文化講座
第46回 安倍晴明神社と利休切腹の謎についての一考察
安倍晴明神社と晴明の像 五芒星が見える。
かつて平安時代の陰陽師、占い師であった安倍晴明の神社の鉄扉には丸にユダヤの護符「五芒星」が透かし彫りされていたことから、私は陰陽師という職業柄、安倍晴明はユダヤ人の血を引く占星術の専門家であったと思っていました。なぜなら、五芒星によく似た「六芒星」こそが、ユダヤ国家である「イスラエル」の国旗に描かれるシンボルであるからで、更に安倍晴明の父とされる保名は姓(かばね)は忌寸(いみき)ともいわれ、加茂氏の出ともいわれます。その加茂氏は大和創成の三輪一族とも関係が深く、葛城山の役行者の一族ともされていて、後の空海と同じように山岳信仰の祖とされています。また忌寸という姓は渡来系氏族に与えられたものとされていますから、そうした氏族であったことは確かです。山岳信仰とはある意味隠れ簑の名称であり、もともと山を歩き、調べ、銅とか金銀などの貴金属を探す「鉱物探査」を目的とするグループ、いわゆる「山師」であり、その探査技術は門外不出の「特殊技能」とされ、かれら技術集団は、出雲の鉄の精錬技術と同じように、渡来系の特殊技能集団、すなはちユダヤ系の人たちで固められていたと推定されます。
晴明を慕ってお参りをする人々
古い時代のことになりますが、聖徳太子も中央アジアから渡来したペルシャ系 突厥(とっけつ・現在のトルコ共和国の東あたり)の王族の出であるといわれています。
いってみれば飛鳥時代そのものが、日本を舞台に世界各地から集まった「得体の知れない」渡来系王族や豪族たちによる権力闘争の時代であり、日本国創成期の時代であったともいえます。活躍した秦氏はその名の通り、秦の始皇帝の一族といわれ、始皇帝は目の色がブルーであったと伝わりますから、父母のどちらか、おそらく母がシルクロードを来たユダヤかアーリア系の女性と推定されます。大津皇子の恋人であった山邊皇女もペルシャ王族の血をひく碧眼の美女であったといわれています。日本古代史に登場する孝徳天皇、舒明天皇、斉明天皇、天智天皇は朝鮮半島から渡来した王族ですし、後の天武天皇すなはち大海人皇子は高句麗の武将、盖蘇文(がいそぶん)であるとの説が強いです。いまや中大兄皇子と大海人皇子は、実の兄弟などではないことは周知の事実ですし、それどころか大海人皇子の方が年長であったともいわれています。
トケイヤーはこの本で、日本文化とヘブライ文化が近しいことを証明した。
今から35年ほど前のことですが、ユダヤ教牧師のマーヴィン・トケイヤー師が日本に布教にやって来られ、後に日本はまさに言語も文化も「古代ヘブライ語」、ユダヤ文化であると驚かれ、日本文化の中に残る「ヘブライ文化・ユダヤ文化」について研究されて本に書かれました。私はそのことを検証している中で、京都、すなはち平安時代の文化の背景をなす、古代ヘブライ文化、ユダヤ文化に気がつきました。
境内の大楠に歴史を感じる
最近流行りのNHK大河ドラマの「光る君へ」の中で、藤原道長の占い師として安倍晴明が登場しますが、道長は彼を稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。当時の境内は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、かなり広大で、勢力を持っていたようです。しかし度重なる戦火や、後にキリシタン来日が日本の侵略を目的としたものであるとして、外来勢力を厳しく弾圧した豊臣秀吉により次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となり、衰退しました。もともとこの「稲荷社」にしても、マーヴィン・トケイヤー師によれば、「神社」は古代ヘブライ神殿と建物の配置がそっくりで、宗教的にも似ているし、日本語には古代ヘブライ語とそっくりな言葉がたくさん残っているとしています。かねてから「日本語」は「中国語」や「韓国語(古代朝鮮語)」とも違い、そのルーツは不明とされて来ました。しかしトケイヤー師の著作から、古代ヘブライ語にルーツがありそうだとわかりました。そのように日本はヘブライの影響を受けていたのであるなら、ユダヤ文化としての神社、占いや占星術、陰陽道が日本文化の根本にあるのは当然であり、古代エジプトと文化的に繋がっていても不思議はありません。
庶民の願い 護符でもある五芒星がみえる
そのような経緯で桃山時代には安倍晴明神社に隣接して千利休の屋敷が設けられていたことから利休と安倍晴明神社、すなはちユダヤ、キリシタンとの関係が考えられることにも興味を覚えました。実は利休はキリシタンに改宗していたという説は昔からあり、それも当時の利休をとりまく人間模様、とりわけ重要な戦力として信長から注目されてきた鉄砲取引から現実味を帯びてきます。国際貿易港、堺の商人としてそれら貿易に深く関わった利休ですが、そう考えますと、利休が秀吉から切腹を言い渡されるに至る経緯、その事件もあるいは違う側面が見えてくるのではないかと思えるのです。
桃山時代はたくさんの重要な宣教師たちがたくさん日本に来た時代であり、合理的な思考をする信長は新しい西洋文化、世界を知りたいためにバテレン宣教師に近づき、キリスト教の布教を許したほどであり、そうした風潮から大名の中にはキリシタンに改宗する者たちがたくさん出てきました。秀吉子飼いの古田織部の茶道や、好みにもそれが伺えます。更に織部の師である利休は堺の主要商人であり、博識な人物、聡明な茶人として高名で、最先端の国際情勢に精通していました。信長は利休を自分のめざす全国制覇に欠かせない人物として見ていましたし、またたくさんの鉄砲を独占しようとしたことから、堺の商売からも最重要人物でした。信長の戦略的、文化的ブレーンでもあった利休は、鉄砲の受注を独占していた宣教師たちに近づきました。
晴明神社への案内プレート
秀吉は心の安らぎを与えるキリスト教宣教師が、率先して裏で人を殺す武器の商人であることの矛盾に疑問を持ったようです。また家康も後にオランダの航海士のヤン・ヨーステンからポルトガル宣教師たちはローマカトリックより日本を植民地にする密命を帯びて来ていることを知り、徹底弾圧をします。まだ当時の利休はそんな宣教師たちとの折衝、関係をより円滑にするためにキリシタンに近づき、さらにより親密になる必要性から改宗した可能性も否定できません。ロザリオを手にする利休と思われる絵も残っており、彼のキリスト教そのものと文化、美術、宗教への強い関心もあった可能性も否定することはできません。
「黄金の美」は桃山時代の美学そのものであり、それはまさに外国からもたらされたローマカトリックの総本山、バチカンの壮麗な美術、カトリック美学そのものでした。画期的な安土桃山城の中層の大空間はバチカンの壮大な建築空間から着想を得たとも言われています。さらに利休は後に秀吉の命で「黄金の茶室」を制作しており、宗教そのものというより、そうしたキリスト教黄金文化に強い美的関心を抱き、茶道に新たな工夫を考えていたと思われます。
安土桃山時代の城
私は子供のころから宇宙には大変興味を持ってますが、本当の意味で宇宙の神秘というものを知ったのは、20歳の時の夏休みに友人と岩手県岩泉町の龍泉洞(本稿連載第1回目参照)を見学してその美しさに見惚れて、うっかり次の宿泊地、久慈行き最終バスに乗り遅れ、やむなく野宿した折に山間の公園のベンチに寝ながら観た銀河のすごさで、まさに手で取れそうなくらいにギラギラとダイヤモンドのように光り輝く星々に、これが宇宙の神秘というものかと、本当に感動しました。神様がこの素晴らしい「星空」を私に見せるためにバスに乗り遅らせたのだと感謝しました。古代の時代は空気もクリアーで、人々は周りが暗い漆黒の夜に、宇宙の神秘を目の当たりにして、幾億もの星々の輝きと壮大な運行の様子に神を感じ、守られていると誰しもが想いを馳せ、永遠という「時の意味」を考えたに違いありません。占星術、陰陽道などはこうして出来上がってきたのでしょう。
それがさらに証明できたのが、それから15年後、35歳の時に、エジプトをナイル上流のアブ・シンベル神殿、アスワンハイダムからカイロまでの遺跡を船旅をした折に王家の谷でツタンカーメン王の玄室(ミイラ安置室)の天井に無数の星が描かれているのを見て、その学生時代の時の感動が再び呼び覚まされました。古代エジプト人たちは宇宙から神話や神を作り出し、その考え方はギリシャに引き継がれ、神々の星座が形成されました。しかし、人類の神々、本当の祖先はいまだ分かりません。「猿」などではなく、もともと、発生した時から優れたDNAをホモサピエンスは継承していることが分かってきました。ダーウィンの進化論は最近は否定されています。最新の研究では、今もいる猿やゴリラ、チンパンジーはいつまでたっても猿であり、突然変異で人間になることは決してないそうです。そうしますと、SFではありませんが、ホモサピエンス、いわゆる近代人は宇宙から来た優秀な生命体による遺伝子操作により「創られた」可能性も1%くらいあるかもしれず、そんな我々の祖先は、生まれ故郷であるかもしれない未知なる宇宙空間の星々に守られ、憧れたり、守り神、護符ともしながら、宇宙へ思いを馳せてきたのだとも考えられます。後に話題になったドイツの空想科学者であるエーリッヒ・フォン・デニケンが指摘したように、ピラミッドやナスカの地上絵の宇宙人建造説やアフリカの太古の壁画や現地人に伝わる祭りの踊りに描かれる、宇宙服を着たと思われる「宇宙飛行士」そっくりの姿などから「宇宙人」を空想してしまいます。
五芒星とイスラエル国旗の六芒星
後に平安時代のユダヤの子孫とおもわれる安倍晴明が占いのマークにユダヤの五芒星を使いますが、その重なりがない星の図に似た「大」の字がツタンカーメン王の死後の玄室の天井にびっしり描かれていました。私はそれを見て本当にビックリしました。これはもう宗教を超越した、ある意味宇宙文化であると確信しました。他のファラオたちの地下墓もほぼ同じです。京都の「大文字焼」や赤ちゃんの神社への初詣の折りに額に赤い「大」を書くのも同じ安倍晴明の思想、すなはちルーツはエジプト、ユダヤと考えられます。赤色は羊の血を意味し、みなさんご存知の旧約聖書に描かれる「過ぎ越しの儀式」の魔よけの「血」と同じ思想の流れと考えられ、安倍晴明の先祖であるユダヤにより日本に定着したものと考えられます。
もちろん無数の星のなかでもエジプトが一番大切に考えたのが「不動の星・北極星」でした。クフ王のピラミッドには王の星、北極星の光がわずかに、計算された細い空間を通して内部の部屋からも見れるように方位、角度、空間が計算されて造られています。ものすごい技術です。日本の高松塚古墳やキトラ古墳の天井にも「宿星図」が描かれ、それらは高句麗系古墳とされています。不動の星座、北斗七星と北極星が描かれます。それは日本の最高権力者である「天皇」の死後の世界を守ってくれる、宇宙の中のまん中の星、北極星でした。従いまして高松塚古墳、キトラ古墳は、ともに大化の薄葬令後の制約を受けた「天皇陵」であったことは確実です。
日本では宇宙の支配者としての北極星=不動の星=天皇=宇という図式となり、これは大切な宇宙への畏敬、すなはち天皇への畏敬に変化していきます。まさに「宇」には大きな屋根の下、ひさし、軒、屋根、堂宇・屋宇(おくう)・眉宇(びう)という意味があります。それもまったく同じです。
世界を一つに「統合」する八紘一宇(はっこういちう)の考え方と不動の天子の星、北極星一つ、唯一不動の天皇の下に、すべての家臣から民までが一つの屋根の下に集まる考え方が八紘一宇であるのです。
倭の五王の最初の「讃」としての神功皇后の子、應神天皇辺りから実在天皇という説もあります。そういう意味からも福岡にあります古社「宇美神社」は大切な場所のように思えます。こちらについてはご縁もあり、今後勉強してまた書いてみたいと考えてます。私の観たところ、太宰府天満宮の楠木より遥かに古く、太い大木がたくさんあり、私は眼を瞠(みは)りました。
宇美神社の大楠木
さて、神功皇后は卑弥呼であったという説もあり、奈良櫻井の「箸墓(はしはか)古墳」がその卑弥呼の墓であるとの説もあります。應神陵も前方後円墳として大阪にありますが、私は天皇を尊い血筋として権力が形成されてゆく過程で、古い「観世音寺」を中心とした太宰府政権が東に残る古い縄文勢力を制圧し勢力を拡大させる必要性から大和に移り、ユダヤ文化と共にエジプトの「権力形態」が伝えられ、後に藤原不比等により、天皇制の確立に寄与した可能性は極めて大きいと考えてます。
オシリス神
まさに仏教の思想背景をたどりますと、釈迦はインド人ではなく、紀元前1700年くらい前に、メソポタミアから渡来してインドを征服、支配してカースト制度をつくったインドアーリア系人種の子孫です。そんな特権階級である釈迦より更に古いメソポタミア人の思想背景にもつながるエジプトの古い阿弥陀思想の原点としてのオシリス神にたどり着きますから、思想的には一番古く、人類の歴史の遥かな悠久の時間の中で変化しつつ、一つの大きな源、すなはち最重要な一つの原点、「再生復活」すなはち権力者の究極の願い「再生(復活)」することに「宗教」は集約されそうです。ミイラはまさにそうした目的から保存され、復活を目指した星への憧れ、悠久なる復活の時、「宇」はまさにそう言える意味、すなはち永遠なる「生命」、「永遠なる時空を超えた権力と唯一の支配体制」を表す字体、意味なのではないかと考えます。
現代の考えでは、死んだ人間は決して生き返ることはありませんが、何故かキリストはパウロも信じたように、磔に処された後に、墓から奇跡的に生き返り、「復活」をなしとげ、まさにその「奇跡」がその後の信仰のバックボーンとなっています。その不合理性から何らかの「トリック」があったのではないか、と考える研究者も出てきています。
安倍晴明神社に近いところに、一条戻り橋があり、実は利休切腹(1591年(天正19年))後に、その切腹の原因の大きな一因をなしたと考えられる大徳寺山門の利休木像がその橋のたもとに「磔(はりつけ)」になりました。なぜ安倍晴明神社に近い「一条戻り橋」が選ばれたのか、またなぜキリスト教徒と同じ「磔」に利休は処せられたのか?
一条戻り橋
私は秀吉が信長政権下に、日本を植民地化することを目的に来日しキリスト教を布教したバテレンを次々に逮捕して処刑、世に厳しく告示した「キリシタン」禁教令を利休は無視し、棄教せず秀吉に逆らったことが「利休切腹」の裏の大きな理由の一因であったのではないかとも考えてます。
(注)天正15年(1587年)、秀吉はバテレン追放令を発して、宣教師によるキリスト教の布教を禁止した。 これによりキリスト教は弾圧され、秀吉の死の直前である慶長元年(1596年)12月には、「二十六人聖人殉教事件」によって、26 人の宣教師や信徒を磔にて処刑しています。
仮に利休が洗礼を受けていたとして、なぜキリシタンである商人利休に、武士に与えられる「切腹」をさせたのか、そして武士として切腹させた利休の木像をキリシタンとして、再度「磔」にしたのか、これも不思議といえば不思議です。こう考えますと「利休=キリシタン」説は、ますます大きな重みを持ってくることになります。
ここで読者の、みなさんの参考に、利休切腹の原因をいくつか列記してみますので、参考にしてみてください。
秀吉と利休の確執、切腹の原因と考えられる事柄。
①利休は信長を敬い、秀吉をその出自からか、一時は親しんだが、やはり生き方、感性の違いから離れていった。それは信長の報酬より秀吉は10倍の綠高を与えたが、少しも感謝されてなく、種々コケにされていたのではないかと思われることからも分かる。
②信長の鉄砲への執着から、利休はバテレンに接近し、結果として利休はキリシタン文化に接近し、キリスト教への改宗をした可能性があるといえそうだ。後に秀吉は宣教師たちの日本侵略目的を知りキリシタン宣教師や信者を弾圧したが、それが利休を次第に精神的に追い詰めていったとも考えられる。
③利休の娘のおさん、今東光は「お吟さま」としているが、そのおさんを秀吉が側室に所望したが、利休に断られている。その「主」としての屈辱感。
④大衆にも開かれた北野の大茶会を秀吉により中止にされ、利休はメンツを潰された。利休は茶道の一般化を、秀吉は特権としての茶道を目指し、その齟齬があったと考えられる。
⑤秀吉には利休を上回る茶道における美的センスや、鑑識眼がなく、常に利休に対しコンプレックスを抱いていた。
⑥石田三成はそうした利休の「思い上がり」を側近として観ていて、無礼であると考え、利休寄贈による大徳寺山門に対する寺から感謝の意味から贈られた木造が山門上にあることから一計を図り、下を通る主君秀吉を見下ろしていることを「不敬罪」として取り上げ、告訴した。
⑦これまで何かと利休を擁護してくれてきた秀吉の弟秀長が亡くなったことも利休には不利であった。利休は意地を通し、死を覚悟して、決して命乞いをしなかった。権力者として切腹を命じた方が「負け」という自負もあった。死しても「茶道」(芸術)が権力に屈しないことを世に示した。秀吉には理解し難い利休の美学であったといえる。
⑧朝鮮出兵を、無謀であると利休に反対された。秀吉は出兵を強行したが、利休の予測通りに失敗したというコンプレックス。
このように利休と秀吉の間には様々な男の意地の張り合い、確執があったように思われます。利休と秀吉との関係は、未だ完全には解明されておらず、共に政治的、芸術的な生き方のギリギリをゆく鋭い人間同士の極めて興味深い世界がそこにはあり、私もこれからも研究していきたいと思っています。
一条戻り橋の桜
●安倍晴明神社と一条戻り橋への交通
JR京都駅前から市バス9系統「一条戻橋・晴明神社前」下車。「一条戻り橋」は南に50メートルの場所にあります。桜のきれいな場所です。車でのお出かけの場合は一条戻り橋近辺に時間貸駐車場が、いくつかあります。
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