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万葉植物から伝統文化を学ぶ

万葉いけばな研究家
庄司 信洲

笹の理美


図版[I]

 新春の季を迎えて、冷い風にさやさやと音をたてながら揺らぐ笹の葉の姿を、自然の小径こみちや庭などで観することができます。
 笹は、竹にくらべて小振りでしなやかなのものを「しの」と呼ばれ、笹の場合は、その篠より小さなものを指し、植物学的には「東笹あづまざさ粽笹ちまきざさ阿亀笹おかめざさ根笹ねざさ」それに白色の斑入ふいりのものに「都笹みやこざさ隈笹くまざさ」と黄色の斑入の「禿笹かむろざさ」などが著されてます。
 そのうちの隈笹を、江戸時代の『本草図譜』に描かれた絵図を、図版[I]で参照して見て下さい。
 『万葉集』においても、「竹」と「篠」と「笹」を詠み取ることができ、笹の歌では「小竹、佐左」の字が当てられ、その一首目の歌として、柿本人麻呂は、
小竹<ささ>の葉はみ山も清<さや>に乱<さやげ>ども我<われ>は妹<いも>思ふ別れ来<き>ぬれば
(笹の葉は、山全体がさやさやと風にそよいでいるが、わたしは妻を思いながら別れてきたのだ)と歌い、この歌の前書きとして「柿本朝臣人麻呂が硯国いはみのくに(島根県西部)から妻と別れて上京して来る時の歌二首と短歌」と記されており、妻の心の清らかさを、笹の葉が風でさやさやとなびき揺れる清姿に比喩させて切々と詠じられております。
 そして、次の歌では、霜、露に撓む笹の姿を捉えてのもとして、
馬来田<うまぐた>の嶺<ね>ろの佐左葉の露霜の濡<ぬ>れて我来<わき>なば汝<な>は恋<こ>かばそも(作者未詳)
(馬来田の峰の笹の葉に置く露霜に濡れて、お前の所へ逢いに来たなら恋しがることだろう)と歌い、露霜に濡れてわむ笹葉の如く、しっとりと濡れた恋心を、笹葉の姿に比喩させて詠ぜられており、「馬来田」は千葉県の中央部を指します。
 そしてさらに、次の歌では、雪でうもれる笹葉の姿を捉えてのものとして、「雪と寄する」と題し、
小竹の葉にはだれ降<ふ>り覆<おほ>ひ消<け>なばかも忘れたと言<い>へばまして思<おも>ほゆ(作者未詳)
(笹の葉に薄雪が降りつもり、その雪のように消えでもしたら忘れるでしょうかと言うので、なおいとしく思うことです)と、笹の葉をいとおしい人に見立て、その笹葉が雪に埋もれてしまうことになっても、"私は命のある限り忘れることはない"と詠ぜられております。


図版[II]
 こうした霜・露・雪・風でたわむ自然の摂理せつりによる風姿から、室町時代の芸能や華道において、「風清かぜきよ露持つゆもち」といった名が付され、芸能に奥深さをただよわせるのです。
 その風姿を意し、雪をいただき撓む隈笹に、赤い実をけたやまたちばなやぶ柑子こうじ)を出合せて、実綿を雪に見立て、花弁形の万古焼の花器に挿け表わした作品[II]を参照して見て下さい。
 どうかこの冬季、笹の葉の靡き撓む風姿を観し、自然の摂理の妙美をじっくりと感じとって見て下さい。

万葉植物から伝統文化を学ぶ
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