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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第33回 猿沢池と興福寺五重塔


猿沢池と興福寺五重塔

 今回は奈良観光ではポピュラー中のポピュラーで、みなさん必ず修学旅行で訪れる、定番中の定番、奈良公園の一角、猿沢池と、興福寺五重塔をご案内いたします。

 今さら何を案内するのかといぶかられる方々もおられると思います。でも、修学旅行で訪問しても、ガイドさんから説明受けても、日本史、美術史を理解していないと分かりにくい部分もあります。

 もしご興味がおありなら、この機会に参考書や私がお勧めしている大手各出版社から出てます「漫画日本史」をとりあえずお近くの図書館から借りてお読みいただくと、これはとても分かりやすく書かれていますから馬鹿にせず、ぜひチャレンジしてみてください。そしてご興味をもたれたら、さらに岩波書店など大手学術出版社から出てます専門書に進まれると理解が深まると思います。大学受験用の山川出版社や旺文社の「詳説・日本史研究」もコンパクトで東大受験レベルまでをカバーして収録してありますから、これでもう十分であり便利です。ただ最近縄文考古学などは日々かなり進歩更新されてますから、中古書籍より新しい版のものをお読みいただく方がよろしいと思います。


春日大社の藤と鯉

 さて五重塔のある興福寺はもともと奈良時代、平安時代の絶頂期を築いた藤原氏の氏寺(国が建設した官寺とは反対に、藤原氏が一族のために建てた個人的な寺)として、確か最晩年の藤原鎌足の病気平癒のため、妻である鏡女王が天智天皇の許可をもらい近江京に近い山科に建てた藤原氏一門のための寺「山階寺」がその後、藤原京に移転され「厩坂寺(うまやさかてら)」となり、さらに藤原不比等の力により天平時代に平城京に移転、発展して今の「興福寺」として巨大化したと記憶してます。


春日大社釣灯籠

 藤原鎌足の息子の藤原不比等は仏教に熱心な聖武天皇とともに春日大社の創建や東大寺に対をなす西大寺、尼寺としての西隆寺も考えていたようで、それは娘の孝謙天皇に受け継がれ、もともと天皇家を守る神道と当時の鎮護国家の目的から仏教・神道両面から天皇家を支える基本姿勢をとり、血縁と精神面、政治力、共に強い絆で結ばれ天皇制確立のための国家ビジョンは、不比等から光明皇后を通じて孫の孝謙天皇、重祚(ちょうそ)して称徳天皇に引き継がれたといってよいでしょう。

 藤原不比等は娘を聖武天皇の妃に上らせ、義父として外祖父として実際の政治を取り仕切り、絶大な権力を持ちました。


興福寺五重塔

 現在は国の象徴として天皇制が続きますが、その確立期においての古事記、日本書紀の編纂は不比等の代表的な仕事といえますし、基本理念は現代にまで引き継がれています。こうした日本の強固な支配体勢の継続は、エチオピアに似たものはありましたが、世界史的にも稀有な存在といえます。古事記は歴史書によれば太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)による編纂とされますが、太安万侶は墓も発見され、墓誌銘も出土しており、その実在が確認されていますが、稗田阿礼は不明です。彼は役人でなんでも一度聞いたら忘れない優秀な人物とされてきましたが、それほど優秀なら他にも世に出る功績があっても良さそうですがありません。稗田阿礼は藤原不比等のペンネームと考えれば、不思議はなんらありません。ほぼ間違いないと思います。


僧・定恵(じょうえ・集古十種より)

 さらに藤原鎌足は天皇の愛した皇后以外の側室である美女に憧れ、いわゆる「拝領妻」を各天皇から戴いてるようです。もちろんそのためには、時の天皇のために粉骨砕身働きますから、天皇に受けもよく、天皇の愛妾に子ができたりしますと、後に本妻である皇后の子との後継の争い、諍いの元になり、暗殺、謀殺が起きる可能性もあり、ために大半は臣下に下賜する「拝領妻」となります。鎌足は孝徳天皇、天智天皇、天武天皇からこの「拝領妻」を戴いていたようです。一般的にはこうしたことは正史には記録がなく、不明であるケースが多いのですが、鎌足に関しては中大兄皇子、後の天智天皇に徹底的に嫌われた孝徳天皇からの拝領妻から生まれた後の僧・定恵(じょうえ)がおり、鎌足はそのあたりの事情を配慮して定恵を出家させ、遣唐使船に乗せ中国に送り遠ざけますが、修行の後に帰国した僧・定恵はあまりにも孝徳天皇に似ていたため、天智天皇に察知され、僧籍に身を置いていたにも関わらず暗殺されてしまいます。悲劇の僧・定恵です。


阿武山古墳出土の玉枕 今城塚古代歴史館の複製品

 こうした拝領妻の話は正史には出てきませんが、ある意味天皇にひそかに恩を売り、自分も天皇の美女を得ることができ、しかも出世と保身のためになるという一石三鳥以上の効果があると考えられます。藤原鎌足にしてできる離れ業であり、藤原氏発展のために考えられた、鎌足なりの権力奪取の方法、身の安全を保つ重要な処世術でもあったと考えられます。


天武天皇像と考えられる当麻寺金堂の四天王像

 さらに大海人皇子(後の天武天皇)と不比等の「海」にからむ寺院の名称や謚名などを比較考察しますと、藤原不比等は、年代的には若き日の大海人皇子、後の側室の多かった天武天皇からの拝領妻の腹にあった子の可能性が大いにあります。すると不比等が仮に天武天皇の血を引くとすれば、不比等の取り分け優れた政治力、知性、決断力、実行力、男らしさなどの、王者にふさわしい遺伝子は天武に似て素晴らしく、よく理解納得されます。また「不比等」という名前ですが、こんな不遜な名前を当時誰が付けるでしょうか?

 誰と比べても等しいことのないほど優秀な人という名前は、普通は付けません。天武天皇の血をひく子供だからこそ、付け得た名前といえます。ある意味、天武天皇への鎌足の「ゴマすり」でしょう。この問題は天皇家と藤原氏という、古代権力の確立期に両家が果たした役割において極めて大きな意味を持ちますが、今日のテーマではないので、また詳しくお話できる時があればと思いますが、日本史の裏話は事実と推理、推測をあわせて考えるととても奥深く興味深いです。

 この表面的には天皇家が創建した「春日大社」も藤原氏の陰の力を伺わせ、シンボルは「藤の花」であり、それは藤原氏の家紋でもあります。現在ではこれら五重塔や春日大社は観光ガイドのチラシやパンフレットには興福寺と並び、絶対に欠かせない奈良の観光シンボルになっています。


修復の始まった五重塔

 さて、今回の本題に入りますが、この猿沢池に隣接しセットで人気の高い興福寺五重塔は近年傷みが激しく、7月から解体修理されるため、すでに一層目(一階部分)に足場が組まれ始めました。
 私が取材で猿沢池の周りを歩いてますと、ある老人が熱心に猿沢池に映る五重塔の写真を撮影していましたから、声をかけました。
「私はもう82歳で、今の体調から考えると、10年後の五重塔をもう見ることはできそうもないから、いま写真を撮って、それを見ていたいと思ってます」と話してくれました。近隣の人たちには慣れ親しんだ風景がしばらく見れなくなるのは寂しいことのようです。


猿沢池と五重塔

 古都奈良のシンボルともいえる興福寺の五重塔(国宝)は、天平2年(西暦730年)、不比等の娘で聖武天皇の妃である光明皇后の発願で創建されたといわれます。その計画についても不比等に遡ると考えられます。それから興福寺が五度の火災、戦災に遭うたびに再建され、現存の塔は、室町時代の応永33年(1426)ごろの再建の塔とされますから、もう600年ほどの激動の時代を経ています。その間さまざまな歴史を経てきました。西暦680年の創建とされる薬師寺の最古の東塔の解体修理(平成21年~32年)の時と同じく、新たな発見や現代建築ですら遥かに及ばない素晴らしい「木材」の力を改めて知ることになるでしょう。


興福寺「金堂」

 さて興福寺といいますと聖武天皇の皇后である光明皇后発願とされる「釈迦十大弟子」ならびに「八部衆」として有名な「脱活乾漆仏(だつかつかんしつぶつ)」の一群があります。それに骨董講座の101回で掲載しました国宝・山田寺仏頭があります。

 「脱活乾漆仏」とは土で出来た概形塑像に漆に浸たした麻布を貼り、乾いたらまた貼る、それを繰り返し麻布を貼り続け、こうして適度の強度を保てる厚さ約4~5センチほどになりましたら、側面からミイラのお棺のように切り込みを入れ、開いて中の土を取り除き、中に人間の骨に当たる木組みをしっかり入れ、芯として強度を保ちます。千年以上立ち続ける強度はこうして得られました。蓋は元通りに漆で接着され、これに更に表面細部の仕上げが施されます。細かい表情や着ている服の表現には貴重な「香木」を砕いた木屑と漆を混ぜた「木糞漆(こくそうるし)」すなはち現代流にいう「漆のパテ」を盛り、表情や衣紋を整え、乾いたら仕上げてそこに金箔や彩色を施し完成します。木糞漆には表情をまろやかに表現できる特長があります。「釈迦十大弟子」の1人「須菩提」の柔らかい頬の表現が可能になります。


阿修羅のポスター

 中が空洞で木の骨に支えられる「脱活乾漆仏」は銅や一木作りの仏像よりはるかに軽いため、数度の火災の折に、僧たちにより焼ける寺院から運び出され、猿沢池に投げ込まれ、消失の難を逃れました。数度にわたる火災の度に長く水の中に「保存」されたため、これら脱活乾漆仏は、今に至り傷みが激しく、胴から下が腐食したり、中の木組の腐食破損がはげしく、阿修羅も六本の手は大半欠けたり、消失したりして、後に精密に修復されていはいますが、苦難の歴史を物語っています。

 五重塔の歴史も明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・天皇制復活に伴う仏教排除運動)の流れから、塔を燃やしてしまおうという計画もあったといわれます。天皇制復活の明治初期に数々の寺院や素晴らしい仏像、仏教美術の数々がこの廃仏毀釈により消失しましたのは、痛恨の極みです。


三月堂「不空羂索観音菩薩」

 脱活乾漆仏の技法は天平時代の製法として、古美術鑑定の特徴を備えた極めて重要な制作となり、数が少なく素材的に高価であるとともに貴重で手間がかかり、大半が「国宝指定」されています。この「脱活乾漆仏」の技法で制作され、一番人気が高いのがやはり「阿修羅」で、私も素晴らしい密教仏と思いますが、私の個人的好みにおいてさらに素晴らしい「脱活乾漆仏」は東大寺三月堂の主尊、日本では「不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩」や、「不空羂索観世音菩薩」などさまざまな呼称がありますが、こちらがもともと私の好みであり、三月堂に入りますと、数々のひれ伏したくなるような「威厳」ある奈良時代の諸尊に対面することになります。このお堂の主尊名の「不空」とは「むなしからず」、従って、不空羂索観音とは「心に不空の羂索(網)をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味します。威厳ある素晴らしい仏さまです。

 藤原氏がこうした仏教を守る、いわば代表的な「守護神」としての「釈迦十大弟子」ならびに「八部衆」を制作したのは、大切な天皇(釈迦の象徴)を守るのは藤原氏であるという自負からであると考えられます。


釈迦像(ガンダーラ)

 猿沢池周辺では、しばらく「奈良市の象徴」である「五重塔」を解体修理のため見れなくなりますから、その解体修理の様子などの機会は稀ですから、お時間がありましたら奈良にお出かけいただき、「国宝館」の国宝群とともに拝見していただき、猿沢池の時の流れを体験していただきたいと思います。


猿沢池と鹿

※こちらをクリックしますと同じ著者によります「掌の骨董・第101回目」にリンクできます。


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