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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第23回 京都嵯峨野・天龍寺の和花たち


天龍寺の酔芙蓉

 こんにちは。

 今回は京都最大の景勝地として有名すぎます名勝嵐山や渡月橋とともに、和花でも有名な天龍寺と、禅林としての竹林で有名な嵯峨野の山裾に広がる竹林を歩いてみましょう。


天龍寺伽藍遠望

 天龍寺は平安時代に、橘奈良麻呂の孫であり、嵯峨天皇の皇后で空海の支援者としても有名な橘嘉智子(たちばなのかちこ)が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ場所でした。


禅のイメージの広がる嵯峨野天龍寺奥の竹林

 その後足利尊氏を開基として、夢窓疎石(鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人(1275年から 1351年))により後醍醐天皇の菩提を弔うために暦応2年(1339年)に創建されました。疎石は世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。


素晴らしい天龍寺庭園

 広大な敷地と伽藍の造営は膨大な経費を必要とし、足利尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しましたが、なお造営費用には足りず、足利直義は疎石と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画しました。これが「天龍寺船」の始まりといわれています。

 その後天龍寺は五山の第一位となり、この位置づけは以後長く続いたとされます。

 こうした天龍寺の輝かしい歴史を探求しますと、それだけで紙面が足りなくなります。ご興味がわきましたら、各自調べてみてください。

 今回私は秋の和花を求めて、この名刹を歩いてみたいと思います。


美しい酔芙蓉

 芙蓉は清楚で美しく、酔芙蓉はさらにはかなく可憐な花といわれ、タイミングよく満開でした。花言葉としては「しとやかな恋人」や「繊細な美」は、蓮に似た雰囲気は、花の美しい見た目からきているのでしょう。 わたしは高校時代に読んだドイツの詩人ハイネの「蓮の花」から、月は蓮の恋人のイメージが強く、日本的な「月のしとやかな恋人」がまさに酔芙蓉のように思われるのです。


蓮の花(藤原京跡)

 さらにこの天龍寺でかわいいのは「小紫式部」の可憐な花でした。


小紫式部の花

 私は紫式部は何回か見たことがありますが、この「小紫式部」は初めてでした。小さな紫の粒々が可憐で、魅力的でした。言うまでもなく、紫色は平安時代から最も高貴な色彩で「源氏物語」を書いた紫式部から名付けられた、可憐で、高貴な花といえます。


大庭園の片隅に咲く彼岸花

 それから最後に私の好きな赤色の強い、少し強烈な色彩の彼岸花、この花について、よい機会ですから、調べて見ました。赤いおどろおどろしい、あの世に咲く花のイメージの「彼岸花」ですが、花そのものは非常に繊細な放射状曲線で構成された美しい花で、またの名を「曼珠沙華」といいます。サンスクリット語 manjusaka の音写であり、釈迦により説かれた「法華経序品」では曼珠沙華は天上の花という意味もあるようです。

 別の説では、曼珠沙華の球根は食用ではありますが、解毒処理をした後でないと、食べた後は「彼岸(死)」しかない、ということから付いた名前との説もあるようです。

 学名の属名 Lycoris(リコリス)は、ギリシャ神話の女神・海の精であるネレイドの1人であるリュコーリアス(Lycorias)からとられ、種小名 radiata (ラジアータ)は「放射状」の意味があるようです。

 そうしたサンスクリット語の名前の由来から感じることは、彼岸花(曼珠沙華)は外国のイメージが強く、現在は中国とされます原産地は、実は更に遠くインドからオリエントにその源がありそうです。


奈良に咲く日の出の曼珠沙華(九品寺近く)

 彼岸花は令和4年9月17日の段階ではありますが、咲き始めです。萩もたくさん咲いてます。是非各地のお寺やお庭で、そしてできれば京都嵯峨野・天龍寺で楽しんでください。

◯写真はすべて筆者撮影のものです。

※こちらをクリックしますと同じ著者によります「掌の骨董」にリンクできます。


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