文化講座
掌の骨董136.縄文時代とエジプト文明をつなぐわずかな可能性(山形県宮の前遺跡出土の縄文土器とエジプト・ファイアンス製の「ウジャトの眼」の比較)連載2回の1回目

縄文土器(山形県宮の前遺跡出土)の文様

エジプト・ウジャトの眼
(下)と上半分の「スフィンクス」と連続π文様(今回これと下の眼と蔓草文様)
今回は私の若いころからの「夢」というか、「信念」があるのですが、いまや世界最古の歴史を持つとされる縄文土器文化の晩期に当たる土器の文様とエジプト文明とのつながりを探求できるのではないかという、秘かな試みを持っています。それは今回の内容もそうですが、いくつかの「仏教的な側面」からも、エジプト文明の「余香」を感じているからなのです。
今回は、世界最古の歴史ある「縄文土器」と「エジプトの護符」との類似性を比較考察することにより、地球のほぼ真裏同士の同時期の細い文化的なつながりの「可能性」を考えてみたいと思います。
これは人類文化史にとって「ロマン」とも言えることですが、可能性はかなり高いように思われます。
私は過去にいくつかの学会に所属したことがありましたが、「学会」は研究発表の場、懇親の場ですが、良くいえば、その「発表」は極めて「慎重、細部にこだわる」、マイナス面で考えれば極めて「保守的・閉鎖的・国内指向型」という傾向にあります。「間違いはご法度」の学者の世界ですから、大学での地位の保全のためも仕方ありませんが、しかしそうした「閉塞感」を打破しないと、大局観からみた世界的考古の進歩への「試み」、世界的な歴史的視野から迫る新らしく、柔軟な「試み」へのチャンスは望むべくもないのではないか、そう考える時があります。

メソポタミアのラピスラズリ製のシリンダー印章
今やヘブライやメソポタミアとの、古代から中世にかけての日本文化との近似性について、世界が「気付き」つつあるタイミングを考えると、これからはますます世界の古代文明と日本の縄文史・弥生史の接点の拡大、深化が大きな問題となる可能性があります。ということは、土器の制作は日本の「縄文土器」として世界最古ですし、それが拡散して、一つの大きな流れとして、例えば日本の東北地方→北海道→アリューシャン列島→アラスカ→アメリカ西部→南米エクアドル(パナマ運河の左下の国)のバルディビア遺跡出土にと土器類や土偶類の文化と技術が伝播し拡大します。極めて「縄文土器」と類似する発掘品が昔から指摘されてきました。いわゆる「環太平洋縄文文化圏」を形成しているという試論です。その「流れ」はもしかしたらさらに南へ伝わり、日本人に人気の南米「インカ帝国」や「マチュピチュ」の文化に影響を与えているかもしれないのです。
今後外国からの指摘に際し、より柔軟に「必然」として対応できるか、あるいはこれまでがそうであるように「環太平洋文化圏(イースター島からタヒチ諸島、オーストラリア、ニューギニア諸島までを含む)」を単なる「偶然」の類似文化圏と処理してしまうか、世界最古の「縄文土器」発祥の地である日本の立ち位置、すなはち「指導力」が問われます。「必然」から考察できれば日本の誇りとなり、「偶然」と考えれば失望的な結果となります。私が経験した保守的な学者の常套句は、調べもせず「似ているのは『偶然』である」という、突き放す一言で、関与せずに片付けようとします。それは、きっと「当たり前、常識と考えた結果」なのでしょうが、理解に苦しみます。
縄文特有で素晴らしい「深鉢型土器」や土偶独自の表情、形の多くの類似性に「偶然」はありません。特に「火焔型土器」は素晴らしく、「国宝」どころか「世界の宝」となりつつあります。形の多少の変化やイレギュラーはあるでしょうが、どこかでつながり、発展して影響を与えているのです。「文化の伝播」とはそうしたものです。前向きにとらえる必要があります。
今回の縄文深鉢の最上部の破片に描かれたπ文様はきわめて注目に値します。私が知る限り、他の縄文土器にはない、この遺跡特有の文様と思います。
1974年(昭和49年)、山形県村山市北西部から縄文晩期中葉(放射性炭素年代測定にて約3000年前から2500年前)のものとされる、この文様を持った「土器」が出土しました。また同じ県内の小山崎遺跡 (こやまざきいせき)、鳥海山の南西麓に位置する富並地区の縄文時代遺跡では、縄文中期末から後期後葉期に、南斜面地に竪穴建物が営まれ始め、後期前葉には集落も形成されていたらしいこともわかってきたようです。
山形県の地理的特徴は大陸に開けた海岸を持つことです。大陸から来る人たちには単独峰である高い「鳥海山」を目印にして航海してきました。この鳥海山は「東北に連なる縄文文化圏」の入り口としての大きな目印になったことでしょう。

ウジャトの眼に似た不思議な文様を持つ縄文土器片
私は今回の「土器片」を入手して、初めて詳細に観察したとき、これはエジプトの「ウジャトの眼」ではないかと思いつきました。なぜこのような重要な文様が縄文土器の文様として描かれたのか?私の持つファイアンス製の護符に描かれた「ウジャトの眼」、特に「眼」の形と円周率 π の形が共存する独特な文様は極めてよく似ています。

矢印の「眼」のような斜線部分は見て分かるように、時代の古さから、剥離している。


ウジャトの眼の上部に刻されたπ文様
「ウジャトの眼」は、古代エジプト全土において古王国時代(紀元前2700年頃)から、エジプト最後の王朝、プトレマイオス朝(紀元前30年)まで、エジプト文明の最盛期以後、2000年以上にわたり護符として広く用いられました。今回の縄文土器の製作年代は、BC1000年からBC500年頃ですから、エジプトは新王国の時代から衰退期に入る時代で、第21王朝から第27王朝の時代でした。女王クレオパトラでエジプトは最後を迎えますが、その少し前の時代です。この「ウジャトの眼」が製作された時期もほぼ同時期と考えられます。
ウジャトの眼について
古代エジプト全史(特に中間期や末期王朝に人気)にわたり、需要があったようです。
ホルス神のセト神との戦いで傷ついた左眼を、トト神が癒したという神話に基づきます。

ウジャトの眼の下部の渦巻き文様

縄文土器(同じ遺跡出土)の渦巻き文様
破片の傾斜、丸みから見て、深鉢土器側面の「縦形渦文様」と判断できる
今回の護符的ネックレスの一部はファイアンス(錫釉陶器)製で、上部に横に細い糸通しの穴が穿たれています。貴石、ガラス、金属などに類品が見られます。その後、流行に従い、大量生産されて「ファイアンス(淡緑の釉薬の陶器)」製へと変化しました。
愛好された目的の一つは護符として王やその一族の守護、健康、治癒をもたらす幸運の護符として身につけたものと考えられます。 ツタンカーメン王(紀元前14世紀)の護符の胸飾りにも見られるように、古代エジプト文明を代表するシンボルなのです。
以下、次回に続く
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