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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第14回 釈迦堂遺跡博物館(縄文遺跡)

 新年明けましておめでとうございます。本年が皆様にとりまして、より良い年になりますよう、心よりお祈りいたします。今年も有意義で楽しい内容を心がけますので、よろしくお願いいたします。

所在地・〒405-0054 山梨県笛吹市一宮町千米寺764


釈迦堂遺跡博物館

 今回は皆さんが寄ることがないどころか、ほとんど知らない博物館で、大変残念なことで、私も中央自動車道を通る度に寄りますので、何とかみなさんにも鑑賞していただきたい気持ちから取り上げました。歴史的にも文化史的にも大変重要な(大半が国の重要文化財の指定を受けている)縄文遺跡出土品を展示していますから、是非勉強していただきたいと思います。


釈迦堂パーキングエリア

 場所は中央自動車道の東京からは下りにあたり、葡萄栽培で有名な勝沼を少し過ぎた釈迦堂パーキングエリア内にあります。こちらは高速道路の休憩所で、小さなパーキングエリアですが、少し左手上方に皆さんが大半というよりはほとんど気がつかない死角に博物館がありますが、入館者の少なさを考えると、これだけの展示内容故に私はなぜパーキングに隣接して建てなかったのか不思議に思うほどです。


驚くほど素晴らしい展示土器

 「釈迦堂遺跡博物館」(入場料・大人400円)といいます。

 縄文人については以前も書いてきましたし、またこれからも書いて行きたいことがたくさんあります。彼ら縄文人たちから現代に生きる私たちは学ぶことがたくさんあります。

 彼らは自然を畏怖し、自然を怖れていました。おそらく圧倒的な力で彼らに襲いかかる嵐や台風、集中豪雨を恐れていたに違いありません。


ラムセス2世像(大英博物館所蔵品)

 キリスト教、ユダヤ教のルーツである旧約聖書にも同じような神を畏怖する記述がありますが、宗教の芽生えはどうしようもなく、圧倒的な力で迫る自然現象に対する畏怖と人間であるがゆえの懺悔から始まることはまちがいありません。賢い指導者はそこに着目して、神の概念を創りだし、神の代理人たる立場を確立し、次第に権力を付け、王の地位を確立してゆく歴史が形成されます。

 国家神道のルーツである自然崇拝は縄文時代から引き継がれた宗教概念を引き継いだものであることは確実と私は考えます。それが後にマーヴィン・トケイヤー師たちが主張するようにメソポタミア文明の影響を受けた古代ヘブライ系の人たちの渡来により、メソポタミアやエジプト神殿に似た神社建築、神社神道の成立につながり、日本神道が成立したと推定できます。


出雲大社の復元神殿

メソポタミアの神殿の形との類似

 いま盛んにユダヤやヘブライが日本文化のルーツであり、日本語のルーツだとも騒がれていますが、それらを最初に発見したのはユダヤ人牧師で、今から約25年前にマーヴィン・トケイヤー師が書いて主張した本が最初でした。いま盛んにあたかも自分が発見したように学者の皆さんが書きますが、やはり学者であれば先人の偉業には敬意を払うべきであり、その上で自分の主張はこうである、と述べるべきと思います。

 私はトケイヤー師の本を25年前に読んで衝撃を受けました。しかし日本骨董学院を設立したばかりで、そちらの運営に時間を取られ、更なる探求をおろそかにしましたが、ここ数年またその研究に着目して戻りました。


トケイヤー師の本

 私は昔から縄文時代が終焉し、弥生時代に移るのは何時なのか、このことに大変興味を持っていて、旧約聖書の出エジプト記を読んで、ラムセス2世統治時代に、ナイル川が赤くなったり、暑いエジプトに雹(ひょう)が降ったりした、いわゆる異常気象の状況が描かれている点に着目しています。有名な映画「モーゼの十戒」の時代です。あの映画の海が割れて、モーゼ一行が海を渡れたのは寒冷化と潮の満ち引きの影響で水位が下がったから、可能だったとする考え方もあります。エジプト軍が水没するのは、潮が満ちて渡れなかったことをそのように表現したからでしょう。


ナイル川の現在

 異常気象は文明が衰退し、新しい文明が台頭する大きな要因であることは、現代歴史学の常識になりつつありますが、その転換期がこの「旧約聖書」の記述であると考えました。ラムセス2世の統治は長くBC1303年生まれで、BC1213年死亡とされてますから、当時としては90歳という大変な長寿であり、統治期間も驚異的で、66年に渡りました。しかし、この彼の時代からエジプトは衰退期に入り、クレオパトラ女王で滅びるまで、経済的な混乱に陥ります。それはナイル川の水位が下がるからで、その後も更に壊滅的な経済的打撃を受け続けることになります。


歴史の父、ヘロドトス像

 エジプトは基本的に農業国で、ナイル川の大氾濫が国土を灌漑して潤し、人々は肥沃な大地に種さえ蒔けば、膨大な穀物を得て、労せず豊かな国家を形成できたのでした。歴史の父と言われる有名な歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と書いたくらいナイル川の氾濫が豊かさをもたらしました。ラムセス2世の統治時代から、自然の変化、推測ですがどこかの火山の大爆発による大噴煙か、地球上に大隕石が落下して、その噴煙がジェットストリームに撹拌され大気を通過する太陽光線が数%減少し、地球がやや寒冷化してヌビア、現在のエチオピア山地に降った雪の雪解けを阻害し、ナイルに流れ込む雪解け水が減少したのです。それがエジプトのナイル川の水位を低下させ、農業経済を壊滅させる原因となりました。

 その世界的寒冷化は当然、自然に依拠していた日本の縄文文明にも大きく影響を与え、自然採集食料が減り、人工の米栽培に全面移行せざるを得なかったと推測されます。確かに遺物調査から縄文晩期にはすでに米作に移行しつつありますが、やはり広大な米作農地を他国から守る必要から、平和な縄文時代は終わりを告げ、武力や戦闘指導者を中心とした特殊技能集団としての弥生時代の到来を告げたのでした。まさにその時代転換期がエジプトの気候変動期とほぼ重なるのではないか?というのが私の考えです。事実日本の考古学界の弥生時代の年代設定は300年くらいずつ遡ってきており、今は紀元前800年くらいが弥生時代の始まり、縄文時代の終焉とされてきました。あと400年の差がありますが、いずれ縄文時代の終焉は紀元前13世紀から11世紀頃となるでしょう。そうでないと、縄文時代の衰退と弥生時代の台頭の説明がつきません。

 そんなことを考えながら遺物を拝見するのは楽しいものです。学者の先生方は名誉と生活がかかってますから、迂闊なことは個人的には発表できませんから、いずれ学会からの発表となるでしょう。

 さて話を縄文時代の遺物に戻しましょう。こちらの釈迦堂遺跡で有名なのは土偶で、特にかわいい頭部が着目されています。


土偶のかわいい顔①

土偶のかわいい顔②

 土偶とは何かは、いろいろ議論され、違う考え方が多く、結論付けされてません。以前同じ愛知共済の連載「骨董をもう少し深く楽しみましょう」8回目から11回目で詳しく述べた内容をお読み下さい。

 釈迦堂遺跡の土偶は大半小さく、縄文後期から晩期の様相を呈してます。その素朴な顔の表現は美術的に注目に値します。

 また若く亡くなった子供たちの再生復活を願い、母親の胎内を想定した土器の底に穴を空けた壺に葬りました。産道からまた生まれることを願ったようです。これは古くは古代エジプトにも同様の考え方が見られ、また中国の長江下流の新石器時代の河姆渡遺跡からも同じような穴の空いた壺が多数発見されてます。


穴の空けられた土器壺

 さまざまな意味で、こちらの釈迦堂遺跡は興味のわく遺跡ですから、是非皆様もお立ち寄りいただき、見学してみてください。

 東名高速道路はたくさんの大型輸送トラックにより舗装はガタガタに磨り減り、それに比べ中央自動車道は舗装が新しく、鏡のように平らな箇所も多々あり、気持ち良くドライブできます。八ヶ岳や南アルプスの美しい山並みの景色も楽しめます。


夕日に美しく映える南アルプスの赤石山脈

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