文化講座
第72回 戦国の実戦城・「高天神城」(掛川市)を歩く

高天神城本丸から、のろし台(中央の小さな小山)を望む
わたしは小学校四年生のときに、父に連れられてみた黒沢明監督の映画「蜘蛛巣城」が忘れられない。この映画はシェークスピアの「マクベス」をベースに、日本の室町時代という戦国乱世を舞台に悲劇を描いた、素晴らしい映画である。
イギリスロイヤルシアターこけら落としに上映されるという栄誉にあずかりました
特に子供のわたしにはストーリーも良かったが、映像が美しかった。映画に使われた、甲冑の美や根来瓶子(黒沢監督は自己の所有する高価な古美術品の本物を映画で使った)の美しさに感銘を受けた。能を取り入れた、黒沢監督らしい試みがなされ、後に世界的に高い評価を得て、ベネチア国際映画祭で「金獅子賞」他を受賞した。
わたしは後に武具甲冑や刀剣鑑定を学ぶようになり、日本の「古美術品鑑定」が仕事になったのは、この映画に影響を受けたからであったと考えている。そんなわたしはまた、古城が好きになり、昆虫採集に行った「石神井城跡」から始まり、さまざまな古城を観てきた。そうした城の中で一番印象深いのが、掛川市にある「高天神城」である。
わたしは権威目的に造られた美しい城とか、大きな城には興味がない。高天神城のように、武田と徳川の力と力がせめぎ合う境界線にある高天神城のように、支配権がリアルに交互に移り変わる城に興味が行ってしまう。

「蜘蛛巣城」のポスター
高天神城では、城への階段などが観光客のために整備されているが、この実戦的な「高天神城」を本当に味わうには、そうした「楽な」道を避けて、かつては難攻不落とされた、複雑な攻防戦にふさわしい姿が残る城道を歩くべきだと思う。
本丸跡に行くにも大変にきつい道ではあるが、戦いのときは、攻める側は重い甲冑を身に付け、刀槍、弓を持って攻め上がったのであり、お互いに「消耗戦」であったのが実状であったろう。
高天神城のように勢力が拮抗する重要拠点での攻防は、国主の力量が問われると共に、部下からの信望・信頼が力に変わる戦いでもあったといえる。「士は己を識る者のために死す」、これは昔の武士というのは、自分を理解、評価してくれる上司のためなら、死を厭わない、命を懸けて奉公するという意味である。逆に、自分を評価、重視しない上司は見捨てるし、あまり酷いと謀反もあり得るという意味である。戦国主従は恩賞と忠誠心という、極めてリアルな固い絆の結束で繋がっていたのである。

高天神城の案内掲示板
今と違い近代兵器の無い時代では、鉄砲が最先端武器である。お互いに城壁の上と下から撃ち合い、攻め込めば鉄砲の弾丸や石、矢が飛んできて、初戦は攻め方はひとたまりもなかっただろう。これをいかに繰り返しながら、相手の戦力を削ぎ落せるかは、攻方の兵員の多寡が物を言う。
この城を有名にした「高天神城の戦」(たかてんじんじょうのたたかい)とは、1574年(天正2年)と1581年(天正9年)に武田勝頼と徳川家康の間で行われた、現在の静岡県掛川市にあたる遠江国・高天神城における2度の攻防戦である。この場所に着目して欲しい。まさに駿河と三河、甲斐の勢力がぶつかり合う地点である。

高天神城本丸跡
「長篠の戦い」の前哨戦に当たる戦いは、1574年に武田勝頼が高天神城を奪った戦いに始まる。ただ、この奪還の意味は、1575年に長篠の戦いで勝頼が大敗した後の1581年に家康が再度奪い返すところまで見ると、いっそう鮮明になる。
高天神城では、「援軍を待つ城兵」と「救援できるかを問われる大名」の立場が、武田方と徳川方で逆転した。軍事力に加えて、領主への信頼が問われた戦いでもあった。日付は当時の旧暦で記し、年と主な出来事・戦局上の意味を記した。
1574年・天正2年
甲斐の武田勝頼が高天神城を攻略、徳川方の重要拠点が武田方へ移った。
1575年・天正3年
長篠・設楽原で勝頼が敗北。徳川方が反攻へ転じる。
1578年・天正6年以降
家康が横須賀城などを拠点に高天神城包囲網を強化、高天神城の補給を圧迫した。
1581年・天正9年
高天神城が落城。勝頼の求心力に大きな打撃となった。
※この経過は、掛川市の史料年表と公開講演資料で確認できる。

高天神城内
●なぜ、この城が重要だったのか
高天神城は、現在の静岡県掛川市南部、標高132メートルの山上に築かれた城である。急峻な地形と谷を利用した山城で、もとは今川氏の支城であり、今川の衰退から、徳川氏に帰属し、西へ進む武田氏と対峙する最前線基地となった。
また、城だけを見ては、その役割を十分につかめない。周辺の海岸・入江と補給路を合わせて見る必要がある。家康がのちに馬伏塚(まむしづか)城から横須賀城へ攻略拠点を移していったのも、兵員・物資を送り続けるためであった。堅城を攻める側にも、守る側にも、長期戦を支える経済力、すなはち戦力補充と食糧補給路の確保が互いの「命綱」であった。
1574年に勝頼が攻め、信長の救援が間に合わなかった。
信玄の死後、武田家を継いだ勝頼は、1574年5月に重要な高天神城を包囲した。守るのは徳川方の小笠原氏助であった。
攻撃は段階的に進み、1574年5月28日には、武田軍が主要な曲輪(くるわ)の塀際まで迫り、6月10日には、堂の尾曲輪が陥落し、6月17日には城主が降伏し、開城した。

重要な井戸跡
これらは勝頼の書状などをもとに、掛川市の年表に整理されています。したがって、勝頼がただ城を囲んで待っただけではなく、城の防御区画を順に奪っていったことが理解できる。
小笠原氏助は武田軍襲来と同時に、当然、徳川家に救援を求めた。しかし、信州から南下する可能性がある武田の別働軍にも備えねばならなかった上に、そもそも徳川家の総兵力は1万名程度に過ぎなかった。家康は織田信長に救援を要請した。
信長は5月5日から京の賀茂祭に出席していたが、5月16日に京都を出立し、5月28日に本拠地の岐阜に帰還した。
この間に高天神城は、武田軍による攻撃で西の丸が落とされ、兵糧が不足して落城の危機に陥っていた。
信長は家康から救援を求められ出陣した。『信長公記』に基づく日付では、信長の岐阜出発が6月14日、三河の吉田城到着が17日、信長が吉田城まで来たその日に、高天神城は降伏開城していた。
一般にいわれるように、ここで「信長は救援に動かなかった」という説明は正確ではなく、救援が間に合わなかったということである。ただわたしは、あまり信長には急ぐ様子がなく、敢えて遅らせた気配を感じている。
6月14日、信長の援軍が岐阜を出陣し、17日に三河の吉田城に到着し、6月19日、援軍として向かっていた織田信長の元に徳川軍の高天神城の陥落の報が入り、浜松から徳川家康がやってきて礼を述べた。織田信長は家康に兵糧代として黄金を贈った。2人がかりでようやく持ち上げられる程の量の黄金を詰めた革の袋を2個分、馬に載せて贈ったと伝わる。こうした「用意周到」さから、わたしは信長が戦いに積極的ではない、と見る。
この敗北は、家康の側から見ると厳しいものがある。城を守る者にとって、籠城を続ける根拠は「主君家康が救いに来てくれる」という信頼、期待にある。であるから、その期待を実現できず、重要な城と家臣を失うことは、家康には痛手であったと思う。信長はこうしたことを、予測していたであろう。信長は高天神城の戦いの困難さから、自軍の戦力消耗を抑え、温存を図ったのではないか、とわたしは考えている。
ではこの甲斐側の高天神城勝利は、翌年の長篠の戦いとどう関連し合うであろうか。

長篠合戦絵巻
1575年には、勝頼が三河の長篠城を攻め、「長篠の戦」に発展し、織田・徳川連合軍との一大決戦に大敗した。世にいう「鉄砲」の大勝利である。高天神城とは別の場所での作戦であるが、前年に勝頼が高天神城を奪い返すという流れがあった。勝頼としては、この期に一挙に勢力拡大を狙ったのか、それは決められないが、有利と感じたかもしれない。
高天神城での勝利が直接、勝頼を長篠での決戦へ走らせたとまでは資料的に断定できないが、勝頼には、信玄を継いだ一大国主としてのプライドと更なる地盤確保の思いはあっただろう。
「長篠の戦」後に出た、多数の城砦を配置した持久戦に出た訳である。
砦には城の監視だけでなく、勝頼の援軍を迎え撃ち、物資の搬入を阻むと共に徳川軍自身の補給を維持する役割もあった。
城を守る岡部元信らは勝頼に救援を求めた。しかし、勝頼の実情は、長篠の敗戦後、北条氏との対立にも兵力を割かれ、救援・補給が困難になりつつあった。平山優氏の公開講演資料では、勝頼が信長との和睦によって城兵を救おうとした可能性も指摘されている。単に「勝頼が無情に見捨てた」とするのではなく、主要な戦力を長篠の戦で失った甲斐側の事情もあったろう。
最終的に勝頼の援軍は来なかった。城方は家康に降伏を打診したが、信長は家康に降伏を受け入れないよう勧告し、家康もそれに従った。兵糧の尽きた城兵は、1581年3月22日に打って出るしかないところに追い詰められ、岡部元信をはじめ、600名以上の多数が夜戦の結果、戦死し、落城した。

高天神城・三の丸跡
ここには、信長の厳しい政治判断があると考えられる。この結果、城を明け渡すだけでなく、武田に忠節を尽くした城兵の命を勝頼が救えなかった現実が、武田内部にも広く知られる結果となり、勝頼に対する諸将の「信頼」を失ったことは大きい。信長の「高等戦術」による高天神城の喪失は、焦る勝頼主従の間に大きな亀裂を生じさせることとなり、翌1582年の武田氏滅亡へ急速に向かう重大な契機となったのである。
一族、家臣の裏切りの中、勝頼の最後は哀れであった。わたしは歴史好きな父の希望もあり、もう55年前になるが、車で勝頼最期の天目山・景徳院の自害地を共に訪ねたことがあった。
織田・徳川に追われ、車でも厳しい急峻な天目山山奥に向かい、疲労困憊と無念さの中に自害したであろう勝頼夫妻と従者の心中を思い、名門武田家の滅亡を哀れに思った。
ここに「高天神城」は、存在意味がなくなり、廃城となった。

観光用石段

