初夏の季、野や畦や川辺に大きく撓む葉脇より、百合に似た萱草の花を見かけることができます。
[図版Ⅰ]「千筋之麓」
明和5年(1768)
[図版Ⅱ]
「四季乃詠」
江戸後期頃
この萱草には、一重咲きの野萱草(黄花)と八重咲きの薮萱草(橙花)があり、「
忘れ草」の名でも親しまれ、『万葉集』では薮萱草を指します。その忘れ草を
大伴旅人は、
(忘れ草をわたしの下紐につける、香具山のある
古の都を忘れたいがために)と、九州の大宰府に卦任し、奈良の都のことが思い出されてならないことから、その思いを忘れんがために詠じたのです。
そもそも萱草を忘れ草と呼ぶのは、古代中国の漢詩文に「
諼草は人の
憂いを忘れる
令り」とあり、諼は忘れる意味から「
忘憂草」と名付けられ、憂いを忘れたい人は、この花に願いを託したのです。
その中でもとりわけ懐妊の婦人は、庭に萱草の花が咲く、北東の北堂と呼ばれる居室に移り棲み、その萱草の葉を腰紐として
佩することによって陣痛を忘れさせたとされております。この意から別に「
北堂草」とも呼称されておりました。
そして、さらに萱草の若葉に合わせて
石榴の実を食すると、素晴らしい男子に恵まれることから、今日でもこの二種を取り合わせて「
宜男多子」と銘し、言祝花としていけ伝えられております。
次の歌で旅人の子である大伴
家持は、
(忘れ草を下着の紐に着けてみたが、名ばかりのもので、
醜々しい草であることよ)と、恋する
坂上大媛のことを忘れんがために、腰紐として佩したのだが、いっこうに忘れることが出来なく、かえって
慕いがつのるばかりとなり、忘憂草としての効果が出てこないことへの
苛立ちが「醜の醜草」との
罵声歌となったのです。
そんな忘れ草を、いけばな古書から拾い出すことが出来、何れも野萱草ですが、[図版Ⅰ]では一節切りの竹花入れに、[図版Ⅱ]では、亀に菊水文の漆器桶に美しく水際立つ花としていけられております。参照して下さい。
どうかこの夏の季に憂いを忘れたい人は、是非この花を観し、一葉を手折って佩として、忘憂を成就させてみて下さい。そして、来年の早春には、その若葉を摘み、酢味噌あえにして食してみて下さい。