蘭には、春に咲く「春蘭」と秋に咲く「秋蘭」とがあります。春蘭は一茎に一花が咲き、秋蘭は一茎に数花が咲くものを指します。
[図版]
『生花早満奈飛』(4編)
弘化2年(1845)
その蘭は「
往昔唐山より
渡し」と古書に記されており、往時中国から渡来したと伝えられ、『万葉集』には、歌には詠まれてなく、歌の序文の中に登場を見ます。
大宰府の梅花の宴で、
大弐紀は、
(梅は鏡の前の
白粉のように白く開き、蘭は匂い袋のように香っている)と詠じられ、ここでの「珮」とは、中国で君子たちが印章や香袋を
懸けるための帯(ベルト)のことで、その君子を表わす植物の中から梅と蘭が挙げられ、君子の貴さを高めております。
次に、
大伴池主が大伴
家持に贈る歌の序文に、
(あっさりとした君子の交わりは、席を近づけただけで心は通い、何の言葉も無用であり、その
幽い心は賞賛すべきものであるが、しかし最近はその友との交遊の機会を得ることはなく、まるで草むらで隔たれる蘭と蕙の如くであり、音曲や酒の席で交り合う楽さが出来ないことがことのほかに辛いものだ)と、心の歎きを切々と詠じております。
この「蘭蕙」について古書には、「蘭」は春蘭を「蕙」は秋蘭を指し、さらに「
相似るが花の咲き方と香りが異なる」と記されており、中国で蘭蕙は「
蘭客」とも呼称され、その姿や香りなどから、「学問の友・親交の深い友」を表わす象徴としての寓意が秘められているのです。
この蘭の交わりの美学は、絵画での蘭を描くときにも、葉と葉を交差させて描くことが必須とされております。とりわけ文人志向の絵画で、机上に
挿けられた蘭の交わりの軽妙さに心打たれます。
このことは、いけばなの古書からも拾い出すことが出来ます。その花の右に振り出した中程の葉組みと、左上部に立ち上った葉組みと互いに、葉と葉を交わらせていけ表し、その交わりの空間の真中に点を心眼で見立てて「
鳳眼」と称するのです。即ち、吉鳥である鳳凰が来鳥し、吉称の兆を意するものなのです。図版を参照してください。
この秋、和物の秋蘭はなかなかありませんが、洋蘭の葉の交わりを挿けて観し、友との交わりの深さを体感してみて下さい。