教への「エジプト文明」あるいは「メソポタミア」の影響を確信している事例がたくさんあります。今回、前々回にお読みいただきました「事実」は、実は一部のものなのです。(反対される方は、ただ「あり得ない」ではなく、なぜあり得ないのかを反証せねばなりません)
シルクロードには「陸のシルクロード」と「海のシルクロード」があります。陸路は幹線に沿って網の目のように張り巡らされ、おそらく「太古」の時代から交流があったと思われます。また機会がありましたら、その辺りを詳細に書いてみたいと思います。

今回の縄文土器にみる「太陽の船」と思われる「舟形土器片」。
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