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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第41回 大和三山を訪ねる・「天香久山」についての試論《3・最終回》


エジプトの権威と力の象徴「ライオン」。セクメト女神(イタリア・トリノエジプト博物館蔵)

 壬申の乱から、私がいまもっとも興味を持ってる高市皇子と天武天皇一族、藤原不比等を中心に考えて来ました。当時の天皇は実行力も権力欲も性欲も旺盛で、力あるライオンの雄と同じように、子孫を残すためにたくさんの雌ライオンを独占し、強い子供をたくさん作りましたから、天武天皇の皇后鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)として、日本書紀にいう持統天皇の立場から、彼女が天武天皇の跡取りを殺すことに私は大きな疑問を感じていました。女性同士、ライバル側室への恨みからなら則天武后や西太后という例もありますが、自分が生んだ草壁皇子という跡取りがいる以上、その子はかわいいし、余程のことがない限り、他の跡取りを殺すまでの理由はないと思います。私は高市皇子=持統天皇と仮定することにより、これまでのモヤモヤが一気に晴れました。


消された高市天皇の夢「大官大寺」跡に立つ完成予想図

 前述しましたように、かねてより草壁皇子が埋葬された古墳とされてきた奈良県高取町の束明神塚古墳から掘り出された遺骨から高濃度の鉛が検出されています。この古墳は昔から草壁皇子の墓と推定されてきています。敷衍して考えますと、きっと草壁皇子には長期にわたり食事に遅効性の毒薬である微量の鉛が入れられ続け、天武天皇と鸕野讃良皇女、共に元気な両親の子として本来元気に生まれたはずの草壁皇子は鉛中毒により徐々に体が蝕まれていったのでしょう。当時は「病気」としてしか分かりませんでしたが、私はその鉛成分が検出された骨の記事を読んだとき、閃いたのが天皇の位に執着する高市皇子の関与でした。そう仮定すれば、かなり前から、草壁皇子に仕える食事係りの料理人か、それに関わる女性を高額の金品にて籠絡させ、微量の鉛粉末を草壁皇子の食事に長期にわたり混入させれば、時間はかかりますが、毒味役がいても覚られずに「病気」として殺害することが十分可能と考えたからです。そしてまさに大津を謀殺する都合の良いタイミングで「草壁皇子」は、それまでより多めの鉛を飲まされ「毒殺」されたと推測されます。高市皇子が一挙に天武の約束した即位の順番に則り「正当」に「持統天皇」として皇位に就いた、こう仮定しますとやはりここまでの「経緯」で一番利益を得る高市皇子への疑いが加速することになります。極めて用心深く、猜疑心の強い藤原不比等をも欺いた極めて巧妙な手口です。さらにそう仮定しますと大津皇子など天武天皇の血脈を消してゆく一連の謀殺の主犯としての「持統天皇」=高市皇子の疑いがますます濃厚になります。大津を処刑した段階では、不比等、鸕野讃良皇女には草壁皇子の即位があり、利はありましたから、騒ぎ立ててはいません。まさに一連の暗殺が可能な立場はまさに警察権力、軍事権力を一手に掌握する唯一「天皇」の立場、あるいはそれに準じる力を正当なる理由、今回は天武天皇を謀殺したこと、更に殯において遺骨を荒らした不敬罪を理由に護衛のいない時に逮捕、刑死させています。それには軍事警察権力を一時に使わないとできません。現代のように「司法」「立法」「行政」の「三権分立」がなされていない「古代王権」の時代ですから、逆に「軍事力・警察権力」を手にすれば、権力者としての天皇の位に近い立場なら、自分に反対する人間を「謀殺」するための理由はいくらでもでっち上げることは可能だということです。そう考えると恐ろしい時代です。

 後に高市皇子の子の長屋王が一族皆殺しに遇う「長屋王の変」はまさに「天皇家を呪詛した」という、今なら理不尽極まる誣告が発端であり、長屋王に近い人間の訴えによる訳で、その背後に最高権力者としての天皇一族の意志がある以上、これは理屈ではなく、さすがに権勢を誇る長屋王であっても逃れることはできず「観念する」しかなかったようです。指揮をしたのは不比等の遺志を継いだ天武の息子の舎人親王でした。ここにも不比等や舎人親王という天武サイドからによる高市持統天皇(天智天皇系)とその子の長屋王への遺恨が感じられます。


広大な長屋王邸宅跡に建つ奈良市「ミ・ナーラ」とその駐車場

 後に天武天皇の息子、位の高い弓削皇子も親友の裏切り「誣告」により、後の文武天皇と皇位を争う素振りを見せたというだけで処刑されています。このように密告、誣告が原因で政界から遠ざけられたり、女性問題、男性問題などの「不倫・スキャンダル問題」もそこに絡み、発覚して自害、処刑されるケースは数知れずあったと考えられます。軍事力、警察権力を掌握すれば、怖いものなしです。すべてそうした背後には人間としての「過去の恨みや権力志向」があります。こうした流れからも、ますます高市皇子は「持統天皇」であった可能性は高くなります。

 一連の動きから考察すると、鸕野讃良皇后は、事実飛鳥から出て、頻繁すぎるほど、30回以上聖地・吉野宮に行幸、といようよりほぼ引きこもったという理由も分かります。鸕野讃良皇后が天皇であったなら、都を留守にして、これだけ頻繁に吉野に籠ることは政治的に許されません。それは高市皇子すなはち持統天皇の政治を恐れて、とりあえず「恭順の意」を表明し、息子草壁皇子の喪に服するように安全地帯へ逃避したと考えられるからです。藤原不比等とひっそり息をひそめ、期待の草壁皇子に先立たれ(毒殺され)「次の機会」、最後の砦である天武の息子の一人、文武の即位を願いながら、成り行きを「安全地帯」吉野で息を殺して見守ると共に、頭脳明晰な藤原不比等のこと、高市皇子の大津皇子謀殺から一連の即位に至る「陰謀」を見抜き、さらに大事な一人息子、草壁皇子を毒殺された鸕野讃良皇后の怨み骨髄から「高市持統朝」打倒の秘策、すなはち高市暗殺計画を練っていたに違いありません。


鸕野讃良皇后と不比等が隠棲した吉野清滝あたり

 高市持統朝の成立、その立証となる一つの歌が、先の持統天皇の御歌となります。

「春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山」 (持統天皇御製)

 この歌について、小林恵子先生は、著書の中で先の解釈をしながら、こう述べています。

 天武天皇を象徴する春が終わり、大津皇子を象徴する夏が過ぎて、とうとう天智天皇の正当なる後継者としての血筋を受け継ぐ私、高市皇子が天香久山で「持統天皇」として、天智天皇以来の軍旗「白旗」を掲げ即位することとなった、という勝利宣言の歌であると。


大官大寺跡の石碑から見た天香久山

 ここで、日本の古代史最大のミステリー、壬申の乱から藤原氏による天皇家の権力獲得の歴史をまとめてみましょう。

 壬申の乱において、弟の弘文天皇を裏切り、自らが皇位を狙う高市皇子を欺き、我が娘十市皇女を利用してまで皇位を簒奪して即位した天武は、騙した高市皇子への後ろめたさと彼の怒りを抑えるために、自分の後の皇位を受け継ぐ順番を決めました。

 1位は長男としての大津皇子 2位は正妻皇后の生んだ草壁皇子 3位に高市皇子とすることで高市皇子をしぶしぶ納得させたと考えられます。したがって中年の歳になってきた高市皇子はやや焦り、自分の即位をより早めるために1位の大津皇子王朝を父天武天皇の殺害に荷担した反逆罪、さらに天武の殯宮で遺体を傷つけたという不敬罪で冤罪・死罪に追い込み(高松塚古墳内の天武天皇の遺骨はバラバラに荒らされ、頭骨もなかったという、その真犯人は天武を一番憎み、大津失脚を仕組んだ高市皇子ということになります)、更に2位の草壁皇子を早くから遅効性の毒、すなはち鉛の毒で「病気」に仕立て、大津謀殺のタイミングに併せて草壁毒殺を完了させ、高市皇子が正当にしかも一挙に「持統天皇」として天皇に即位したと仮定すれば、すべての経緯における利害「つじつま」が完全に合ってきます。そしてそれらはすべて「持統天皇」すなはち高市天皇の即位に向けて、まさに精密に計算され尽くされたような経緯をたどり、「高市持統天皇」の即位、まさに日月を支配する大王の誕生に繋がったと考えられます。

 太陽のシンボルである天岩戸は「天香久山」に南面して造営し、夜の月は「月の誕生石」から生まれ、その巨石は正に「天香久山」の北側、夜の位置に坐します。


月の誕生石

 明日香の天香久山の御神体ともいうべき「天岩戸」や「月の誕生石」を背にして宮殿を建てた高市持統天皇は更に自己の邸宅に南面する巨大な「大官大寺」の造営に力を入れ、大半を完成させます。それは祖父舒明天皇から引き継いだ高市持統天皇の「使命」ともいうべきものでした。しかし絶頂期の高市持統天皇及び皇后の謎の急死(ともに暗殺と推定されます。もちろん計画し、実行したのは、「安全地帯」吉野に「隠棲」して、最愛の息子草壁を殺害され、恨み骨髄の鸕野讃良皇后と、義理の兄弟にあたる正当なる草壁皇子に期待していた藤原不比等であることはいうまでもありません)と高市持統朝宮殿、さらに絶頂期に高市が夢見た、祖父舒明天皇以来の念願であった完成間際の「大官大寺」などの「高市ワールドの夢」のすべてに火が放たれ炎上し、高市持統朝は突然終焉を迎えます。さらに天武系を正当なる天皇として不動なる皇系を確立したい不比等が指揮して編纂された「日本書記」から大津も高市も抹殺されたと私は推測します。

 「天香久山」の天岩戸、月の誕生石、「大官大寺跡」などだけが今はひっそりと「裏の歴史」を抱えながら昔日の「高市ワールド」の面影を今に伝えてくれています。


高市・持統天皇が整備したと考えられる「天岩戸」

 その後「正史・日本書紀」は天武の子藤原不比等と、官僚としてじっと表に出ることなくしぶとく息を殺して生き抜いた同じ天武の息子舎人親王(とねりしんのう)と、稗田阿礼(ひえだのあれ)により改竄され、「日本書紀」はこうして成立し、天智天皇と天武天皇は兄弟にされ「万世一系」が確立し、天武系天皇家と藤原氏にとり都合の悪い反逆の大津朝、高市朝政権は完全に抹殺され、代わりに鸕野讃良皇后を持統天皇としたようです。ちなみに「古事記」を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)は墓も見つかり実在人物であったことが分かりましたが、もう一人の執筆者「稗田阿礼」はどこにも痕跡がありません。それは黒幕、藤原不比等のペンネームですというのが私の試論の結論となります。

 このように天武の息子、かつては鎌足の息子とされてきた、まさに天武天皇の血を継承する「皇族」藤原不比等主導による「歴史改竄」、すなはち天皇家と天武の血とその正統性を守る改竄が行われ、それが今の「日本書紀」だということになります。


天香久山から舒明天皇が国見されたとされる畝傍山

 このように「天香久山」を中心とする、高市持統天皇の夢見た「高市政権ワールド」は潰え去り、藤原不比等とその一族に支えられた鸕野讃良皇后の後援により、次期天武の血を継いだ文武政権に異をとなえた弓削皇子を排除、謀殺し無事に文武天皇の誕生となり、藤原不比等一族のさらなる支配の強化、繁栄につながって行きます。不比等の娘、光明子が聖武天皇の皇后となることに反対した、厄介な高市持統天皇の息子、長屋王を「変」により一族を一挙に抹殺、結果光明子が予定通り聖武皇后に格上げされ、その後天皇とその親族である藤原氏の二人三脚で歴史は回転してゆくことになります。

 「正史」が裏の権力闘争を書くことはありません。その「正史」をいくら研究しても正しい歴史はわかりません。それを正しく理解するには権力の裏の人間の「恐ろしさ」を推論する必要も生じます。それを推論する三回にわたる「試論1~3・天香久山・歴史の旅」でした。

 本稿は梅原猛著「黄泉の王(おおきみ)」と小林恵子著「高松塚被葬者考」「本当は怖ろしい万葉集1~2巻」を参考に著者の推論を推し進め、試論〈1~3〉としてまとめ、掲載しました。「真実は小説より奇なり」といいますが、まさにその通りでした。

 わたしの敬愛するお二人の歴史学者に感謝すると共に、お読みいただいた皆様に心より御礼申し上げます。

 なお、残りの「耳成山」「畝傍山」は取材、執筆が完了しましたら、掲載いたします。ご期待ください。こちらも面白そうです。


桜の美しい「耳成山」(藤原京より著者撮影)

※こちらをクリックしますと同じ著者によります「掌の骨董」にリンクできます。


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