文化講座
第47回 「歎異抄」を書いた唯円の道場跡を訪ねて

唯円の道場跡
いま水戸にいます。親鸞上人の稲田草庵(西念寺)は余りにも有名で、こちらについては皆さんよくご存じで、触れるのはまたの機会にいたしまして、今回は、あまり皆さんが行かないと思われます「歎異抄」を書いたとされる唯円の道場跡を訪ねてみたいと思います。唯円は「歎異抄」を書いたことでも重要であり、極めて大切な弟子の一人といえます。近年「如信」著者説が出てきてます。今後調べてみる必要があります。

親鸞上人像(報仏寺)
「歎異抄」は弟子の唯円が、師の親鸞上人がお亡くなりになった後、上人の教えが乱れたことを嘆いて、本来のあるべき姿に戻したいという意味から書かれたといわれている書物で、浄土真宗にとっても大きく貢献し、宗徒以外の多くの方々が感動する「名著」とされてきました。ぜひこの機会に読んで欲しいし、読み直しして欲しいものです。
唯円といいますと、作家倉田百三の書いた「出家とその弟子」を思い出します。そこに我々は親鸞を慕う、唯円という優しい色白な美男青年を思い浮かべましたが、違ったみたいです。
仏教研究者の紀野一義先生の「わが親鸞」(PHP研究所・発行)を参考に引用させてもらいますと
「平次郎(後の唯円)という放埒無慚な男で、好んで殺生したという。しかし平次郎の妻は深く親鸞に帰依し、いただいた十字の名号を隠れて拝んでいた。あるときそれを見つけた平次郎は、妻が情夫の手紙を読んでいるものと邪推して惨殺する。その死骸を、裏の竹藪に埋めて家に帰ってくると、驚くべし、妻はちゃんとそこにいる。仰天した平次郎が、さっき死骸を埋めた竹藪を掘り返したところ、血に染まった十字の名号、『帰命尽十方無碍光如来』(筆者注・きみょうじんじっぽうむげこうにょらい。阿弥陀如来の発する十二光の光で、何ものにも妨げられない救いの光明とされる。)と記した名号が出て来たという。名号が妻の身代わりになったというのである」

帰命尽十方無碍光如来 十字名号 覚如上人筆
こういう話が出来上がるということは、唯円にはもともとそうした狂暴性があったからであろう。激しい性格ゆえに、親鸞のような絶対的な力と人間的魅力を持った正しい人間に傾倒すると、いとも簡単に、真剣に親鸞の教えに帰依したいと考えるものなのです。自分のことを「愚かな坊主、愚禿」とした師の親鸞のように、唯円も深く、これまでの放埒な人生を反省して、親鸞に心から深く帰依したものと考えられます。道場に隣接した場所に「心字型池」がありますが、まさに唯円の親鸞への純なる「心」が、この池に託されているように思います。
また、弟子を多数親鸞に取られたと勘違いした弁円なる修験者が親鸞を逆恨みして殺そうと待ち伏せしたり、国道50号線に近い羽黒駅から歩ける大覚寺の山中に「護摩壇」を築き、呪詛したりしましたが、親鸞に見抜かれたかどうかは分かりませんが、どれも効果も成果もなく、うまく行かないとみると、直接親鸞の稲田草庵に乗り込んできて、親鸞を殺そうとしました。「御伝鈔」第三段によりますと、親鸞上人を殺そうと待ち伏せしたりしましたが、思うように行かず、直接会って決着を付けようと乗り込んだ弁円に、堂々と落ち着いて上人はお会いになった。その尊顔を拝し、上人の後ろに広がっている見当もつかない途方もなく大きな世界に威圧され、害心たちまちに消滅して、後悔の涙を流し、武器を捨て、頭巾をとり、柿衣を改めて、仏教に帰依したという。これが明法坊であった、とあります。明法坊は後に那珂郡大宮町東野に法徳院という寺を建て、建長三年に往生をとげたといいます。

南無阿弥陀仏 六字名号 親鸞上人筆 親鸞全集より
このように、親鸞上人の周りには悔い改めた人が多くいます。親鸞は、阿弥陀の本願に動かされて生きている自分、親鸞をさまたげるようなものはなにもないと信じて、毅然とどのような相手にも接してきたようです。その上人の迫力に気圧されたのでしょう。
その親鸞の信仰心は「南無阿弥陀仏」、「帰命尽十方無碍光如来」すなはち阿弥陀仏に帰依し奉る、無条件に阿弥陀如来におすがりする、絶対他力なのです。師の法然からも「(理由はない)私について来なさい」と言われ、親鸞も一言「承りました」と返事している。
その親鸞の教えは、極めてシンプルで「阿弥陀様に、ただひたすらおすがり」して、自分であれこれ工夫して浄土に行けるように考えて、作為をしてはいけないのです。

親鸞上人座像 親鸞全集より
「歎異抄」冒頭にあるように、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人おや。」
この場合の「善人」とは「自力作善の人」をいい、「悪人」は「自分の無力を覚り、阿弥陀仏にひたすら帰依し、おすがりする人」だから善人でさえ、あの世に往生できるのだから、悪人はなおさら往生をとげることができる、といいます。貧しく日々の暮らしに追われ、罪深き「悪人」である貧しき人々にとり「死後の地獄」は恐ろしく、死の恐怖だけが唯一の心配でした。親鸞は、ただ「南無阿弥陀」と唱えるだけで、阿弥陀様が極楽に連れて行ってくれる、安心しなさい、ひたすら「南無阿弥陀仏」こう唱えなさいと教えたのです。
しかし私は親鸞はあの世があるかどうかについては確信を持っていたかどうかは不明であったろうと考えてます。前にも書きましたように、仏教の開祖の釈迦ですら、私は死んだことがないから、地獄や極楽があるか分からない、と述べてるからであり、自身もいくら考えても行ったことも、見たこともないので、分からなかったのです。その時に法然に会い、その人格から「絶対他力」に帰依し、阿弥陀の世界を信じることにして、法然上人に従うことを「約束」したのである。更に人々の阿弥陀様を信じ、悦ぶ姿をみるにつけ、彼らが「幸せな死」を迎えられることが、何よりも大切なことだと親鸞は認識したのではないか?そう思います。現代でもいわゆる「信じる者は救われる」がそれですが、宗教家である親鸞は、まず人々の希望のある来世を想い、ひいては今を生きて、阿弥陀仏に導かれ、「幸せな死」を迎えることは一番大切だと考えるに至ったのではないか、こう私は考えます。

大覚寺裏山山奥の「親鸞上人を呪詛しようとした、修験道の護摩壇跡」
唯円は水戸駅に近い「報仏寺」の創建に関係し、仏像の台座にその旨が記されてます。500m程先に「道場」を開き、信者に正しい師の教えを広めようとしました。今は「道場の跡」は周りが荒れ地になり、草ぼうぼうであるが、この地はかつて唯円が道場を開いたときは、周辺に日常生活品を売る大きな市がたったらしく、人びとがたくさん集う、賑わう場所だったらしい。しかし今は石碑とかつての「心字池」の跡らしい、人には池とは思えないどぶ沼のような水溜まりがあるに過ぎませんが、しかし唯円を忍ぶ数少ない貴重な遺跡といえます。東京なら、とっくの昔に都市化の波に飲み込まれ、消滅しているであろうこうした鎌倉時代の遺跡が、現在もそのままあり、水も存在していることが「奇跡的」ともいえます。
なお、唯円の墓は、ほとんど知られていません。亡くなるまで放浪して、最後の地である奈良県吉野町にあり、いろいろ諸国を放浪して歩く元気な僧であったように思われます。いつかこちらでまた取り上げたいと思います。

「心字池」の今
場所・報仏寺
〒311-4153 茨城県水戸市河和田町887
029-251-5789
道場所在地・水戸市河和田町榎本3670のロ 広大な草原の真ん中に小さな森があり、良くわかります
共に交通アクセス・JR水戸駅北口よりタクシーで約16分。タクシーに乗る前に帰りはあらかじめ電話番号を控えておき、電話して来てもらえるよう折衝してから乗るとよい。