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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第36回 ゴッホを歩く・オーヴェル・シュル・オワーズでの最晩年のゴッホと彼の死について


ゴッホ自画像

 前回はスペイン国境に近い、フランスのカルカソンヌの世界遺産「コンタル古城」を訪れました。かねてから訪問したかったすばらしい古城内でのホテルで3日間をゆっくり過ごせました。日本の城とは違う石の城壁と塔の「古色」に魅了されました。
さらに私にはこの機会にもう一ヶ所現地を歩き確かめたい場所がありました。

 今回はTGV(フランス新幹線)でパリに戻り、そこから在来特急に乗り換えて、日本人に一番好かれている洋画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホがその極めて短い人生の最晩年をすごし、名作の大半を一気に描いた舞台、オーヴェル・シュル・オワーズの田園地帯を歩いてみたいとかねてから考えていました。駅前の田舎のレストランは都会よりおいしく、驚きました。


オーヴェル=シュル=オワーズ駅前の赤い屋根の教会

 「炎の人」といわれるヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(生年月日: 1853年3月30日、死亡日: 1890年7月29日, フランス オーヴェル=シュル=オワーズ・37歳)につきましては何回か映画になりました。私はかねてから、弟テオの援助で画材を買い、ギリギリの生活をしていた、貧しい「ゴッホのピストル自殺」について疑問を感じてきました。ゴッホの父は牧師であり、キリスト教は自殺を禁じてますし、ゴッホ自身も牧師になりたいと希望したほどですから、自殺はあり得ないのではないかと考えてきました。

 晩年といっても37歳で、まだまだ若いのですが、金もなく当時精神病を病み、周囲からは変人奇人狂人扱いされ、病院に監禁されたりしていた貧しい彼が、当時高額なピストルを手にすることなど到底不可能だろうと考えていました。 ファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを射ってしまったとする説を唱えました。 その説が4年前に観た映画で採用され、金持ちの子供が父のピストルを持ち出し、悪友たちといたずらに撃ち、そのとき乞食のような風体で歩いていたゴッホを撃ってしまったと考えれば「つじつま」は合います。弾は子供のことですから急所をはずれ、弾の入射角も自殺にしては不自然との医師の検死結果も自殺説に合わないものと思います。本当に自殺するつもりで失敗したなら、ゴッホはもう一発を頭に打ち込むはずです。


ゴッホが歩いた広大な麦畑

 ゴッホ自身も驚いたでしょうが、その時の意識では、まさか死ぬような大事になるとは思わなかったのでしょう。本来ゴッホの人柄は極めて純粋で、相手を気遣う優しい人でしたから、そのまま家に歩いて帰り、子供たちの「いたずら、悪ふざけ」のことは誰にも話さず寝ていたようで、二日後に容態が急変し、亡くなりました。それが真相だったのではないかと思います。

 謎といえば謎ですが、未熟な男の子というのは時に小動物などに対し無意識に、残虐とは思わず「残虐性」を発揮するものです。今回のゴッホの場合、戦いや決闘に使われ、メカニックで危険な武器というピストルに対する子供たちの興味と好奇心が優先し、撃ってみたい欲求、撃った結果への興味と興奮が優先してしまったと考えられます。未熟ゆえにモラルや犯罪の意識が薄いからです。そしてやってみた「結果」に生き物の「死」を体験し、戦慄するのです。

 当時のゴッホには自殺する理由はまったくありません。確かに兄であるゴッホを愛し、終生支援し続けた弟のテオドール、愛称テオも夫婦共々貧困の中で支援の限界にきており、事実兄の死を恐らく8月に知り、翌年の1月にまさに張った糸が張り詰めて切れるように卒然と亡くなりました。兄の才能を信じ、兄を支え切った一生といえます。そこにどのような因果関係があったかは、いまや謎としかいえません。その兄弟の墓は、今はゴッホ絶筆の大作とされる「カラスの群飛ぶ麦ばたけ」(オランダ・ゴッホミュージアム所蔵)を描き上げた畑の四叉路に近い村の墓地にあります。


二人の墓と筆者

 私はゴッホの人生を想うとき、それはまさにキリストの再来を思わせる人生のように感じるのです。

 私はゴッホの伝記を読んでいて、驚いたというより感動したことがいくつかあります。若き日にゴッホは父と同じ牧師になることを夢見て勉強し、試験を受け牧師見習になります。実際に牧師助手として試用期間を働きました。ところが貧しき者がいたら真冬でも自分の着ている服を差し出し、自分は寒さに打ち震えます。飢えている者がいればその者たちに自分の食料を与えてしまうのです。それは自己保存の本能を否定する行為、本当に神のような犠牲的行為で、称賛される行為というべきものを通り越す純粋な行いで、そのようなことをされたら他の牧師たち、民衆を導く上位の立場の牧師たちの立つ瀬がなくなる訳で、そうしたことから結局試用は「不適格」ということになり、牧師不合格という結果になりました。その後、当時絵が好きだったこともあり伯父の経営する画商グーピル商会に勤務することになります。それが油彩画材との出合いになりました。

 また当時モデルでもあり、付き合っていた娼婦シーンに対しても、純粋な想いを抱いてました。
貧しき娼婦に罵詈雑言を浴びせる人々に対しキリストが言いはなった言葉「汝らのうちで罪なきものはこの女に石を投げよ」、ゴッホの純粋性は先の牧師見習いの時にもうかがえますが、人を信じ疑わない「純な眼」と同じ「優しい眼」が自然や色彩を観たのです。



ミレー作「種まく人」とゴッホの種まく人(ミレー 上、ゴッホ 下)

 それ以後ゴッホは油絵に親しみ、当時日本から輸入され始め、画家たちを熱狂させた「浮世絵」に取り憑かれます。1886年のことです。当初、「晩鐘」や「落ち穂拾い」で有名なミレーの宗教的な雰囲気の暗い作品を模範としていたゴッホは、特に広重の風景画「大橋あたけの図」や「蒲原」のブルーと黄色の反対色の取り合わせや「風や雨」の表現に心を震わせます。名所江戸百景 亀戸梅屋舗 (亀戸梅屋敷)の赤と緑も反対色の対比であり強烈です。広重や北斎が多用した色彩の対比です。


名所江戸百景 亀戸梅屋舗(亀戸梅屋敷)

 またこれはヨーロッパ絵画史にはない「風景画」、特に野外での雨の絵や雪の絵にゴッホだけでなく、後期印象派の画家すべてが驚愕します。

 ヨーロッパでは古来キリスト教を中心とした宗教画が主流であり、画家を志すにはマイスターと呼ばれる師匠の元で修業してから、各地で腕を磨き、独立する道しかありませんでした。画家は「芸術家」というより「職人」集団というべき地位にありました。食べて行くには教会の壁画や財力ある貴族や豊かな商人の肖像画、キリストの生涯、特に磔刑図などの宗教画に長けていないと生活費を得ることは出来ませんでした。

 日本や中国は自然を重視する仏教や神道、道教、禅宗など、大自然との同化、風景や雨や霧の日常的な風景画などが好まれました。それも白黒の水墨画です。ある意味、生活地盤も考え方も、宗教もまったく違い、想像もできない、別世界の絵画であった訳です。
ヨーロッパの歴史は陸続きの侵略戦争の歴史であり、その長い戦乱の時代を「中世」といい、神聖ローマ帝国皇帝という絶対王権と、それと手を結んだ教会側とのある意味癒着、堕落、搾取の時代といえます。魔女裁判や異端・異教徒狩り、宗教裁判、免罪符などその腐敗は枚挙にいとまがないほどです。とうとうボヘミア(現在のチェコ)のプラハ大学の宗教思想家ヤン・フスを火刑にすることを発端に宗教改革の火の手が上がり、 マルチン・ルターによる「宗教改革」に至ります。

 一方、そうした堕落した宗教の陰では、寒冷地で生き抜く知恵、いわゆる厳しい大自然に対抗する合理主義、論理学、科学、哲学という分野が極めて早くから発達しました。絵画は写実的に立体的な遠近法が用いられ、より見た目に忠実に描かれました。

 1886年にゴッホが眼にした浮世絵は日本の絵画の特性である「描線の美しさ」を生かし、西洋とは対照的に平面図法で描かれました。漫画の原点とされる平安時代の京都高山寺鳥羽僧正作とされる「鳥獣戯画」などにその先例がうかがえます。


「鳥獣戯画」(高山寺)

 平面的に描けば、厄介な「影(陰影)」を描く必要がありませんし、遠くを描いても小さくする必要もありません。空間の取り方により趣も増します。遠近感がなくなり、木版画に最適です。浮世絵の美人画には影がありませんし、目鼻の位置もばらばらでありながら、不思議な調和と美を表わしています。その代わり「線」の柔らかさや肥痩を美しく表現し、曲線美を繊細な筆で美しく描きました。そうした色彩の妙と反対色、ぼかし、毛彫という繊細な木版の彫刻技術にも驚愕、平面的描写と線の美しさ、不合理性にゴッホはひっくり返りました。「ゴッホ」はそこに己の行くべき道を発見したのでした。



油彩で浮世絵の独自性を模写したゴッホの作品

 一気に浮世絵にのめり込みます。他のヨーロッパの画家も同じです。ルノワール、セザンヌ、マネ、モネ、ゴーギャン、ロートレック、モジリア二、ノルウェーのムンクまでも、皆浮世絵に狂い、影響を受けました。その浮世絵の模倣を乗り切ってたどり着いたのが「後期印象派」といわれる一連の絵画です。日本文化が産み出すきっかけを与えた、新しい絵画様式です。ゴッホは憧れの日本に向かう船に乗るため、アルルまで来て、途中お金がなくなり諦めたことがあったほど日本文化に憧れ、のめり込みました。

 彼の晩年の傑作群は「ブルー」と「黄色」、いわゆる反対色によって構成されています。日本の浮世絵、特に広重から学んだ色彩、それがゴッホの絵画であり、モネ、マネ、セザンヌ、ルノワールの世界です。ですから浮世絵を生んだ日本人が彼らを大好きなのは仕方ありません。


夜のカフェテラス

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