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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第65回 大阪/住吉大社を歩く 北条政子と頼朝の関係を再度考える


住吉大社神橋と社殿

 かつて、大阪市内から阪堺線の旧式の路面電車「チンチン電車・型番モ351」が姿を消すとの話を聞き、記念に天王寺から堺まで往復乗りまして、途中住吉大社を背景に撮影したい想いから下車した記憶がよみがえりました。


阪堺線チンチン電車と住吉大社正面

 私は東京に生まれて長く住み、豊島区雑司ヶ谷に本家があったことから、よく両親と池袋から雑司ヶ谷まで、チンチン電車に乗りましたが、その時の楽しみは運転手さんの横に陣取り、運転の様子を見守ることでした。懐かしい思い出です。最近ではバスと地下鉄に押され、廃止の運命にさらされていますが、「昭和時代」のノスタルジアはなかなか良いです。

 住吉大社は日本でも最古級の神社で、社伝によると第14代仲哀天皇の后の神功皇后(じんぐうこうごう・169年?~269年?)創建と伝わります。皇后は三韓遠征、新羅遠征との関係が深い伝説上の人物とされますが、この時期以降、日本が後に朝鮮半島及び一部を含めた大陸を支配したという説も「仮説」として出てきており、そうしたことも神功皇后伝説や好太王碑などが下地をなしているかもしれません。子(応神天皇)を宿したまま遠征をして、産んだ後で凱旋したという言い伝えがあります。そうしたことから「安産」の神様とされるようになったとされます。吉が住む神社という名前も「縁起」が良いということから、昔から信仰心篤い方々がお参りされてきました。

 古くは「遣唐使船」がこの住吉大社の「大海神」に旅の安全を祈念して航海に出たそうです。さらにもっと古い、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣したとされる「遣隋使」もここから出発した可能性が高いと考えます。


住吉大社大海神社

 住吉大社は「謎」とされる三世紀の創建とされます。ワダツミの神、すなはち日本は海に囲まれた東洋の国ですから、シルクロードに代表される文明の道により、オリエントの神話上の神々が多く古くから伝わりました。法隆寺に伝来しております国宝「四天王像」などは、ストレートにギリシャ様式が反映されています。その一つが今回の「海神」とされます「大海神社」で、ローマ神話のネプチューン、ギリシャ神話のポセイドンの考え方です。住吉大社はかつて海に面していたようで、神社正門の大鳥居の左横に「遣唐使記念碑」があります。そこには海に隣接した住吉大社が描かれています。瀬戸内海の守護神、大山祇神社と同じですね。航海の安全を祈る神になりました。


住吉大社(右上)から唐に向け出発する四隻の「遣唐使船」

 写真では、朱色の太鼓橋は太宰府天満宮と同じようにみえます。建物は出雲大社の様式に似てました。住吉「大社」の名に共通項があります。楠の樹の大木も多く、社殿の古さが伺えます。


住吉大社社殿とたくさんのおみくじ

 今回は「旅連載」の取材でしたから、内部を隅々まで拝見、撮影しましたので、他の神社には見られない新しい発見をしました。「誕生石」という場所があり、古い楠木の根元に、中型の石がころがっており、何の誕生かと詳しく調べると、なんと「島津家初代・島津忠久(1179~1227年)」の誕生地でした。住吉大社の境内で生まれたことを、私は初めて知りました。そこから興味深いことが思い浮かびました。


島津忠久誕生の地「誕生石」(住吉大社の神橋渡り左へ50m)

 私は「鎌倉時代から南北朝」の歴史を考えるとき、殺戮の歴史、暗殺、血塗られた歴史ばかりで読んでいて暗澹たる気持ちになり、いやになる時があります。

 鎌倉幕府の御用史書「吾妻鏡」は常に曖昧な記述が多く、幕府を擁護しているように思いますから、私はあまり信用してません。この本に書いてあることと逆に推論する方が面白いし、歴史が人間らしく思われることが多いのです。歴史、特に鎌倉時代は「綺麗事」の歴史ではありません。

 島津家初代の島津忠久はいうまでもなく、薩摩島津家の初代であり、彼の推定できる父は惟宗広言で、母は鎌倉幕府創設時の源氏の功臣、頼朝(1147年~1199年)の乳母であった「比企の尼」の一族比企氏出身の「丹後局」とされ、その影響力は「頼朝の育ての親」であり、頼朝の父の源義朝時代からの関係が強固であったように思われます。さらに比企氏は二代将軍、源頼家(1182~1204年)の側室、若狭局として嫡男「一幡」を生みますが、頼朝の妻、北条政子とその父の時政は、頼朝の死後、娘の政子と共に権力中枢を陰謀、暗殺により排除して、独裁権力を確立してゆきます。


住吉大社の古楠の木

 昔から、島津忠久の父は源頼朝という説が強く、私は今回の「住吉大社」で丹後局が忠久を生んだのは不自然であり、政子に追われていたとすれば、つじつまが合います。ですから、そのように確信するようになりましたが、その「確信」がこの住吉大社の「誕生石」により、より明確になりました。

 1179年島津忠久誕生、仮に頼朝が父なら、32歳の時の子となり、有力と考えられます。頼朝が政子と同じ頃に丹後局を愛したなら、政子の「怒り」も理解できます。ちなみに頼朝が政子と結ばれたのは1177年頃の伊豆山中のことと思われます。その少し後に比企氏の娘、丹後局と頼朝は結ばれた可能性は高いのです。ですからほぼ同時期に二人を愛した、頼朝は成り行きをみますと、政子より丹後局を愛したと推測されますから、なおさら政子に嫉妬され、頼朝を奪った、幕府の主を奪った女として、将来比企一族までも滅亡させるほど憎むことになったと考えられます。

 北条氏と政子は、1200年2代頼家の側近、頼朝の功臣にして謀臣・梶原景時を排除、さらに忠義の臣である比企一族を謀殺、頼家を暗殺したと考えます。かつて頼朝を想う政子は、雨降る山を越えて頼朝に逢いに行ったという、一途な激情家であることを考えると、自分を裏切った頼朝と丹後局を許せなかったであろうし、頼朝と自分の間の子、頼家や実朝さえ憎く思った可能性があるように思われます。


住吉大社の招福猫信仰

 これら北条氏と鎌倉の源氏と御家人の間の権力闘争の背後に北条政子がいたことは否めませんし、否めないどころか彼女が主導して父時政と幕府乗っ取りを企んだ可能性の方が高いように私は考えます。事実幕府は源氏の血筋は絶えて、北条に変わります。

 関連年表を作成すると、以下のようになります。

1147年 頼朝誕生
1157年 北条政子生まれる
1159年 平清盛に敗れ(平治の乱)た義朝と別れた頼朝は、伊豆に流され、義朝の有力家臣の比企一族に助けられた。この辺りから、頼朝と比企氏は強固なつながりを持つようになる。
1177年 北条政子、雨の山越えをして、頼朝と合瀬を重ね、結婚した。
1179年 比企氏の娘、美人の誉れ高い丹後局と頼朝の間に島津忠久が住吉大社で生まれる。丹後局は政子の追っ手に命を狙われる。
1182年 頼家生まれる
1185年 鎌倉幕府成立、同年に頼朝は6歳の島津忠久に所領として、薩摩、大隅、日向を与えた。これはまったくの「特別待遇」であり、父であることの証拠といえよう。
1199年 頼朝の死(謎の不審死・私は吾妻鏡に書かれた落馬死説は認め難い)
1203年 北条氏と政子は、頼朝育ての親である比企氏を滅亡させる。政子の復讐か。
1204年 比企氏の側室との間に一幡を生んだ頼家、伊豆にて暗殺される
1213年 和田合戦により有力御家人和田氏滅ぶ
1225年 北条政子死


参詣人でにぎわう奥社

 丹後局の墓は鹿児島にあります。忠久の妻は、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の娘であり、周りはすべて鎌倉幕府の中枢を担う要人たちです。比企氏の丹後局が生んだ初代島津忠久の本当の父は誰か?とは昔から諸説あり、天下の浮気者、初代鎌倉幕府将軍頼朝ではないかといわれます。その根拠は天下の美女、丹後局を頼朝は最初から最後まで慈しみ、面倒を見ていたといわれますから、愛していたことは確かで、途中、政子に割り込まれますが、思惑としては、軍事面から北条氏の支援が必要な頼朝はやむ無く政子を正妻にしました。しかし、政子は情熱的な女性であるだけに嫉妬心が強く、当時から頼朝の乳母を務め、生活面を支えた比企氏との関係から考えても問題のある女性でした。嫉妬心も強い上、頼朝との間の子、島津忠久が誕生したことから頼朝の浮気がまさに分かり、相手が功臣比企氏の娘、天下の美人の誉れ高い丹後局であることからライバル視して、北条氏の家臣を使い彼女を闇殺して闇に葬ろうと画策したと推測できますが、比企氏の助けもあり、身重の体でそれを逃れて何とか住吉大社にたどり着き、隠れて忠久を1179年に産んだと考えられます。その後、丹後局はさらに逃げたようです。最後は鹿児島に流れ着いて、そこで亡くなったか、それ以前に他所で亡くなり、後に息子である島津の所領の鹿児島に墓が移転されたかは判然としません。

 いろいろ考えますと、忠久は頼朝の子の可能性は高いように思われますし、島津家でも頼朝の血を引いていると伝えています。比企氏が粛清滅亡させられたのも、大きくは北条氏の政治的な意向と見られますが、詮索すれば、あるいは夫を奪われた政子の嫉妬心、執念深い復讐心からの仕業かもしれません。

 旅をしてますと、こうした偶然の発見がありますから、現地を歩くことは極めて大切です。新たな問題点を仕入れれば、興味はまた無限に枝葉を広げてくれます。


洋食「やろく」のにぎわい。

 この住吉大社の辺りには、正面からの向かい右側に古くからの超レトロな鰻店「いづもや」やその裏に創業90年という洋食「やろく」があります。将棋の升田幸三名人や作家の藤沢恒夫などがしばしば好んで訪れたという家庭的な洋食レストランです。また近くには雰囲気の良い珈琲館ISHIIがありますから、食事、珈琲も楽しんできてください。

※こちらをクリックされますと、同じ著者による「掌の骨董」にアクセスできます。併せてお楽しみください。


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