文化講座
第45回 河内赤坂千早城の攻防

千早城登り口 前回は10年以上前でした。今回は猛暑の中、いきなりこの階段を見て「めげ」ました。
千早城の戦いが起こる鎌倉時代末期は、史上最強とも言われたフビライ汗支配の「モンゴル帝国」から日本が二度の侵攻(1274年(文永11)と1281年(弘安4)の二度)を受け、守りに徹した御家人たちは幕府から恩賞ももらえなかったこと、独裁色を強く打ち出す鎌倉幕府と無策な執権北条高時に反発を強めて行き、幕府の力は急速に低下していった時期にあたります。さらに幕府の支配力が及ばない無法地域に「悪党(支配者に従わない人たちという意味)」と呼ばれる武士等が台頭し始めていました。その中に河内の豪族、楠木正成(1294~1336年)がいました。

楠木正成像(描法から江戸時代前期ころの作と思われる。狩野二代作の印あり)古画より
そうした不安定な社会情勢の中、1318年(文保2年)に後醍醐天皇が即位します。後醍醐天皇は、鎌倉幕府の政治や天皇家に対する幕府のやり方に対し、かねてから不満を持っていたため、鎌倉幕府から政治の実権を奪い、自らの政治である「親政」を夢見て倒幕を計画します。しかし幕府の諜報網にかかり、何回かの失敗を経験したにもかかわらず、執念から倒幕計画を進めます。
その後、後醍醐天皇は尊良親王(たかよししんのう)と尊雲法親王(そんうんほっしんのう)の2皇子と密かに京を脱出し、笠置山で鎌倉幕府軍と対決するため、挙兵します。
一方、後醍醐天皇が行方不明になったことを知った幕府側は、情報を確認、笠置山に軍を派遣し「笠置山の戦い」が起こりました。鎌倉幕府側75,000人の軍勢に対し、後醍醐天皇側は、約3,000人の軍勢と数では圧倒的に不利な状況でしたが、笠置山は岩場としての急峻な崖によって守られた天然の要塞で、後醍醐天皇軍はその地の利を活かして反撃します。
この戦いの中、鎌倉幕府に不満を持っていた悪党・楠木正成が後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して挙兵。正成の参入で予想外の苦戦を強いられた幕府軍は、あわてて20万(かなり誇張された数といわれる)もの大軍を送り込んだといわれます。
しかし流石の後醍醐天皇軍も幕府の大軍に敗走し、天皇は笠置山からかろうじて逃げ出しましたが、逃亡中、幕府軍に捕まり、後醍醐天皇は廃帝とされ、1331年(元徳3年/元弘元年)、持明院統の「光厳天皇」が即位。捕えられた後醍醐天皇は、かつて後鳥羽上皇が「承久の乱」で流された絶海の隠岐島へ配流されました。しかしこうした一連の戦いは幕府軍に甚大な消耗、損失と権威の失墜をもたらし、鎌倉幕府は崩壊間近の様相を呈していました。
後醍醐天皇の流罪により倒幕計画は一旦頓挫しますが、楠木正成をはじめとした多くの者が戦いを継続し、倒幕の流れが収まることはありませんでした。
後醍醐天皇は隠岐に流罪になり、今や倒幕運動の旗頭となった息子、護良親王を追う二階堂貞藤(出家名は道蘊・どうおん)は慌ててその追捕に失敗、功をあせった二階堂軍はここなら簡単に落とせるだろうと楠木正成の立て籠もる千早城へと向かいました。

城の上から見た崖
ここからいよいよ千早城攻めを取り上げていきましょう。
元弘3年/正慶2年(1333年)2月27日。幕府軍による千早城への攻撃が始まりました。総大将は北条一族の出身である大仏貞直です。千早城に立て籠もる楠木軍は僅か1千人であるのに対し、幕府軍は180万人もの大軍でした。といっても、これは「太平記」の記述なので誇張があります。実際に私は千早城の回りを確認してきましたが、このような大軍が滞在できるような場所はありませんでした。
数を頼みにする幕府軍は、敵を侮って簡単に落とせると城壁を登り始めますが、かなり登って来た頃合いを見計らい、楠木軍はなんと城壁の上から、それまで貯めていた糞尿を柄杓で攻め手に掛けましたから、たまりません。鎧や刀、顔が糞尿まみれとなり、怒りとあまりの屈辱の中で幕府方の兵は次々と墜落死が続出、後続も糞尿を掛けられてはたまらんと戦意喪失して、やむなく退却、前例のない卑劣な攻撃に対して怒りに震え、悔し泣きしながら先祖伝来の鎧や太刀、戦いに備えて新調した真新しい兜や鎧、体を川で洗ったといいます。かつて義経がゲリラ戦法を使い、あり得ない一の谷逆落とし戦法や夜間の屋島急襲で大勝利しても、兄である頼朝や、その側近の梶原景時が卑怯な急襲は武士にあるまじき行為と義経を利用するだけ利用して、追い落としたといわれます。そうした「堂々」と戦う鎌倉幕府軍に比べて、戦力が極めて乏しい楠木軍が、戦を長引かせるためにはやむを得ない戦法であったようです。そのあたりが天皇や公家の戦いに対する考え方と違い、極めてリアルといえます。
そのうち、糞尿の蓄えがなくなったと見た幕府方は再び壁を登り始めました。すると今度は大きな岩をたくさん落とされ、たった1日で、裾野に待機していた兵士までも含め数千人が戦死したと伝えられています。軍奉行の長崎高貞が死傷者を記録しようとしたところ、その名前を記録するのに12人の書記が作業して3日かかったといい伝えられています。その後も炊飯に使用した米のとぎ汁を沸騰させて、熱湯撒きをしたりして幕府軍を戦意喪失に追い込みました。

千早城の一番高いところにある「本丸」の石垣跡
総大将たる大仏貞直は、千早城が常識を超えた、想像以上の難物であることを認めざるを得ませんでした。いたずらに被害を出さないためにもじっくりと作戦を練ろうと考えた貞直は、
「今後は総大将の許可なく合戦を行った者は罪に問う」とのお触れを出し、兵糧攻めに持ち込もうとしました。これにより、戦いはしばらく休戦状態となりました。
さらに大仏貞直が考えた作戦は千早城の水路を断つというものでした。千早城の東側には谷川があり、貞直は「楠木軍はここから水をとっているに違いない」と確信しました。
貞直の指示を受けた名越時見は、兵を率いて谷川を見張り、城から水を取りに降りてくる敵兵を見つけ次第討ち取ろうと待ち構えていましたが、いくら待っても来ません。千早城には「五所の秘水」という湧水があり、谷川に水を汲みに行く必要がなかったのでした。千早城は少人数で立て籠もるのに適した名城だったといえることから、現在日本の100名城に登録されています。

楠木軍が活躍した城の頂上
名越軍は、初め毎晩緊張しながらしっかりと見張りをしていましたが、攻めて来ない日が長く続くにつれ、つい気が緩んで来ます。そのチャンスを楠木正成は逃さず、ある夜、楠木軍の約300人が闇に紛れて城から下りて行き、名越軍に斬りかかりました。名越軍は大混乱に陥って退却し、楠木軍は名越軍の旗や大幕などを奪って城へ悠々と引き上げて行きました。
糞尿攻撃は城を構築する際に、既に考えられていて、トイレの位置を城の要所の武者返しの上になるように、計画されており防備軍がいつでも、糞尿攻撃できるように細工がしてあったようで、予定の作戦であったことが分かります。 熱湯掛け攻撃は、炊飯で使ったお米のとぎ汁を貯めて熱湯にして掛ける攻撃に使いました。 やがて楠木軍も兵糧が尽き、城にたくさん人数がいるように旗を立て、敵を釘付けにしたまま、裏山の間道を抜けて戦いを終えました。その間、鎌倉幕府は弱体化し、滅亡寸前に追い込まれていました。
楠木正成生誕の地
新田義貞が稲村が崎を突破して鎌倉に乱入、執権北条高時以下800人は自害、ここに鎌倉幕府はほろび、後醍醐も隠岐を脱出、夢にまでみた実権を得ます。「建武の親政」です。しかし政治になれていない天皇の治世は理想論が多く、不満を呼び、足利高氏の台頭を許しました。一旦は北畠顕家や義貞により足利高氏を九州に追いやりましたが、再度兵を整えて攻め上がって来ました。

楠木正成銅像(観心寺)
有名な正成と幼い長男(注1)、正行との「桜井の別れ」を経て、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に神戸・湊川の戦いで新田義貞と楠木正成の連合軍が、勢力を増した足利尊氏軍を迎え撃ち、兵力の多い足利軍が勝利。楠木軍は新田軍から離れて戦い、現在の「湊川神社」あたりで、奮戦むなしく自刃、全滅しました。正成の首は戻され、正成ゆかりの観心寺に「首塚」として今も残ります。
注1・この時正行は二十歳を越していたという説がある。仮にそうだとすると、跡取りとして正行を無駄に戦死させたくなく、温存した可能性は高い。
正成の首塚(観心寺)
正成の長男正行(まさつら)と弟の正儀(まさのり)は正成亡きあと、父の遺志を継いで、一族をよくまとめ、天皇につかえ、領地の保全に務め、可能な限り和平に道を探りました。ともに正成の血筋を引く、優れた武将としての誉高い生涯を送りました。

足利氏の執事の高師直との長い戦いの末、力尽き自刃した正行奮戦の地にある墓地
楠の木の側に埋葬されたという。東側から見ますと、当時の墓石らしき石が根に半分飲み込まれているのが確認できます。
河内赤坂千早城への交通
一番便利なのは車です。ナビを使い、赤坂千早城登り口を検索してください。駐車場は周辺や降り口前に有料駐車場があります。
電車・バス交通は(1)近鉄長野線「富田林駅」から(金剛バスに乗り換え「金剛山ロープウェイ行」に乗車 「金剛登山口」下車徒歩約30分)
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