文化講座
第42回 福岡・志賀島「金印」について
志賀島
国宝「金印」コピー
今回は、弥生時代後期という、少し古い時代を旅してみたいと考えてます。3月末に九州の歴史を楽しみながら歩きましたが、その時に志賀島に足を伸ばし、かねてからの自分の中の問題「金印の真贋」について、改めて考えてみたいと思い、イメージを膨らませるために金印の発見現地を見学し、さらに現在金印を所蔵する「福岡市立博物館」を訪れ、本品を拝見し、コピーを購入してきました。
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)といわれる有名な金の印鑑です。
金印を所蔵する福岡市立博物館のエントランス
この「金印」は、江戸時代の天明4年1784年に志賀島の畑作業中の農夫により、大きな石の下から発見され、昔から話題が多く歴史学においても大きな問題、課題を抱えてきました。多くの学者、歴史作家たちが問題提起したり、持論を展開してますが、いまだに結論に至りません。(金印発見場所と年月日: 筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、天明4年1784年4月12日発見とする説あり)となります。
志賀島金印公園
案内図
とりわけ興味を引くのは、天明4年、1784年4月12日の発見以来、この「金印」が本物・贋作に分かれ論争されて来たことです。そこには双方に様々な思惑、利害がからみ、仮に本物だとしたら、邪馬台国は九州にあり、その場所は北部で、近年発掘が進む大規模な吉野ヶ里遺跡か大宰府近辺、宇佐神宮あたりが有力となり、現実味を帯びて考えられてきます。邪馬台国九州説を唱える人たちには本物であって欲しい金印ですが、しかしまた反対に奈良県大和巻向(まきむく)遺跡が邪馬台国であり、最古級前方後円墳である「箸墓古墳」が卑弥呼の墓と考える人々には金印が志賀島から発見され、更にその金印が「本物」となりますと、邪馬台国近畿説は崩れ去る可能性が強くなりますから、近畿説を唱える方々には、きわめて具合が悪くなります。従いまして、この「金印」の真贋問題は近畿説、九州説の双方にとって、かねてから極めて重要な問題であり、お互いに問題点を列挙し合い論争してますが、共に譲らずなかなか決着できないところに来ています。戦前は卑弥呼と「古事記」「日本書紀」が伝える天皇制の権威にも関係して来る問題でもありました。
発見場所
戦後は個別の学者の考え方は個人の言論と思想、発表の自由により守られています。国として考える方向は「国宝」に指定したことにより明白ではないでしょうか。
私自身が考えるには、この「金印」には諸説あり、専門的で、あまりにも難解すぎてこれまで取り上げたことはありませんでしたが、最近はいくつかの点で「本物」であると考えるようになりました。
金印公園から玄海灘を見る 青い矢印あたりが発見場所といわれる。
ここにその私なりの見解を箇条書きにして、論じてみたいと思います。
1 専門的なことは各自のお勉強にお任せするとして、金印の書体独自の持つ雰囲気、美しさ、特に「漢」を大きな字体で長体に表現していて、各画末が気持ち広がり、字に品格と威厳があり、重厚感があること。
金印の文字
2 紐(ちゅう・ひもを通す穴を持つ、つまみ)の蛇紋か稚龍と思われる頭の表現、とても古代漢帝国文化の知識のない当時の日本人には想像もつかないデザインであること。
3 その紐に小さな丸紋を打ち、蛇か稚龍を表現して「美術的」であること。
4 独自の印の大きさが漢帝国時代の公式な印、一寸(2.23センチ)の大きさに合致していること。そのような詳細を知る人は当時いなかったこと。
5 私が「金印本物説」を唱える最も大きな理由として、かりに贋作を作るとしたら、高純度の金を手に入れなければなりませんが、産地は幕府直轄地として厳重管理され、金の手っ取り早い入手方法は当時の小判を溶かすしかありません。「志賀島金印」の金含有率の高さは95.1%であり、ほぼ純金といえる純度にあります。この時代手に入る日本の金貨、すなはち小判は不純物が多く、溶かして贋作を作るにしても、「金印」のようにほぼ純金の精度を作り出すことは不可能に近いことがあげられます。仮に「金印」の発見された当時の金貨、文政小判のおおよその金含有率56%から「金印」の金含有率である95.1%に引き上げるには、国家的な精練設備を備えた造幣施設、京都・江戸・佐渡・甲府の「金座」を総動員してしか製作できず、これは幕府の造幣組織を動かして一つの「金印」の贋作作りになりますから、到底そのようなことは無理といわねばなりません。
金印発見は天明4年1784年4月12日とされ、以後黒田藩に伝えられてきました。この1784年当時に使われていた金貨は元文元年~文政元年(1736~1818) に作られた「文政小判」で、およそ56%の金含有率で作られていますが、実は江戸時代に鋳造された10種類の小判の中で、金の含有率が最も低い、いわば粗造金貨の代表みたいな小判でした。
福岡市立博物館展示中の金印
もともと日本の「金貨」の金含有率は高く、秀吉時代の慶長大判や小判の金含有率は86.20%で高く、貨幣経済も安定してましたが、元禄時代に支配者側である大名は祿高を越えて、町人から借金を繰り返し、贅沢三昧の生活をした結果、元禄時代に経済破綻したため、彼らの借金を減らす意味から幕府は慶長小判を大量に市中から回収して、金貨の改鋳を行い、金の含有量を慶長小判の約85%から57.36%に減らし、代わりに銀の含有量を増やしました。慶長小判2枚を回収すれば元禄小判3枚に改鋳できるという悪政を行いました。結果、商人はそうした悪政を見抜き、物価は超インフレになり、幕府の経済は破綻寸前に追い込まれ、様々な節約令である「改革」(享保改革・寛政改革・天保改革)を行いましたが効果なく、幕府は力を失い、明治維新を迎えました。金の含有率を低くしたために江戸の貨幣経済は崩壊し、幕府は滅亡しました。
それら粗製金貨に比べて志賀島発見とされる金印の金成分は金95.1%、銀4.5%、銅0.5%(1989年蛍光X線照射による成分科学分析による)と金の含有率が極めて高く、ほぼ純金といえる高純度です。この高純度の金を抽出、精練するには極めて高度な技術が必要であり、簡単な贋作作りには不可能な話しであり、贋作を作る意味もないことから、まずは無理な話という結論になります。
6 当時の状況を考えてみれば、高度な知識を駆使しないとできない金の精練と、「偽物」として作る意味を考えると、知識と技術のなかった当時の日本人にはまずあのハイレベルな「贋作」を作ることすら不可能に思えます。また「金印」の贋作を作る意味もきわめて不明、希薄であるとおもわれます。
金印 コピー
最高に高価な金を使い、贋作を作る手間と、製作意図、意味の不明、更に隠す意味がないこと、誰に発見されるかわからないのに、埋める意味があるのでしょうか。
以上、述べてきましたように、結論としましては、志賀島金印を「本物」と仮定しますと、地理的理由から、「邪馬台国」は吉野ヶ里遺跡や大宰府、宇佐神宮に近い九州北部にあり、次第に日本の中央である近畿に覇権を広げてゆき、強力な「大和政権」を作り上げて行ったと考えるのが妥当であると考えられます。
仮に黒田藩が贋作を作り、埋めて、自ら掘り出したとしても、その意図が、後世から考えても理解できない。大金を出して贋作を作る意味がない。
海神神社 祝詞をあげる神主さん
志賀島は風光明媚な場所であり、近くには素晴らしい「海神神社」もあります。さらにまた「元寇防塁遺跡」もあり、違う歴史も楽しめます。ぜひ訪れてほしいと思います。また福岡市立博物館の国宝「金印」の実物を是非見て欲しいと思います。
元寇防塁遺跡
◎志賀島への交通手段
一番は車です。海を貫く一本道は美しく醍醐味があります。志賀島へは、ベイサイドプレイス博多の博多ふ頭第1ターミナルから福岡市営渡船で30分ほどで行くことができます。接続する島内バスも運行してます。
福岡市営渡船 (志賀島航路・玄界島航路)その他乗り物をネット検索
〇路線バス志賀島島内線
URL https://www.sunqpass.jp/tokuten/fukuoka.html
島内にはレンタサイクルもあるそうです。
日本を大陸側から見た地図 日本は大陸と繋がった島国のよう。
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