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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第55回 秋篠古道(奈良・秋篠寺周辺と南門から西大寺まで)


秋篠寺南門(右側)と八所御霊神社

 秋篠寺から西大寺に至る道は私の住まいから散歩、買い物のために歩く生活のための「道」です。表のバス通りを歩かず「秋篠古道」なる「道」を歩くのは、その道が好きだからです。どうせ歩くなら、趣があり、確かに奈良時代から存在する道ではありますが、「秋篠古道」という名称は、古来からは実在しない名称で、私が勝手に名づけたものです。


寺の裏側の古道

 東京からこちら秋篠寺の裏山に移住してきたのは、4年少し前のことで、東京のコロナを避ける意味もありましたが、手がけている研究「お水取りと贖罪(仮題)」などの現地取材がしたかったことも大きな移住の目的でした。

 奈良は物価も安いため生活しやすく、特に東京とは比較にならないほど水が美味しく、気候は温暖、地震も弱く、予想される東海地震による津波は内陸のためあり得ず、大阪、京都にも近いので私としては大変動きやすい、良い居住拠点となっています。

 かねてから歴史・古美術の研究をしてますから日本最古の都、奈良はまさに歴史のふるさと、古美術の宝庫であり、寺院、仏像、祭祀、催事も多く、これまでに年に2、3度、のべにして1年に合計2週間程度は奈良に滞在してましたから、京都に比べ格段に安価なホテル代も影響し、気ままに歩ける慣れた街になりました。


秋篠寺参道・石畳の道の先に南門が見える。

 秋篠寺の真裏の柵に沿った細い道はなかなか古く、農地との境目を形成してまして、これは段差の風化の味わいがあり、やはり確実に奈良古道ですし、南門からまっすぐ西大寺につながる古道も趣があり、これがまさに本来の「秋篠古道」というべき道です。また秋篠寺の創建に関わる話は興味深く、初代善珠坊や藤原不比等の娘であり、文武天皇の后の宮子が創建に関わるとされ、善珠様の墓も寺域から少し離れた目立たぬ場所にひっそりとあり、私も時折参拝いたします。この「善珠様」に「唯識論」を教えたのが有名な僧、玄昉のようで、皇后宮子の後押しで「秋篠寺」が創建され、善珠が「創始者」とされたようです。ですが、名称からして華やかさのない「秋篠寺」には何か一抹の「寂しさ・暗さ」を感じるのです。


善珠僧正墓所石碑

 秋篠寺の名仏とされます重要文化財の水瓶を持つ十一面観音菩薩は、現在は東京国立博物館に寄託されています。水瓶は本来「けがれ」を祓う「聖水」を入れる瓶であり、それを手に持ち、寺にはお水取りの源流をなす「古井戸」もあり、未だに5月には二月堂より古い歴史を持つ「お水取り」が行われています。十一面観音菩薩は贖罪の仏様であり、「お水取り」も聖なる水で過去の過ちを浄める、無念の涙を飲んで亡くなった方の霊魂を慰め浄化することを目的としたものです。すなはち別堂に祀られる大元帥明王(たいげんみょうおう)は国家鎮護を目的に祀られますが、もともと明王は人間の犯す「罪」を断ち切り、罪人を悪の海から救い出す救済の仏様です。なぜかこの寺は人間の業による「贖罪」の意識に満たされているように思われるのです。


秋篠寺お水取りの井戸

 明王は悪に対して怒る「憤怒」の相を表わす反面、罪深い人間を救う役割を担った、ありがたい仏様です。

 さらに南門前には「八所御霊神社」(1枚目写真左手)があり、この御霊神社とは、一般的には歴史上怨みをのんで死んで行ったり、不幸な人生を送った無実の「政治犯」の霊を慰める神社とされます。 案内では由緒沿革は定かでないとしていますが、崇道天皇以下御霊八所(火雷大神、崇道天皇、伊豫親王、藤原廣嗣、文室(ふんや)宮田麻呂、橘逸勢、吉備大臣、藤原夫人)を祀ります。こちらにつきましては奈良時代の政治の「裏」 を書かねばなりませんし、それはまた別の機会にチャレンジしてみます。

 訪れたら必ず拝観していただく、有名な「秋篠寺技芸天」の表情は憂いと優しさをともに秘めた、微妙な表情のように思えます。聖武を産んだ後、難産からか母の宮子は、今でいう鬱病になり、産んだ我が子である聖武にも、長く会おうとしませんでした。玄昉は遣唐使で渡った中国で学んだ医術、中でも秘術とされる「覚醒剤」あるいは「麻薬」にて気鬱症の宮子を治したと推測され、麻薬の力からか、治癒行為による回復の賜物なのか二人の仲も親しみを増し、いつしか深い関係になるのも人間の業というものでしょうか。その後、表向きには玄昉は宮子を救った僧として権勢を増し、宮子をバックに後の弓削道鏡のように権勢を振るい、それが目に余るようになるにつけ、周囲から疎んぜられるようになり、体よく最果ての太宰府に流され、観世音寺近くにて抹殺された可能性があります。彼の墓は観世音寺の近くにありますが、玄昉の首は太宰府から奈良に飛んで来て、東大寺に近い所に落ち、その首を祀ったのが日本のピラミッドといわれる「頭塔」とされます。まさか天から首が落ちて来ることはなく、首が届けられたという「隠喩」であると思われます。


古道脇に咲く花

 後に資料は改ざんされ、善珠を宮子が身籠もったときに、父と考えられる玄昉は遣唐使で中国にいたことにされたか、あるいは善珠の生まれた時期を改ざんしたかのどちらかだと思われますが、「不義」は抹殺されたようです。これら一連の玄昉排除の「作為」は、善珠坊の父親が誰かということをうやむやにするためであり、その目的であることは明らかです。これは聖武天皇の母である宮子の「立場」を守るための一連の政治的「措置」のように思われます。太宰府には何回も取材に行きましたが、このように天武天皇系子孫による藤原不比等の奈良朝成立の裏には深い闇である「謀略」がいくつもあり、重大な奈良朝成立のためのいくつかの大きな「闇」を調べて、本に書こうとして出版社の認可も受けましたら、コロナで出版社の経営がまずくなり、そのままに至りますから、いずれ出版したいと考えます。


民家の脇を縫うようにくねる古道

 しかし、奈良時代の「闇」を暴きますと、話は東大寺に及び、更に藤原氏、天皇家の先祖の「権力形成」の闇を暴くことになりますから、それはもう少し後にします。闇の人物を調べますと極めて「奈良時代」は私には興味深い「夜の霧」に覆われた闇の歴史を持つ時代になります。

 さて秋篠寺は正門のすぐ奥に東西の三重塔を持つ格式の高い寺院でした。その塔跡の基壇あたりからは今でも古い瓦が見え隠れして、歴史を物語っています。


塔跡に見える、創建時古瓦と思われる

 称徳天皇により創建された西大寺までの「秋篠古道」は参道と思われる道より先は、新しい西大寺に向かい、新たにつくられた曲がりくねった道であり、細い道が西大寺裏に向かいます。


秋篠古道・石畳の細い道

 私が一番好きで毎日歩くのは秋篠寺の真裏の、畑との境にある古道で、これはわずかな距離ではありますが、私には極めて趣のある好きな「古道」です。みなさまが秋篠寺技芸天をお参りの折には、お水取りの井戸と塔跡も観ていただきたいし、駐車場から左折して、秋篠寺を一回りしていただく途中に畑に沿った狭い道があり、その周辺のひなびた風化が一番趣きがあります。もうこうしたひなびたオリジナルの古道は見かけなくなりました。


善珠僧正墓所

 善珠様のお墓はなぜか案内掲示もないため、受付で場所を教えてもらってください。知る人も少なくなり、参拝の方を見たこともありません。いつも寂しい限りです。寺の外の細い道の奥まったひっそりとしたお墓です。高貴な血を引いた「善珠」の一生は、美しい珠の輝きを持ちながら、奈良の郊外に近い静かな寺を守る、どちらかといえば裏方に徹した地味で目立たないものであったようです。そんなことを思いながら、しばらく振りにお墓をお参りしました。

※こちらをクリックされますと、同じ著者による「掌の骨董」にアクセスできます。併せてお楽しみください。


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