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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第17回 小豆島 尾崎放哉記念館で思うこと


尾崎放哉記念館

〒761-4101 香川県小豆郡土庄町甲1082
開館時間: 午前9時から午後5時
電話 0879-62-0037 入館料・大人220円(税込) 小学生110円(税込)

私の尾崎放哉論
俳人・尾崎放哉の「自由」について


尾崎放哉

 尾崎放哉(おざきほうさい・1885年~1926年・41歳没)は自由律俳句の第一人者として、一部の俳句を愛好する方々の間では極めて有名ですが、一般的にはあまり知られていません。ゆえに私は本著者として、この連載をお読みいただき、放哉にご興味がわいていただけ、素晴らしい彼の句集をお読みいただき、共感されたらいつか美しい小豆島の記念館を訪れ、放哉が求めた「自由と孤独」、そしてそこに向かい、望む死を迎えた彼の南郷庵を訪れ、墓参をしていただけたらうれしいです。


放哉の墓(南郷庵を見おろす隣接した墓地の上)

本文 俳人・尾崎放哉の「自由」について

 俳人・尾崎放哉が亡くなったとき、枕元にあった厚手の紙に一句書かれていました。まさに息が絶える寸前に書かれた「絶句」でした。

春の山のうしろから烟が出だした  放哉

 子供の頃に友だちと遊びで枯れた山に火を放ち、それが大きな山火事になりそうになり、少年放哉が体ごと転がりながら消した幼きころの記憶を、幽かになりゆく意識の中になつかしみ、まさにその時のこどもにもどりながら放哉は41歳という短く、数奇に満ちた人生を終えたんだという感傷が、その最期の一句を読んだ私の胸に去来しました。

 放哉は東大法学部を出た秀才中の秀才、いわばエリートでした。幼少の頃、成績優秀で「飛び級」するなどずば抜けていた本来の彼の実力からすれば、必ずや政界、実業界のトップ、社会的名利を得られる立場に立てたでしょう。しかしそうした立場に行ける可能性があったにも関わらず、いきなり破滅に向かい舵を切ります。何不自由ない生活をし、美しい伴侶を得ていたにもかかわらず、上り坂の出世街道から離れ、あえて暮れゆく下り坂に足を踏み込みます。


美しい小豆島の風景

 それはどうしてなのでしょうか?一般的にはこれまで頑張って東大法学部を卒業し、人生の下地を作り上げ、これからが「幸せな」人生の始まりと誰もが思うに違いないからです。

 文学的探求はそうした人間と作品に見る「なぜ?」の部分の解明に照準が絞られてゆくのですが、しかし今回の放哉の謎については、こればかりは本人にしかわからない部分でもあり、あるいはひょっとして本人にもわからない、いわば血の衝動、運命、どうしようもない彼独自の生き方、人間の不可思議さ、運命ともいうべき、根源的なものが通説の裏に隠されているのかもしれないのです。


美しい小豆島の夕景

 人間社会には、お互いに底知れぬ深い闇、鬱積された深淵からの衝動ともいうべき精神の彷徨、常識的に社会というしがらみに束縛された、他人からは絶対に理解できない、複雑に絡み合い、ほどくことのできない人間関係の迷路があります。我々は明晰な頭脳を持つ放哉がなぜ酒に溺れたのかさえ理解に苦しみますが、それゆえに彼も我々と同じような弱い人間としての一面があるともいえ、どこかで安堵し、親しみが湧くのです。

 彼がある友人に宛てた手紙によると、最初に通信社に入社。次に就職した東洋生命株式会社から大阪支店次長で赴任した際、東大卒である彼に対し様々な陰険な追い出し工作にあったことが書かれています。確かに東大出のエリートとなれば陰湿な策謀ややっかみ、謀略があったとしても不思議ではありません。しかし頭脳明晰な放哉が簡単にそうした策謀にのるはずもありません。更に大阪から東京に戻り契約課課長となった翌年に社長である尾高次郎が亡くなっています。会社というところは派閥や学閥という権力閥が必ずあります。あるいはその社長が放哉の優秀な人格を引き立ててくれていた可能性もないとはいえませんが、その社長の亡くなった翌年の人事異動で放哉は契約課課長を罷免されています。酒が災いしたとする意見が多いのですが、権力派閥の犠牲になった可能性も否定できません。その人事異動以来放哉は大きな人間社会への不信に陥ったと考えられます。それはついに退社というところまで彼を追い詰めてしまいました。


遠くの灯台の灯

 以後も様々な紆余曲折を経て、友人からの紹介もあり、朝鮮火災海上保険株式会社の設立に当たっての支配人に抜擢されて京城に赴き、そこで頑張り、利益を出せるようになった瞬間に解雇されるという憂き目に遭ってます。放哉の優秀な頭脳を利用できるだけ利用し、会社の運営が軌道に乗るや解雇する、それらの理由としてはやはり放哉の酒ぐせの悪さ、酒を飲むと様々な鬱積が本人の意志と無関係に噴出し、社会関係、対人関係を極度に悪化させたようにも思えます。

 彼が酒の味を最初に知ったのは、従兄妹の沢芳衛(さわよしえ)に結婚を申し込み、近親結婚を理由に断られたあたりに始まるようで、それは彼の俳号の放哉は最初は彼女の名前の芳衛の一字を使い「芳哉(ほうさい・芳衛かな)」としていた名前を破局後にその一字を放つ意味に変え、ある意味放つとしていますが、反面執着している「放哉」としたことから、本当に大きなショックであったことが感じられます。ここあたりから放哉は憂さ晴らしに酒を飲むようになり、後半の人生の歯車の噛み合わせが悪くなるように思えます。


小豆島・二十四の瞳の舞台の教場

 会社の地位が失われたあたりの絶望感から、誰もが羨む美しい妻に一緒に死んでくれと持ちかけたりします。妻は当然、この人は狂ったかとびっくりします。さらに彼の行動はますます分からなくなります。なぜ妻をも捨て、すべてを捨てて一燈園(一燈園は京都の宗教的奉仕団体)に入所したのか、さらにまたなぜ五七五の文字列が決まっている伝統的定形俳句を目指さず、自由律俳人となったのか?すべては常識人の理解の範囲を越えていますが、一つだけヒントがあるように思います。

 荻原井泉水により始められた自由律俳句なるものが成立するのか、しないのかについては私には分かりませんが、考えてみると芸能、文芸、スポーツ、広く文化というものにはある一定の決まりやルールがあり、それに基づいて楽しまれ、区分され競われる領域の行為であることは間違いありません。自由であることは、どんな制約も受けないことを意味し、約束事、ルールもないということになります。しかし、物事は一定の枠(ルール・規則・決まり)があって初めて競えるし、逆に制約があるからこそ楽しめるし、インテリジェンスも発揮できるという側面もあります。その中で表現能力や工夫、努力が認められて行きます。


「二十四の瞳」の教場前の美しい海

 デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールはその著作である「不安の概念」(1844年)の中で、「不安は自由のめまい」であると述べています。自由すぎると逆に人間は耐えられなくなり、不安に襲われるようになると言っているのです。ノルウェーの画家エドワルド・ムンクの名画「叫び」はまさにそうした不安からの叫びであり、現代自由社会の盲点を突いた作品とされる所以です。


E・ムンク作「叫び」

 自由ということは、その結果の責任はまったく個人にあるということです。そのため北欧では自殺が多くなるのではないかといわれています。

 私の敬愛する小説家であり、僧侶でもありました瀬戸内寂聴さんは、最後とされる「瀬戸内寂聴九十七歳の遺言」(朝日新書)という本の中で次のように述べてます。
「他人の目や干渉を気にせず、自由に自分のやりたいことをやりきるためには孤独に生きることを覚悟しなければなりません。そこには愛する人との別れも含まれます。
 人間は本質的に孤独なものだと何度か話してきました。その孤独を真正面から引き受けることが、自由に生きるということです。私が不良を好きになるのは、そういう人たちが孤独だから。犀(※)の角のようにただひとり歩んでいる姿は力強くて、とても格好いいと思いますね。」(※お釈迦様は「スッタニパータ」のなかでこんなふうにおっしゃっています。「ひとの欲しない独立自由をめざして、犀(犀は強い角一本で生きている)の角のように独り歩め」と。)

 それは釈迦も求めた聖なる孤独、真理への道への途上にある孤独なのかもしれません。


美しい小豆島の冬場の寒霞渓風景

 一般的に社会とは、その国により決められた「してはいけないこと」すなはち「法律」「道徳」という約束、モラルの中での生活を指します。ですから現代社会において生きるには「完全なる自由」はあり得ないということになります。かれが友人に宛てて書いた手紙の文面には、「孤独」を目指すとありますが、実際上は完全なる「孤独」はあり得ない話なのです。

 かつて放哉の俳句だけ読んでいた若いころの、人生経験の少なかった私には死に向かう彼の人生の謎については理解できませんでした。ただ彼の中にそうした衝動が生まれたからとしか分かりませんでした。

 妻に、共に死のうと放哉が求めたことは、キルケゴールのいうように何かに絶望していたことは確かです。死への願望は、自分への絶望であることは間違いありません。先に出しましたデンマークの哲学者キルケゴールはその主著である「死に至る病」の中で、延々と「絶望」が死に至る病であることを証明してます。それは確かにそうなのでしょう。以下の図式です。

自由→不安→絶望→死への願望(実際の死)

 しかし私は死に至る病は単純に「絶望」だけではないと思っています。それは「耽美」を求めての死というものもあると思うからです。三島由紀夫の自決による「死」もその死へのあこがれの一種だと思います。


放哉の結婚当時

 自分の中の大切な何かが崩壊し、絶望したのか?自己内部の耽美への欲求なのか、放哉は学歴社会とその延長にある巨大な会社という権力組織という、かれには消化不能な異物を吐き出すように辞職し、これまでの人生の方向転換を強行します。しかもその向かう先は、彼の回りの誰もが唖然とするくらいに理解不能な方向に180度舵を切る、そんな彼を誰が理解できるでしょうか。妻ですら理解できませんでした。それほど彼の「絶望感」は大きかったのです。

 誰も知らない、未知なる世界、聖なる道へのあこがれ、というと格好良く見られますが、この先に「死」が予感されるようになれば、話は深刻になります。


土庄町の暮れつつある海

 死という誰も経験したことのない耽美な世界へのあこがれ。これは先の小説家三島由紀夫の場合にもあるようです。これが「死」なのかという、一瞬にして最後の体験。三島は「葉隠」の「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という、自分の生を潔く主君のために捧げる武士、国を憂うる「憂国」の美学に心酔していたようです。そして自衛隊に決起を促し、割腹自決という最後を遂げました。腹を切り、首を日本刀ではねられる「武士」としての死の瞬間を体験することも彼の行動にはあったと思います。まさに死をかけた最後の体験ということになります。

 しかし彼放哉は単に死を目指したのではないと思います。芥川龍之介や川端康成のように、将来に対する漠然たる不安感から死を求めたのでもないでしょう。

 もっと違うもの、彼放哉にとり、より高貴なる世界、崇高であこがれる世界、すなはち「美に殉ずる」ためにその延長線上で死ぬ覚悟ができていた、と考えるべきです。では彼の考えるその「美」とは何でしょうか。


最期を迎えた南郷庵

 頭脳明晰な彼にとり、権力と利害が生々しく渦巻く人間社会組織の馬鹿馬鹿しさ、そうした世界から飛翔する自由へのあこがれと初恋の破綻からの自暴自棄との三者の隙間にたまたま「酒」が入り込んだとしか考えられません。どんな秀才でも人間的な部分、弱さはあります。人間はコンピューターではないので、理性ですべての感情をコントロールすることは出来ません。憂さ晴らしとしての酒は魔力であり、麻薬です。飲んだ人間のみが解る、解放された世界といえます。「没落」への焦りと焦燥感が更にそれに輪をかけます。酒は人間の理性を奪い、無防備にも隠している本性を現わにしてしまいます。

 酒(葡萄酒)はオリエント地方では神聖なバッカス神、ディオニュソス神となりギリシャ神話に神として登場してきます。哲学的には酒は人間の欲望の原点をさらけ出させる聖なる飲み物という考え方になります。しかし社会生活の面からは、酒は人間が心で思っている本性をさらけ出させ、放哉のようにそれが原因で聞いてしまった会社の人間の悪意により、往々にして転倒させられます。すなはち生きる害となりますから、深酒は社会生活においては禁止事項となる所以です。

 さらに「自由」ということを考えると、「完全なる自由」と「制約された自由」があることに気づきます。放哉の場合はこれまで見てきた限り、次第にこれまでにない「完全に自由な俳句」を求めていったのではないかと思われます。一般的な自由は、社会生活の中での「自由」であり、回りから「自由」と認められるには、ある一定の決まり、道徳、イギリス風にいえば「規律あっての自由」あるいは「高貴(道徳的に)なる自由」となります。それは「社会の中」での自由といえます。そうでない「完全な自由」は社会からは認められません。だから絶望するのです。


小豆島と新岡山港を結ぶフェリー

 放哉が自由律俳句を目指したことも、やはり規則や決まりに縛られない「完全なる自由」すなはち完全に自己に沈潜する世界を唯一俳句に目指したことは確かなように思います。先にも述べたように、すべての美術や文学は一定の決まりの中に成立しています。五七五の俳句、五七五七七の和歌、墨や岩絵具を使う日本画、油絵具を使う洋画など、さまざまな制約や決まりがあります。そうしたすべての決まりを捨てた世界に生きたい、完全なる「自由」を求めてそこで生きてみたい、すなはち放哉は最後の「自分」そのものに戻り、そう考えたのではないでしょうか?もしそう考えると彼の極端な生き方が何となく理解できるようになります。

 社会から疎外されたと考えた彼放哉は、それ以後「完全なる自由」を求めたのだと思います。しかしそれは現実生活の中では不可能な、空想上、理想上のことでした。その理想へのギリギリを目指した「寺男」という孤独な生活と作句の中で、その矛盾に突き当たり彼は体力をすり減らし、更に再度彼を一時的に楽にしてくれる酒が災いしてしまい、その繰り返しにより生活苦と粗庵での寒さから病を併発し、死期を早めてしまった、少なくとも私にはそう思われてなりません。


放哉の墓から亡くなった南郷庵を見下ろす。

 放哉自身は癒着性肋膜炎から来る肺の衰弱、合併症湿性咽喉カタルと診断された病に侵されて、最期は近所の南堀シゲという漁師の奥さんに看病され世を去ります。別れた妻でさえ死に際には立ち会えませんでした。戒名は、師の荻原井泉水がつけた「大空放哉居士」でした。私はさすがに放哉を本質から理解していた荻原井泉水であると、その戒名を見て感心しました。「大空」に放たれ自由に飛翔する古代中国の思想家・荘子の鳳のような自由で雄大な様が表れているではないですか。放哉があこがれ、理想とした完全なる自由世界をめざして、彼は飛翔したいと願っていたことは確かです。まさに自由に「大空」を羽ばたきたかった放哉でした。


南郷庵の上空に自由に舞う大鳥

 日暮れは美しく、甘美な死への誘惑に満ちています。しかし決して明るくなることはありません。ますます暗黒に向かいます。没落への誘惑が夕日にはあります。放哉にとって「完全なる自由」は、まさに没落への道すなはち「死」そのものでした。人間にとって「完全なる自由」はあり得ないことのひとつの貴重な事例として放哉の死があったというべきでしょう。しかし彼はその「死」を目指して生き切ったといえます。強い意思を持っていたというべきです。私が放哉を好む理由の一つです。


美しい夕陽

 本来の自分のあるべき姿を求めると同時に自分を追い込んだ世間への反発もあり、あえて皆が大切にする俗世の名利を捨て、捨てることにより独自の世界を求めてあえて孤独の道、没落への道を選び、そこにかすかな真理の光も見え、かねてから親しんできた最後の拠り所「自由律俳句」という句境が彼に救いの道を与えたとしか私には思えません。自由律俳句は、自由を求める人間が行き着く、終着点なのかもしれません。

 放哉は「暮れる」という言葉を好んで使います。精神の自立、完全なる自由、孤独をめざす放哉には、山頭火のように旅をすることも温泉に浸り一息入れることも必要ではなく、静かな瀬戸内の一所にひっそりいて、夕日とともに暮れて、芭蕉のように枯野をかけめぐる夢も必要ではありません。孤独のうちに夢もなく、いつの間にか消えてゆく。やはり誰にも出来なかった人生を生きて、誰にもなし得なかった次の一句をものにした希代の、崇高にして孤高の文学者であると私は思います。数ある彼の自由律俳句の中で私が一番好きな作品です。

 ひとりの道が暮れてきた

 いかにも冷静に、ひたひたと忍び寄る自分の最後を見切った放哉らしい、そして放哉にしか作れなかった素晴らしい句です。この一句を生み出すために彼は「自由」に人生を捧げ生きてきたのです。さらに「完全なる自由」を追い続けたと思わせる放哉の一生です。

 41歳という、暮れるというには若すぎる一生でした。


落日のコスモス

(参考文献・ちくま文庫・村上護編・尾崎放哉全句集・第二刷 放哉評伝・村上護著・春陽堂放哉文庫・初版)

※放哉関連の写真掲載に関しまして、小豆島土庄町「尾崎放哉記念館」ならびに「土庄町教育委員会」の全面的なご協力をいただきましたことをここに感謝申し上げます。

風景写真撮影・著者

※こちらをクリックしますと同じ著者によります「掌の骨董」にリンクできます。


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