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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第40回 大和三山を訪ねる・「天香久山」についての試論《2》


天香久山南麓にある天岩戸

 前回は大和三山のメイン、天香久山の名称にある「天」について考察しました。しかしその飛鳥の入口にある天香久山は「天」がつく山ではありますが、しかしあまり特徴のない、ほぼ目立たない山、あるいは丘ともいえる場所なのです。なぜかといいますとこの「天香久山」は太古の時代に多武峰から伸びる尾根の中間が地殻変動や侵食、崩落を受け、先端部分が残り、単独の山というより「丘」らしきものとして残っているからです。


南側の天香久山

 これが大和三山の有名な「天香久山」であり、かたわらを車で飛鳥に向かう観光客もその存在にすら気がつかない方も多いでしょう。私は昨年の夏、蓮の時期でもあり写真を撮影しにこの山の麓の蓮畑に行った折に、小さな休憩所にトイレが隣接し、そこに車を駐車させましたら「天香久山休憩所」と掲示があったことから、あの隣の正面の低い山が天香久山であると初めて気がついたくらいでした。地味な山です。ですからその地味な、一見何もないような山であるだけに、なぜ耳成山や畝傍山には「天」という字が付かず「天香久山」にだけついて重要視されているのか、理由、原因が分かりませんでした。何か理由が他に必ずあるはずだと考えました。

 今回は飛鳥に撮影で行く用がありましたから、この「天香久山」を実際に歩いて、その謎にチャレンジしてみようと思いました。

 万葉集に残る持統天皇の歌に

「春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山」があります。

 春すぎて、暑くなりかけた飛鳥ののどかな季節の移ろいの山里の鮮やかな緑の中に、白い衣を干してる平和な風景が目にうかびます。

 歴史を考える時に、従来の説では説明のつかないことが多く、特に記録に人の手が加わった場合、矛盾や利害の偏りが出てきます。特に古代史における、藤原不比等や舎人親王により成立したとされる有名な歴史書「日本書紀」の改竄、欺瞞はいまや衆目の一致するところです。もちろん正しい記述も多くありますが。

 ここで読者の皆様には一度先入観を排除していただき、抵抗があるとは思いますが、以下のようにまず考えてみてください。

①万世一系を主張するために考えられた中大兄と大海人の兄弟関係は、実は二人の性格や考え方、体質が全く違い、互いに争っていたり、警戒してることが多いことから、兄弟ではないと考えられること。
②壬申の乱で活躍した高市皇子は大海人皇子の子とされますが、実は違っていて天智天皇の子であり、しかも大友皇子より年上であり、二人は大海人の娘の十市皇女をめぐり争っていましたが、高市皇子は実母の身分の低さからか、年上であるにも関わらず皇位にも就けず、更に恋人も弟の大友に取られてしまったことに大きな不満を持っていました。考えてみますと、高市が大海人の子であるなら、十市皇女とは兄妹(近親血縁者)となり恋人にはなれません。
③持統天皇=高市皇子であること。天武は皇位継承の順位を①大津皇子②草壁皇子③高市皇子と決めていた。
④壬申の乱は、天智天皇の後継者をめぐる大友皇子と高市皇子の争いであり、そこにさらに十市皇女がいて、二人をそこにからませながら大海人が介入して皇位を簒奪した内乱であったということ。それに対する天皇になれなかった高市皇子の怒りの矛先が天武とその後継者である子供たち、大津皇子、草壁皇子の殺害に向かい、高市=持統朝の成立となったということ。
⑤藤原不比等は鎌足が大海人皇子から身籠った鏡王女を下賜された結果、生まれた大海人の子と推定されます。鎌足は孝徳天皇、中大兄皇子、大海人皇子などから妃を下賜されており、それが権力者と臣下共に信頼関係を築く、互いの身の保全方法であったと推測されます。不比等が天武のDNAを引き継ぐ息子であるなら、不比等のずば抜けた度胸と知恵は合点が行きます。また鎌足は不比等に自分の本来の姓「中臣」ではなく「藤原」を名乗らせたことにも表れているとおもいます。


天武像と著者が考える当麻寺金堂の四天王塑像。当麻寺は天武とゆかりがあり、その重要な金堂の髭の生えた雄々しい姿はまさに他の四天王と違い、威厳に満ちており、猛々しいとされた天武にふさわしい。

 この5点を頭に入れて再チェックされますと数々の疑問が氷解してゆきます。その謎解きをこれからしてゆきましょう。

「春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山」(持統天皇御製)

 先ほどの歌です。持統天皇といいますと、天武天皇の皇后、鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)がこの歌を詠まれたといろいろな本で読んで来ました。すなはち持統天皇は天武天皇の皇后、鸕野讃良皇女であると私は長く本に読み、学校でも教えられて来ましたが、しかし天武に対する反逆罪として大津が刑死、皇位継承二位の草壁皇子が「病」により亡くなり、三位の継承権から高市皇子は「正当」に即位して持統天皇となったと考えられます。そう考えると、後に書きますさまざまな謎が氷解します。

 まずこの歌に出てくる衣は白で、天武天皇のシンボルは龍で軍旗は赤、天智天皇のシンボルは白雉、軍旗は白でした。歴史学者の小林恵子(やすこ)さんによると、壬申の乱の始まりは、大海人皇子と天智天皇が常に反目していたことが上げられますが、そこに天智天皇の子供たち、すなはち弟である大友皇子、後の弘文天皇と身分の低い半島系と思われる腹違いの兄の高市皇子が十市皇女、すなはち大海人皇子と額田王との間の娘であり、後に大友の妃となる十市皇女を巡って、かねてから高市皇子とも通じていたこともあり、ために三者の恋争い、この三角関係がこじれたことから起きた内乱であるとされています。事実朝鮮半島出身の、身分の低い高市の母のため弟に天皇の位まで持って行かれ、さらに恋人十市皇女も弟に取られた高市皇子が感じた無念さ、コンプレックスは並みのものではなかったでしょう。それは当然「怨み」に発展してゆきます。そうした大友皇子、高市皇子の不仲を知った上でその中心にいる十市皇女の父として、三者の関係を政治的に最大限に利用して壬申の乱を勝ち抜いたのが大海人皇子、後の天武天皇であること、そう考えますと、様々な疑問が解けてきます。当初、高市皇子は若く、愛する十市皇女の父としての大海人を、天皇の血筋ではないことを理由に自分の味方と信用し、歴戦の雄、戦にたけた大海人に近江朝側の大軍を預け、その軍勢のおかげで大海人は壬申の乱に勝利します。近江朝に忠誠を誓い、近江朝のために二万の大軍を指揮した小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が乱後に自殺しますが、それは彼の支配下の近江朝の二万の大軍(それは勝敗を左右する大軍でした)が、天智天皇の息子の高市皇子の即位のためではなく、大海人皇子、すなはち天武天皇の即位に使われたことから彼鉏鉤は近江朝への責任を取って自害したと考えられるからです。でないと小子部連鉏鉤の死の理由が分かりません。もともと天智天皇の後継者である大友皇子(後の弘文天皇)と、大友皇子の兄であり、即位の資格のある高市皇子との皇位と后をめぐる争いだっただけに、当然のことながら、近江朝の内紛として勝利した方が天皇になると周囲の者は誰しもが考えていたようです。しかし勝利した高市皇子は戦後近江朝の大軍を大海人に接収、解体され、さらに急を聞いて渡来してきた大海人皇子とかねてから関係のあった外来部隊に守られて、天武天皇として即位したことから、またも天皇の位や軍もすべて奪われ、大海人こと天武天皇に裏切られた、すなはち皇位を簒奪されたと高市皇子は気がつきます。若き高市皇子は二度も皇位を奪われています。まあ天武が一枚も二枚も上手であったといえます。高市皇子は、その事実に愕然とし、恨みに燃えたことでしょう。その時から高市皇子は天武とその一族に対する復讐劇を考えます。天武とその一族を滅ぼし、正当なる天智天皇の子である自分が即位するためにはどうするか。すなはちまずもともと大唐帝国に反抗していた天武を殺すためには、武力を持たない高市は、唐から派遣される闇の軍を頼るしかありません。後にそれに与力して天武を殺害、さらに後継者の大津を天武の殯(もがり)を冒涜し遺骨を荒らしたとして不敬罪、反逆罪にて逮捕、水死刑にして謀殺します。高市皇子は天武の復活を恐れ、遺骨をバラバラに荒らし、頭骨を持ち去った罪を大津に負わせたのでした。ですから壁画と遺骨が荒らされ、頭骨が抜かれた高松塚古墳は高市皇子が指揮して作らせた天武の古墳ということになります。高市皇子のような勇猛な武将であっても天武の復活を怖れていたようです。(梅原猛著・「黄泉の王」と小林恵子著「高松塚被葬者考」を参照)

 さらに皇位継承権2位の草壁を遅延性毒の鉛により、ゆっくり分からないように毒殺し、とうとう皇位を手にして持統天皇として即位します。この勝利の歌が先ほどの持統天皇御製の天香久山での歌となるのではないでしょうか。

 この歌は小林恵子さんの説によりますと、白妙の白はまさに天智系の即位、すなはち勝利の天智軍旗の白をさしているといえますから、持統天皇の歌であるとされるこの歌は、実は天智系の血脈を表しており、この時期それに該当する皇子は高市皇子以外にはいないことになります。更にまた天香久山山麓には、天皇家の神話、アマテラス神話に登場する「天岩戸」もあり、日本神話の中心となります。それも私の見たところ、高市皇子が整備した、人工的に三個の岩を置いた「天岩戸」の可能性も考えられます。むしろそう考えた方が自然な状態です。あの場所に自然に岩戸があったとは私には到底考えられません。


天岩戸神社入口

 またこれから先はわたしの推察ですが、更に飛鳥にある国の大寺である「大官大寺(だいかんだいじ)」は官寺としての発願は古く、高市皇子の祖父舒明天皇が天香久山から国見をし、さらに「大官大寺」を作り始め、孫の高市皇子が天岩戸を整備し、国常立神社、天香山神社、天岩戸を造営、月の誕生石の意味付けをしたとなると、大官大寺はそれらのある「天香久山」の麓野にあり、その線上の南側に高市皇子の住まいもあったと仮定すれば、天香久山周辺は神話の中心、まさに高市ワールド、高市王国であったと推定されます。

 太陽神の復活神話、天岩戸神話では天宇受売命(アメノウズメノミコト)は天香山の榊を鬘(かづら)としてまとい蘿(ひかげ)を襷(たすき)にし、火を焚き桶を伏せて置いて、顕神明之憑談(かむがかり)をしたとされますが、高千穂の峰に天香久山の榊を掘り出して届ける神話には遠くふさわしくありません。やはり祖父舒明天皇ゆかりの天香久山に神話のふるさと「天岩戸」を置いた方がよいと考えたのでしょう。


高市皇子の祖父、舒明天皇が「国見」した場所から畝傍山を望む。

 壬申の乱の後に天武天皇はやむ無くというか、裏切った高市に対する後ろめたさから、高市を皇位継承の順番の「三位」としたのです。一位は大津皇子(後に高市皇子は、実の子である草壁皇子を即位させたい天武の后、鸕野讃良皇女・うののさららひめみことの合意の上で、天武の殯宮での遺体の棄損、不敬罪、反逆罪を理由に大津を逮捕、謀殺します。草壁皇子を皇位につけたいがために、義理の子であり甥でもある大津(姉・大田皇女と大海人の息子である)までもやむなく謀殺、そこまでは高市皇子と鸕野讃良皇女の利害は一致していたようですが、後に草壁皇子も高市により毒殺されるとはさすがの鸕野讃良皇女も想像だにしていなかったでしょう。最愛の息子、草壁皇子の死はあまりにもタイミングが高市に良すぎました。鸕野讃良皇女や聡明な藤原不比等もさすがにこのあたりで疑いの眼をギラリと光らせたのでしょう。二人は高市の危険性に気が付いたのです。彼らが吉野に30回以上籠る、というより高市から距離を置いて、一旦逃避したということです。高市を危険視したということです。吉野で「大人しく」しながら対高市戦略を練ったと考えられます。吉野は昔から慎み深い、避難地のような場所のイメージがあり、高市を油断させるには絶好な場所であったようです。


月の誕生石

 ですから皇位継承順位2位の、草壁皇子は高市皇子により早くから遅延性鉛毒により時間をかけて毒殺されたことは疑いのない事実といえます。

 皇位継承順位三位が高市皇子。大津、草壁、高市の順に天皇にする、そのように天武天皇は約束したようで、その通りに高市皇子は迅速に自分が即位するために、計画的にライバルたちを排除しました。草壁皇子の死は余りにも死亡のタイミングが高市にとって都合良すぎます。そのあたりで不比等の眼は「疑いの眼」に変わりました。

 かねてより草壁皇子の古墳とされできた奈良県高取町の束明神塚古墳から掘り出された遺骨から高濃度の鉛が検出されています。大津も天武の殯(もがり)を毀損したとして謀殺され、大津、草壁などの天武の跡取りたちが次々と死んでゆく裏を推測しますと、高市皇子の天武天皇への恨みがあったことは間違いありません。

 私は前から「日本書記」にあるように、持統天皇を皇后鸕野讃良皇女とすることに疑問を持っていましたし、元気な天武とこれも元気な鸕野讃良皇女の間に生まれた草壁皇子は本来元気であるはずであり、それが病弱であることにも疑問をもっていました。仮に遅効性毒の粉末微粒子の鉛を少しずつ長期にわたり飲ませたら、毒味役にも分からず、さらに常に側にいる母である鸕野讃良皇女にもわからない穏やかな効果で「病気」は徐々に進行し、大津皇子の謀殺に合わせて草壁皇子を死に追いやったと仮定すれば、全てが高市の利益につながってくるのです。まさに、暗殺の論理は、最後に利益を受ける人間が真犯人であることといえるでしょう。(次回に続く)


天香山神社

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