文化講座
第6回 庶民の街 東京・中野を歩く(1回目)
中野のシンボル「新井薬師寺」と美しい桜
今回は東京の庶民の街、中野を2回に分けて取り上げます。東京の庶民の街といいますと浅草が代表的な街と思われる方がおられると思いますが、今や浅草は東京を代表する一大観光地で、飲食店も一見大衆向けの安そうな店に見えて、実はそうではないところも多々あり驚く時があります。昔の銘店の味を資本が飲み込み、外人好みに淘汰されつつある浅草は、私にはとても寂しく思われます。
大きく変化した環境の中の浅草の三社祭の神輿
六区も永井荷風の愛した江戸情緒のある昔の面影はもうありません。また町の紹介をするには、年季の入った長期取材が必要ですし、特に飲食店の取材は、昔からの店と今の新しい店の味を「舌」で知らないとできません。また何が美味しく、お勧めかをきちんとテレビ取材しているかというと、それもあやしいですね。テレビの特番やグルメ本で紹介する店の場合は、広告掲載費をもらって、店の言うまま紹介するケースも多く、とても視聴者に最良のお店を紹介する内容とはいえない場合も多く、報道のモラルを思うと安易な取材でガッカリすることも多いものです。「資本主義」という言葉を改めて考えてしまいます。コロナをきっかけに、世の中は大きく変貌をとげるに違いありません。
中野区役所横の「生類憐れみの令」の犬の記念碑
今回中野を紹介する私は実は中野で生まれ、育ち、中野で仕事して来ました。多くの店の栄枯盛衰をこの眼と舌で見守ってきました。店の歴史、人気度、値段の安い高い、旨いか不味いか、衰退する店、繁栄する店、自分で体験してますし、店からは広告費をいただいてませんから、公平に書きたいことが書けるメリットはあります。読者の皆様にはその方が参考になるとともに、おもしろいと思います。
コロナでしばらくはコントロールされてはいますが、収束に向かいましたら、ぜひ東京のこれまでの名所には観光でお出かけいただきたいし、是非たくさん見学していただきたいと思います。やはり一度は観るべきところ、食べるべき味は体験いただかないといけません。ただこういう言葉もあります。「名物にうまいものなし」
この連載に興味を持っていただける方々の中には東京にいらした記念に一応有名な店のお勧めを賞味していただきたいと思います。食だけは食べてみないとわからないからです。そうしていただいて、日程、時間に余裕がありましたら、私のお勧めする中野のお店にお寄りください。
中野北口、ここからメインストリート・サンモール商店街につながる。
中野の発展の歴史に話をもどしますが、江戸時代は南に青梅街道があり、街道沿いに鍋釜の製作販売で発展した通称「鍋屋横丁」の名称だけ残っています。同時に「お犬様」で多くの役人、医師の移住により発展し、さらに甲武鉄道の中野駅ができたことが発展に拍車を掛けました。五代将軍綱吉が戌年生まれから、犬を保護するため広大な土地に柵で囲って保護したためこの地域は「囲町」と呼ばれ、私が過ごした昭和の時代までその地名はありました。いまは中野四丁目と変わっています。また「囲町」の隣には「桃園町」があり、桜の隅田川、飛鳥山と並び中野の桃が観賞されたようです。歴史ある名前は大切にしたいところですが、なくなるのは残念です。
また調べてみると、中野では味噌・醤油などの醸造業が栄え、今もその名残がありますし、美味しいです。また蕎麦粉の生産も盛んで、かなりの「通」の方でも、ご存知ありませんが、当時江戸の神田を中心に消費された蕎麦粉の大半は中野産蕎麦粉だったのです。
中野の蕎麦の老舗「更級蕎麦店」南口三菱銀行裏手。
明治になりそうした広大な土地を有効に使うために1896年に陸軍電信隊・鉄道隊・気球隊の施設が誘致され、続いて特殊諜報員養成機関(スパイ養成学校)有名な「陸軍中野学校」が作られました。中野は古くから地震に対して地盤が強いと言われ、学校施設誘致には良かったと言えます。あまり知られていないことですが、関東大震災で浅草を中心とした下町が壊滅的被害を受け余震の続く中、安全な中野に罹災民の大量流入があり、やがて生きる庶民の町中野の基盤が出来上がったようです。
今回紹介する中野駅北口商店街である「中野サンモール」の右手奥に広がる広大な飲食店街は驚くべき数にのぼります。関東大震災の浅草の被害者の避難地としての経緯で形成されて以来、繁栄して来たようです。次回は今も生き生きした中野を紹介いたします。とっておきの「中野うまいものガイド」もいたします。お楽しみに。
キリンビール本社のある中野区民憩いの広場・中野四季の森公園